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百目鬼の家に来て三日。私は花恋の世話に雑用に家事にと働き通しで、倒れそうだった。
「ねえお姉ちゃん、このドレスどう? 似合う?」
「似合うわ」
「あっ、やっぱりこっちの方がいいかも。お色直しで両方着ようかな。うーん、でもこれもあれも可愛いし、どうしよう!」
今日はドレス選びだった。百目鬼家の一室に白い洪水のように大量のウエディングドレスが雪崩れ込み、花恋はそれを一着一着着てはああでもないこうでもないと楽しげにはしゃぐのだった。
と、襖の向こうから、沙一が声をかけてきた。
「瓏樹様がお越しです。襖を開けてもよろしいでしょうか」
花恋はドレスを着ている。問題ない、と返事をした。
襖が開けられ、瓏樹が現れる。その目に花恋の姿が映った瞬間、愛おしそうに瞳が蕩けた。
「花恋、気に入ったウエディングドレスはあったか」
「えーん、素敵なドレスがありすぎて迷っちゃいます。瓏樹さんはどれがお好みですか?」
花恋がドレスを着たまま瓏樹の腕に飛び込む。長い裾を躓かないように軽く持ち上げるのはもちろん私の役目だ。
瓏樹は軽々と花恋を抱きとめると、そっと額に口付けた。
「お前はなんでも似合う。好きなものを好きなだけ着ればいい」
「本当ですかー? いいなって思うのが十三着あってぇ。これからも増えそうなんですっ」
「全て着ればいい」
何時間結婚式やるつもりだよ。
げんなりしながら部屋の入り口を見ると、胡散臭い笑顔の沙一が控えている。彼はこの状況をどう思っているのだろう。私はそっと花恋から離れ、沙一に近づいた。
「どうしました? トイレは向こうですよ」
「違います。あの、沙一さんは花恋達のことをどう思っているんですか?」
「さま、をつけなさい」
「は?」
「あなたはここではただの付き人なんですよ。私にも花嫁殿にも、敬意を表しなさい」
眼鏡の向こうから、冷たい視線が注がれる。私は頬の肉を噛み締めて気を落ち着け、笑顔を作って言い直した。
「沙一様は、花恋様と瓏樹様のことをどう思われているんですか?」
「もちろん、祝福すべきと思っておりますよ」
質問が悪く、つまらない答えしか返ってこなかった。私はめげずに問い続ける。
「瓏樹様は花恋様にはずいぶん甘くいらっしゃる。人間の基準で見ると、虫歯になりそうなほどです」
沙一がスッと表情を消した。
「鬼は花嫁を一途に愛するものです。力の強い鬼ほど、その傾向は顕著となります。百目鬼家の当主が務まるほどの強大な力を持つ瓏樹様であれば、当然のことですよ」
「そういうものなんですね……」
鬼が花嫁に一途というのは知っていたが、そこまでとは。
沙一は無表情のまま、低く続けた。
「鬼の花嫁選びに間違いはない。周りからどう見えていたとしても、それが『正解』なのです」
そして私に笑みを向けた。
「お分かりですね?」
「承知いたしました」
私も正確無比な笑顔を作り、沙一に頭を下げた。
◆◆◆
「と、いうわけで、私はなんとか生きているわ……」
「深春! もう、心配したよ!」
菜緒に電話できたのは百目鬼の家に来て五日後のことだった。毎日夜になると疲れてすぐに眠ってしまい、気力が残っていなかったのだ。
「花恋の結婚式まであと九日かあ。早く終わるといいね」
「本当よ……。まあこっちは狭いけど自分の部屋があるし、殴られないだけマシかも」
「マジで結婚式終わったらうちに来な!? もうあたしが迎えに行くから!」
菜緒の声が体に染み渡る。私は小さく笑って、「早く菜緒に会いたいよ」と言った。
「あたしも深春の無事な姿を見ないと安心できないよ! 花恋の結婚式って土曜日でしょ? あたし、終わったらその百目鬼ってやつの家まで行くよ。せめて月曜までうちに泊まりなよ!」
それはかなり素晴らしい案に思えた。
休みの日に友達の家に泊まるのは、不自然なことではない。私はスマホを握りしめ、こみ上げてくるものを押さえて頷いた。
「そうする。そうしたい」
「よし! 決まりね! 必要なものはあたしが用意しておくからさ、深春は五体満足で来てくれればいいから!」
元気な声に励まされる。私は電話口に呟いた。
「菜緒、本当にありがとう。中学のとき、菜緒に会えてよかった」
「えっ、なに急に照れるなー! ……でも、あたしもそう思ってるよ。あのとき深春に出会えてなかったら、今のあたしはなかったし」
懐かしむ声に目を閉じる。目蓋には、菜緒と友達になった日の情景が浮かんだ。
◆◆◆
菜緒は転校生だった。中学二年の五月という中途半端な時期に転校してきた彼女は、あまりクラスに馴染めていないようだった。私はといえば花恋が鬼の花嫁になったこともあり、皆から遠巻きにされていた。
ある日、美術の授業で肖像画を描く課題が出された。各々二人組を作ってお互いの顔を描くのだ。誰も組んでくれず困り果てた私に、菜緒が声をかけてくれた。
「よかったら、一緒に描かない?」
私には天の助けに見えた。一も二もなく頷き、向かい合って絵を描き始める。
「王禅寺さんって、あの王禅寺花恋さんと姉妹なの?」
狭い学校だ。花恋が鬼の花嫁というのは、すでに転校生である菜緒の耳にも届いていたらしい。
「うん、花恋は私の妹だよ」
「へえ、全然似てないね」
何気なく告げられたその言葉は、ざっくりと私の心を傷つけた。私は幼い頃から何度となく同じことを言われてきた。花恋はお母さんに似て可愛いのに、深春は誰にも似ていないね、と。
「よく、言われる」
なんとか言葉を絞り出した私に、菜緒は続けた。
「でも、似てない方がいいよね。誰かに似てるって辛いもん」
「辛い……?」
それは思ってもみないことだった。もし自分が母に似ていたら、花恋に似ていたら、私はもっと愛されていただろうか、と考えていた私には。
「そう。下手にきょうだいで似てると何かと投影されるでしょ。あたしはあたし以外の何者でもないのにさ。勝手に見る側がこっちに期待するの。あの人に似てるんだからって」
「それは……そうかも?」
もし私が花恋に似ていたら、母は私を可愛がってくれたかもしれない。可愛がってはくれなかったかもしれない。それはもう、私がこの顔で生まれてきた以上、分からないことだ。
菜緒は言葉を紡ぐ。
「しかも、花恋さんは鬼の花嫁だからさ。もしこれで顔が似てたら、なんで自分が花嫁に選ばれなかったんだろうって考えない? そんなつまんないことでうじうじ悩む羽目になるの、嫌だと思うな」
「つまんないことかな?」
「つまんないに決まってるよ。もっと楽しいことは他にたくさんあるんだから」
そうして菜緒は笑った。
「あたしもさあ、そっくりのお姉ちゃんがいるんだよね。お姉ちゃんは頭良くて、なんでもできるの。けど、あたしはそうじゃなくて、運動はダメだし、音痴だし、学校のテストもイマイチなの。そうすると、家族からはこんなに似てるのに、なんでお前は出来ないんだろうとか言われるの。うんざりだよ。あたしはあたしで、やりたいこともあるのに」
「やりたいこと?」
「そ。あたし、絵を描くのが好きだから、美大に行きたいんだよね。これはお姉ちゃんにも負けないと思う。けど、お父さんは、お姉ちゃんはそうじゃなかったからって理由で反対するの。これであたしがお姉ちゃんに全然似てなかったら、もっと簡単に説得できたのかもって思うよ」
菜緒はさらさらとスケッチブックに鉛筆を走らせる。それを覗きこむと、こちらを強い瞳で見つめる私と目が合った。
「うわ、上手!」
「へへ、ありがとう」
照れ臭そうに頭を掻く。その顔を見て、私の中で何かが腑に落ちた。私はずっと、家族の誰にも似ていないことを気にしていたけれど、それはある意味幸いだったのかもしれない。少なくとも、私が私であるためには。
おずおずと切り出す。
「あのさ、私のこと、深春って呼んでよ。私も桂木さんのこと、菜緒って呼びたいから」
菜緒を見つめる。私とは全く異なった視点を持つ彼女が、とても眩しかった。
菜緒が目を丸くする。そして、満面の笑みで頷いた。
「うん。よろしく、深春」
こうして私たちは友達になったのだ。
◆◆◆
「お姉ちゃん! 早く来て!」
回想は甲高い声で破られた。花恋が私を呼んでいる。電話の向こうにも届いたのだろう、菜緒が暗い声で言った。
「お嫁様が呼んでるね」
「ごめん、行かなきゃ」
「気にしないで! 結婚式の日は迎えに行くから、忘れないでね」
今はそれだけが希望だ。もう一度菜緒にお礼を言い、電話を切った。不承不承花恋のもとへ向かう。
「花恋、どうかした?」
「喉が渇いたの! 早くお茶持ってきて!」
そんなことか。花恋の座る座卓には、お茶の入ったガラスのピッチャーが置いてある。空のグラスは花恋の手元だ。自分でやれ、という思いを堪えながら、私はグラスにお茶を注いで座卓に置いた。
「はい」
花恋はその様子を見てクスクス笑っている。嫌な笑い方だった。
「ああお姉ちゃん。私、とっても楽しいわ。私は鬼の花嫁。ここの女主人になるのよ。ただ選ばれただけで! ただ愛されただけで! この広い家も、美しい男も、全てが手に入るのよ」
「花恋、一体何を考えているの」
顔をしかめる。花恋は笑いながら、私を見つめた。
「私はお姉ちゃんとは違うの。何もかもに愛されて、大切にされて、生きていくの。親にさえ愛されない惨めなお姉ちゃんとは違ってね」
「ああそう。確かに、私は両親や花恋にとっては価値のない人間かもしれない。だけど、私は私を大切にしてくれる人がいることを知っている。だから、他のことはどうでもいいのよ」
「へえ? お姉ちゃんを大切にしてくれる人? あの桂木菜緒っていう友達?」
「花恋には関係のないことよ」
「ふふ、当たりなんだ。お姉ちゃんを大事にしてくれるのは、ただの友達一人なんだ。ばっかみたい。たかが高校の友達をそんなに惜しむなんて。どうせ卒業したら、離れ離れになって縁なんて切れるのに。ずっと友達でいようだなんて言葉だけよ? きっとその友達はお姉ちゃんを忘れるに決まってるのに」
完全に頭に来た。脳裏に菜緒の顔が、言葉が過ぎる。
ああそうだ。いつか疎遠になる日がくるかもしれない。今が全部思い出になって、時々顔が思い浮かんで、でも繁雑な日常に約束もかき消されて、全てを忘れ去ってしまう日がくるかもしれない。
だけど、そんな悲しい未来予測に、今の菜緒と私の思いが、祈りが、誠実さが、無意味だと断じられるのは許せない。
菜緒は言ったのだ。一緒に年を取ろうと。
私は出会ったのだ。私が私である幸福と。
それを菜緒が忘れてしまったって、遠く離れてしまったって、あのときそう言ってくれたのは、紛れもない事実なのだ。
私が忘れない限り、私が年を取っていく限り、あのとき私が価値あるものだと大切にされたこと、私が価値あると感じたことは変わらない。変わらないのだ。
それをこの女は土足で踏みにじった。
体が熱くなる。目の前が真っ赤になる。私は震えながら、眼前で笑う花恋を睨みつけた。
「花恋は愛されることが当然だと思ってる。永遠だと考えている」
「だってその通りだもの。私は愛される星の下に生まれたの。こんなに綺麗で、素直で、可愛い女の子を愛さないことがある?」
「それはこれを見てもそう言えるかしらね」
私はスマホを掲げた。そこには花恋と男子生徒が腕を組んだりキスをしたりしている写真が写っている。あの相談者の女子生徒からもらった証拠写真だ。プリクラには日付も入っている。花恋が鬼の花嫁となってからも、男たちと遊んでいた証拠が。
花恋の顔が一気に青ざめる。目を見開き、唇をわななかせ、低い声で命令した。
「返しなさい」
「何か言った?」
「それを返せと言っているの!」
「よく聞こえないわね」
花恋を見据えてくすくす笑う。スマホを奪おうと飛びかかってくるのをひらりと躱した。
「なんでお姉ちゃんがそれを……!」
「さあ、なぜでしょう? 胸に手を当てて考えてみたら?」
花恋は悔しげに唇を噛んでいる。私はポケットにスマホをしまいこみ、完全に臨戦態勢を取る。
絶対に退く気はなかった。証拠写真自体は菜緒の手元にもあり、私に何かあった場合は世に広めて欲しいと頼んであるが、こんなことで大切な友人を巻き込みたくなかった。
それにこれは私の戦いだ。私が決着をつけるべきだった。
「なんでこんな……お姉ちゃんごときに……」
花恋がぶつぶつと呟いている。綺麗に整えられた髪を見るも無残にかきむしり、愛らしい顔を歪めて呻いていたが、やがてその面に嫌な笑いが滲み出した。
「ふ、ふふ……あはははは! お姉ちゃん、こんなことで私に勝ったつもり?」
私は答えず、花恋を注視する。今度は何をやらかすつもりだろう。彼女の欲には底がなく、行動力には枷がない。予想の斜め上を常に驀進する人間だった。
「あのねえ、私は花嫁なのよ? お姉ちゃんはただの付き人。そしてここは鬼の屋敷。それなのによく私を馬鹿にしてくれたわね?」
そう吐き捨てると、手を叩いて人を呼んだ。
「誰か来て! この女を摘み出して、牢に入れて!」