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 幼い頃の夢を見た。


 確かその日は珍しく母と二人きりだった。休日はいつも父と母と妹の三人でどこかに出かけるのにもかかわらず、父と妹だけで外出し、母と私は家で留守番していたのだ。

 私は母と二人きりになれるだけで嬉しかった。例え蔑みの目で見られるとしても、憂さ晴らしに殴られるとしても、幼い私は愚かにも、母にいつか愛されると信じて、母を慕っていたのだ。

 記憶の中の母が手招きする。私は無邪気に、でも殴られても致命的な場所には当たらないよう、少しだけ用心して駆け寄る。


「お母さん、なあに?」


 母はなんと微笑んで、近寄った私の頬を両手で包んだ。私の顔を覗きこむようにして、何かを確かめている。


「どうしたの? わたし、わるいことした?」


 母を怒らせているのではないかと常に不安だった。彼女は理由なく不機嫌になり、私から食事を抜いたからだ。

 母は優しい手つきで私の頭を撫でると、首を横に振った。


「お母さん、どうしてわたしばっかりぶつの? わたしがわるいこだから?」


 母のいつもとは異なる雰囲気に、私もつい、いつもとは異なる質問をした。ずっとずっと気になっていて、聞けなかったことだった。

 母は目を細めると、私の耳に唇を近づけて声を吹き込んだ。


「深春、あなたは××にならなくてはならないからよ。いいわね?」


 あの時、母はなんと言ったのだろう。とても重要なことだった気がするのに。もう少しで何かを思い出せそうなのに──。


 夢の中で手を伸ばしたとき、体に衝撃を受けて、私は目を覚ました。


◆◆◆


「深春。早く起きて、朝ご飯を作りなさい」


 母が私を見下ろしている。その表情は逆光になっていてよく分からないが、笑顔ではないだろう。母が私に笑顔を向けたことは、生まれて十七年経つが、一度もない。

 どうやら蹴飛ばされたようだった。痛む腹部を押さえながら、私はよろよろと起き上がる。


「……はい。分かりました」


 返事をし、私はキッチンへ向かった。私の寝床とはキッチンに近い廊下に敷かれた布団のことを指し、私物は全て階段下の物置に収納されている。


 朝は戦場だ。

 パンをトースターに突っ込み、その間にベーコンと卵を一緒に焼く。お湯が沸いたら、父用にコーヒーを、母用に紅茶を淹れ、そして妹用にココアを作る。妹がのんびり起きて、身支度を整えて食卓につく頃には、全てが完璧に揃っていなくてはならない。そうしなければ、妹の機嫌を損ね、私が両親から怒られる。


 なぜなら。

 なぜなら、私の妹である王禅寺花恋は、我が家の希望であり、可愛い我が子であり、自慢の娘であり、そして何より、鬼の花嫁だからだ。


 鬼。


 現代社会においては、一般的となった超常の生き物。人間よりも長い時を生き、優れた身体能力を持ち、深い知恵と魔法じみた異形の力を駆使して、人間社会を支配するもの。


 そんなものがこの世界には存在するのだ。

 鬼は数少なく、しかも鬼同士の交配では子が生まれない。鬼を産めるのはなぜか人間の女だけであり、しかも強い鬼を産むには鬼自身が選んだ花嫁である必要がある。


 鬼が何をもって花嫁を選ぶのか、詳細は明かされていない。鬼自身にも分かっていないらしい。ただ、鬼はその本能でもって花嫁を見つけ、そして一度手に入れたら離しはしない。


 そんな噂がまことしやかに囁かれ、一部のロマンチックな人間は、まるで運命だとはしゃいだ。


 そんな大層なものに、なんと私の妹は選ばれたのだ。

 しかも、鬼の中でも力が強く、世間にも名を馳せる名家、百目鬼家の当主・百目鬼瓏樹の花嫁に、だ。


 選ばれたのは三年前。花恋がまだたったの十三歳、私が十四歳のときのことだった。そのときの両親の喜びようといったら、いっそ滑稽なほどだった。


 特に母親は狂喜し、美しいかんばせを誇らしげに輝かせた花恋を抱きしめ、泣きながら意味の通らない言葉を喚いていた。父親も通帳を見ながら、「百目鬼家から結納金が振り込まれている! これで家のローンを返済できるぞ!」と踊っていた。


 その日は私の誕生日だったが、もちろん誕生祝いなどは行われず、花恋を褒め称える会が急遽開催された。


 ご多分に漏れず、なぜ花恋が選ばれたのかは分からない。


 通学途中の彼女を、偶然瓏樹が見かけ、その日のうちに花恋を花嫁にしたいと我が家に押し掛けてきたのだ。私はその様子を母に押し込められた物置から見ていただけだが、まあ凄かった。


 黒塗りのリムジンが家の前に止まったかと思うと、中から背の高い、艶やかな黒髪を束ねた美しい男が現れ、突然呼び出されてきょとんとしている花恋に跪いたのだ。そのまま彼女の手を取り甲に口づけ、「ぜひあなたを我が花嫁として迎えたい。──愛している」と息もつかせぬ求婚。


 あまりの出来事に私は呆然とするのみだったが、さすが花嫁に選ばれる少女は格が違う。ぱっちりした二重の眼を瞬かせると、次の瞬間にはその愛らしい顔を綻ばせ、「──はい。喜んで、お受けいたします」と瓏樹の手を握り返したのだ。そして彼女は鬼の花嫁となった。


 見ている方が気の狂いそうなスピード感だったが、鬼にとっては通常運転のようだった。求婚が成功した瞬間、どこからかお付きの鬼達が現れ、「当主殿、おめでとうございます!」だの「美しき花嫁に祝福を!」だの騒ぎ始めたからだ。


 そのお祝いムードにあてられたのか、はたまた鬼の花嫁になる利益や栄誉に頭が回ったのか、突然の求婚劇に絶句していた両親も、花恋に向かって「おめでとう!」と声をかけていた。確かに正気なのは自分一人のはずなのに、自分の正気を疑うしかない、混沌とした場だった。


 ただ、妹を見ていれば、花嫁に選ばれた理由はなんとなく分かる。

 彼女は私とは似ても似つかない美少女で、スタイルもよく、昔から要領が良かった。性格も明るく、素直で、愛されることに慣れていた。恋人も途切れたことはなく、いつも周りには誰かがいる。そんな少女だった。


 トースターがチン、と軽い音を立てる。私は物思いから覚め、朝食作りに集中した。そろそろ花恋がリビングに現れる。ココアを出しておかないと、とマグカップを手に持ったとき、リビングのドアが開いた。


「おはよう、お母さん、お父さん」


 花恋だ。

 既に制服に着替え、身支度を整え終えている。


 緩いウェーブのかかった長い髪を背中に流し、可愛らしい花のモチーフの付いたカチューシャをつけている。大きな瞳は朝日に輝き、白磁の頰は淡く色づいていた。さくらんぼのようなつやつやした唇は弧を描き、彼女をより一層魅力的に見せている。華奢な手足はすらりと伸び、それに比して豊かな胸元で、セーラー服のリボンが揺れていた。


「おはよう、花恋」


 私が食事を用意しているときには声もかけずに食卓に座っていた父と母が、花恋に挨拶をする。


 私も声をかけようか迷ったが、誰一人としてこちらに目を向けなかったので、黙ってココアをダイニングテーブルに置くに留めた。花恋は当然のように食卓につき、ココアを飲む。そして顔をしかめると、「にがーい!」と甲高い声を上げた。


「もう! ぜんっぜん砂糖が足りてない! 私はもっと甘いのが好きって知ってるでしょ?」


 確かに今日のココアは甘さ控えめだ。でもそれは。


「花恋が昨日、ダイエットするから、砂糖を少なくしてって……」


「なにそれ、私が悪いってこと? お母さん、お父さん、聞いた? お姉ちゃんが間違えたのに、私が悪いっていうのよ!」


 花恋がその愛らしい顔を両親に向ける。母はため息を吐き、


「全く、この子は何もできないグズなんだから」と言い、

 父は厳しい顔つきで、


「深春、花恋に謝りなさい」


 と私に促した。

 理不尽だ。だが、私に選択肢は残されていない。ここで逆らっても、味方は一人もいないのだから。さっさと形だけでも謝ってしまった方が楽だ。


 私はしおらしい表情を作り、花恋に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい」


「心がこもってなーい。お姉ちゃんはいっつもそう。自分が悪いと思ってないでしょ? ま、私は優しいから許してあげるけど。ホラ、早く作り直して!」


 そのままマグカップを私に投げつける。熱いココアをもろに被り、顔を庇った腕が火傷で痛んだが、誰もそんなことは気にしない。床に飛び散ったココアを片付けるのも、ココアの染みた服を洗濯するのも全て私の仕事だが、彼女達にとってそんなつまらないことは気にするに値しないのだ。


 歯に沁みそうなほど大量の砂糖を入れたココアを作りながら、私は心の中で呟いた。


 ──いつか絶対に殺してやる。

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