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やがて、空気の変わる感覚があった。重苦しい闇が薄まり、かすかにではあるが、何かが見えた。
「……祠?」
小さな祠だった。ぐるりと注連縄が回され、「封」と赤い文字で書かれた白い布がぶら下がっている。
私はおそるおそる近寄り、様子を窺った。「封」と書かれているからには、何かが封印されているのだろう。もしかすると、これがこの闇の正体なのだろうか。ならば、これを破壊すればここから出られるかもしれない。
そう考えてそっと布に手を伸ばしたとき、背後から腕を掴まれた。
「ぎゃああああああ!」
「そこまで驚かなくてもよいだろう。俺といえど傷つくぞ」
手を振り払い飛び退る。背後には、派手な着物を纏った背の高い男がいた。ゾッとするほど赤い瞳を愉快そうにきらめかせて、私を見つめている。
「誰かがここまでたどり着いたのは何百年ぶりだったか。俺も久方ぶりに会話をする」
「あなたは……?」
「それにしても、封印を解こうとするとは面白い! 恐れを知らぬと見える」
「あの! あなたは誰ですか!」
楽しげに独り言を続ける男に向かって、私は声を張り上げる。男はきょとんとすると、顎に手を当ててしげしげと私の顔を覗き込んだ。
「なんと。この俺を知らぬのか」
「残念ながら。私は王禅寺深春と言います。あなたのお名前は?」
「王禅寺? 知らぬ家だな、新興か?」
「まあ……そうだと思います」
特に伝統のある家とは聞いていない。そもそも両親は駆け落ち同然に結婚したらしいので、私は祖父母や親戚に会ったこともない。
男はしばらく私を観察すると、笑顔で自己紹介をした。
「俺はここで眠るモノだ。名前はない。好きなように呼べ」
「ええ……」
なんと情報量の少ない自己紹介だろう。ここで眠る、とはどういう意味だろう。封印されているのか?
「この祠には何を封印しているんですか?」
「俺の名は?」
自分の名を他人に聞かないで欲しい。私は呻きながら、顔に手を当てた。
「それ、私が決めていいんですか」
「そうだ。名付けには大きな意味がある。早くしないか」
大きな意味があると言いながら急かしてくる男に、私は頭を抱えた。何かに名前を付けたことなんて一度もない。髪が黒いから「クロ」? そんな犬猫みたいなものでよいのか? 本当に困る。
悩んで俯いた私の視界に、男の着物が映った。黒地に華やかな柄が描かれた着物。その中の一つが妙に目に止まった。
「──椿」
「うん?」
「着物の柄から取って椿。これでどうでしょう」
男はぽかんと口を開けると、やがて肩を震わせて笑い始めた。腹を抱え、目に涙まで浮かべている。
「この俺を、そのような凡庸な名で呼ぶとはな!」
「すみませんねえ、センスがなくて……」
「よいよい。許す。椿。ふふっ、椿だと……」
何かツボに入ったらしいが、もう私は決めた。今からこの男は椿である。
「それで、この祠には何が封印されているんですか」
「ん? 俺だ」
「俺だ」
思わず復唱してしまった。つまり、この祠に封印されているのは椿ということだ。
「思いっきり外に出ているじゃないですか」
「まあな。こんなもので封印される俺ではない。ただ、長く生きるのにも飽いてきてなあ……しばらくここで眠っていたというわけよ」
「しばらくってどれくらいですか?」
「さあ。三百年くらいか? そういえば鎖国はどうなった?」
絶句してしまった。なんだこいつ。恐らく鬼なのだと思うが、生きるのに飽きたから三百年も眠るとは、尋常な精神をしていない。
「この国はとっくに開国して、海外との貿易も盛んですよ。それより、どうやったらここから出られますか」
「ふむ。深春はここから出たいのか」
「私はこの『還らずの牢』に無理やり入れられたんです。絶対に出て、目に物見せてやらないと気が済みません」
息巻く私に、椿は首を傾げた。
「ここで眠るのも悪くなかったがな……仕方がない。出るか」
「いや、出るのは私一人だけで、椿さんは眠っててもらって構わないですよ。方法さえ教えていただければ、勝手にやりますから」
「つれないことを言うな。そもそも、俺を起こしたのは深春だぞ」
「えっ!?」
その意味を問う間も無く、椿がふわりと私を抱きしめた。突然のことに硬直していると、周りにごう、と風が巻き起こる。反射的に目を閉じると、目蓋に薄明かりが透けた。
「え……?」
「ほら、終わったぞ」
目蓋を上げると、朱色の格子の前だった。目の前には地上へ繋がる階段がある。椿の周りに青い炎(鬼火?)が浮かんでおり、辺りを照らしていた。
「ここを登れば還ることができるだろう。俺が眠る前はそうだったぞ」
「あ、はい……ありがとうございます」
状況が掴めないまま、私はふらふらと階段をのぼった。椿が躓きそうな私を支えてくれる。行きとはひどく違う道行きだった。
扉を跳ね上げ、這々の体で部屋までたどり着く。当然のような顔で椿もついてくるので、私は呆然と見上げるしかなかった。
「あなたはどうするんですか」
「そうだなあ……百目鬼のものに知られるのも面倒だ。しばらく深春のところに世話になるか」
「ならないでください。というか、私も他人を世話できる状況じゃないですし」
「どういうことだ?」
私は椿に手短に事情を説明した。妹が鬼の花嫁に選ばれたこと、二週間後に結婚式を控えていること、それの準備のために私が付き人をしていること。
黙って聞いていた椿は、少し眉を寄せると、しゃがんで私と視線を合わせた。瞳の奥まで見透かすような眼差しで、何事か考えている。
「しかし深春は……いや、そうか」
にやりと笑うと、そうかそうかと頷いた。
「なるほどなあ。これは面白いことになりそうだ」
「椿さん?」
「分かった分かった。俺の方はなんとかしよう。深春は好きなようにするとよい」
そのまま部屋の襖を開け、私の腕を引いて廊下を歩く。屋敷の中心部に近づき、人の気配がしたところで、ぱっと手を離した。
「ではまた後でな」
「は?」
とん、と背中を押されてよろめいた隙に、椿の姿は掻き消えていた。
夢から醒めたように瞬いたが、あれは夢ではなかった。その証拠に、ちょうど通りかがった三人の鬼が、私を見つけて腰を抜かしていた。