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牢?
私が考える間も無く、襖が開いて三人の鬼たちがやって来た。時々屋敷で見かける、下働きの鬼だ。一緒に掃除をしたこともある。
彼らは一様に困惑した様子だった。一番先頭にいた鬼が、訝しげに聞く。
「本当によいのですか? あの牢は……」
「私は花嫁よ!? 花嫁の私がやれと言っているの。それ以上の理由がある?」
癇癪を起こした花恋の声に、鬼たちは恐縮しきった様子で頭を下げた。そのまま、三人がかりで私の体を取り押さえ、部屋から引きずり出す。
「離して! 何をする気!?」
「申し訳ありませんが、これも花嫁殿のご命令ですから……」
彼らの顔にも気の毒そうな表情が浮かんでいた。しかし私の腕や脚を掴む手にはかなりの力が込められており、離す気は毛頭なさそうだ。
「牢って何? 初耳なのだけど」
「通称『還らずの牢』と言われております。我々も新参なので、何があるかは分かりません。ただ、瓏樹様は決して入ってはならないと……。花嫁殿は、そう言い含められたのを覚えていらっしゃったのでしょう」
「入ったらどうなるの……」
「還ってきたものがおりませんので、中で何が待っているのかは分かりません。つい三十年前にも、一人の若い鬼がふざけて入ったそうですが、ついぞ還らなかったそうです」
皆痛ましげに話してくれる。私は震える体を抑え、顔を上げた。
「花恋がああ言ったからって、本当に牢に入れなくてもいいでしょう。適当に屋敷の外に放り出してくれたらいいわ。そうしたら私は家に帰るから」
そしてそのまま菜緒の家に駆け込もう。こんないかれた場所とは縁を切るのだ。
だが、願いも虚しく三人は首を横に振った。
「私たちが逃したと露見した場合、折檻を受けるのは我らです。それは受容できません」
「あっそう! 見ず知らずの人間の女が牢に入って死んでも、あなたたちの心は痛まないものね!」
「その通りです。私たちにとって大切なのは瓏樹様。そして瓏樹様が大切にされる花嫁殿。それ以外はどうでもよいのです」
済まなさそうな顔をしているものの、本心はそれなのだろう。さすが鬼。花嫁以外の人間の生死など気にもしない。
私の足は完全に萎えて、もはや完全に引きずられるままになっていた。通りがかる鬼たちは怪訝そうな目を向けるも、誰も止めようとはしない。
あまりに悔しかった。一時の激情に任せて、勝負所を間違えてしまった。いや、もしかしたら、元々勝負になどならなかったのかもしれない。あまねく愛される特別な女の子の花恋と、なんの取り柄もない私とでは……。
「あなたたち、私が牢から還ったら下僕にしてやるからね」
「そのときは如何様にも罰を。還られたら、の話ですが」
私の口からは、虚しい恨み言しか漏れない。鬼たちもそれを分かっているのか、淡々と返事をするのみだった。
牢は広大な屋敷の隅にあった。小さな部屋の床に扉があり、それを開けると、地下へ続く階段が伸びている。鬼たちに押し込まれるようにして階段を降りた。湿っぽく、黴くさい嫌な空気が充満している。鬼たちにとっても不安な場所らしい。皆黙り込んで、忙しなく周囲に目をやっていた。
しかし明かりは鬼が持つ手燭一つきりで、ほとんどが闇に呑まれている。暗がりに何が潜んでいようと、襲われれば反撃もできないだろう。私は小さく震えながら、手近にいる鬼にしがみついた。
階段を下り切ると、目の前に朱色の格子が現れた。
「こちらです」
鬼が鍵を取り出し、格子にかかる錠を開ける。ギィィ……と鈍い音がして、格子の一部が開いた。格子の向こうは完全に深い闇に沈んでおり、何が息を潜めているのか、杳として知れない。
「嫌……」
「早くしろ!」
鬼たちも早くここから出たいのだろう。三人がそれぞれ背中を押し、私は勢いよく牢の中に転がり込んだ。湿った床に激突する。起き上がる前に、背後で鍵のかかる音がした。
カチャン、という金属室の音が耳を貫く。その後は一目散に階段を駆け上がる足音。私は中途半端に身を起こしたまま、それを聞いていた。
沈黙。
暗闇。
静寂。
あらゆるものが私の体を、精神を蝕む。激しい心臓の鼓動を感じながら、立ち上がった。
「──この腐れ外道が! 絶対に殺してやるからな!」
叫ぶ。けれど声は反響することもなく、すぐに闇に吸い込まれていった。
いったん落ち着こう。何か猛獣のようなものがいて餌にされるのかと思ったが、そうではないらしい。私以外に気配はない。ならば、牢か鍵を壊し、出ていけばいいだけだ。
私は手探りで格子を探す。大した距離はないはずだ。一歩か二歩歩けば、すぐに行き当たるはず。
だが、予想に反して一向に格子に辿りつかない。腕を振り回しても、壁にぶつかる様子もない。既に三分ほど歩いているが、何にも出会わない。
まさか。
背筋に震えが走る。
この闇は永遠に続いていて、ここから出られないのではないか?
『還らずの牢』
ここに入れられたものは永久に彷徨い、飢えて死んだ後もその魂は牢に囚われたままなのだ。
気づくと私は四つん這いになって、ずるずると這いずっていた。足から力が抜け、立ち上がることは不可能だった。
闇。完全なる闇。
頭が痛い。なんの音もしないのに、激しい耳鳴りがする。口が乾き、せわしない息が漏れる。
闇が近づいてくる。
腕が折れた。そのまま私は床に顔から突っ込む。もはや床なのか天井なのかも分からない。前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのかも判然とせず、どこへ向かったらいいかも分からない。
萎えた四肢を叱咤して、じりじりと進む。どこが出口とも知れないが、私にできることはそれだけだった。
『本当にグズで何もできないのね』
『お姉ちゃんなんだからこれくらい我慢しなさい』
『花恋に謝れ』
『お姉ちゃんが悪いのよ』
様々な声が私に降り注ぐ。母、父、花恋。私を愛さなかった人たち。私を無価値と断じ、ゴミのように扱った人間ども。
「……うるさい」
幻聴と分かっていても、反応せずにはいられなかった。
結局のところ、私を構成するのはこれなのだ。憎悪、絶望、怨嗟。それらから生まれ落ちた殺意が、私なのだ。
身体中の血液が燃え立つような感覚に襲われる。闇の中で消えかかっていた自我が、急速に拡大する。
「私を害するものは消えろ! お前たちなんかに殺されてたまるか! 私はここにいるんだ!!」
血を吐くように叫びなから、足を踏ん張って立ち上がる。天地がはっきりする。前後も分かる。出口は不明だが、歩き続ければ辿り着けるだろう。
私は必ず還るのだ。私を踏みにじった者どもに遭うために。
足を踏み出す。あれほど恐ろしかった闇も、目を見開いていればなんてことはなかった。足の裏には床がある。手に硬いものが触れる。壁だ。これを辿っていけばやがて出口が見えるだろう。
私は手の感触を頼りに、黙々と歩き続けた。




