No.07 「ねこ」
子どものころ、あたしは「ねこ」と沢山の約束をした。
お魚はのこさずたべること。
またたびは最後の手段にすること。
見栄を張っても、意地は張らないこと。
うそをつくときは、最後までつきとおすこと。
しなやかにジンセイを生きること、とか。
じつに沢山の約束を結んだ。
「ねこ」はいつも面白がって、戯れに約束を作ってくれた。でも結局、いつも不真面目だった。
あたしがどれだけその約束に心酔し、従って生きようとも、「まだそんな約束守ってるの」なんて言うやつだった。あたしを馬鹿にしては、せせら笑うばかりだった気がする。
そう。じぶんで作ったくせに、「ねこ」は毎回堂々と約束を軽んじ、破っていたのだ。
あたしは、その裏切りにいつも憤慨したのだけど、もちろん、反省のカケラも見せてはくれなかった。ただの一度も。
人を食ったような態度とはこのことだと、何度思ったことか。
「ねこ」は“約束”の守りのなかへ、一歩たりとも入ることはなかったし、縛られることも厭った。基準は面白いか、面白くないかのふたつだけ。それが「ねこ」をいかに自由にしていたか、あのころは気付かなかった。
そして、「ねこ」はいつもいつもあたしを哀れんでいた。
「ねこ」と結んだ約束こそが、人生の教本だと信じて疑わず、生きることに楽をしようとしたあたしを。心底残念そうに。
「かわいそうな子。こわがりの赤ちゃん」
約束破りをなじるあたしに、いつもそれだけ言っては消えてしまうのだった。
「ねこ」が姿を現さなくなってから、もう何年経っただろう。
正直、「ねこ」がいなくても生きていけているという事実に、あたしは驚いている。
あのころは、「ねこ」と「ねこ」との約束が、あたしの全てだったのに。
日の光がかげったとき、草の影が揺れたとき、風がそよと流れたとき、「ねこ」はいる。存在を感じる。あのころよりも、ずっとずっと近くに。
それだけで、あたしは十分に満足している。
ふしぎだ。約束を熱心に守りつづけたあのころより、今はずっと気持ちが安らいでいる。
いま、ここで「ねこ」に会えたら、なんて声をかけてくれるのだろう。
すこしは、「こわがりの赤ちゃん」から成長しているのだろうか。
面白いか、面白くないか、のふたつだけでは、さすがに人生を生きられないあたしは、不器用ながらもあたし自身の「基準」を探し始めている。
「ねこ」とかわした数々の約束は、いまもそのままのかたちで、のこっている。
けれど、それらの約束を破り続けた「ねこ」の態度こそ、いちばんの約束だったように思うのだ。
「ねこ」がその基準に従って生きたように、あたしも、あたしの基準で生きる。
そうおもいながら今日も、こわがらずに、前を向く。