No.06 この世でいちばん優しいもの
「この世でいちばん優しいものになりたい」
彼は、そう呟いた。
たぶんわかっていたとおもう。
そういう人だってこと。彼は。
昔から彼は、傷つくことには無頓着なくせに、傷つけることには人一倍敏感だった。
毎日、毎日とても慎重に、だれからも距離をとって生きていた。腕をまっすぐ伸ばしても、握りこんだナイフが痛みをつくりださない程度の距離で慎重に。
だから彼は、傷つけることを強要させるすべてを憎んでいた節がある。
約束とか、しがらみとか仕事とか恋愛とか愛情とか。すべて。
そして、この世でいちばん優しいものになるには、まず生きることを放棄しなきゃいけないってことも、痛ましいほどよく理解してた。
あたしは、わがままなんだろうか。
冷たい雨のなかで、ぼうっと、おもう。
車のクラクションがどこか遠くで聞こえた。街のネオンは雨に湿って、なんだか滲みかすんでみえる。車のせいで跳ね飛ぶみずしぶきに足首を濡らされて、それでもまだぼうっと突っ立っていた。
悔しいくらいの苛立ちを、彼に感じ続けながら。
傷つけることくらい、覚悟しなさいよ。
いきる責任から、逃げようとしないでよ。
いくつもの叫びが、浮かんでは消える。
もうあたしも、彼に憎まれる対象だわ、なんて考え続けながら。
しばらく迷い、それでも濡れそぼった足に、力を込めた。そのまま勢いをつけて走り出す。
彼の頬を引っ叩いてやらない限り、もう憤りは収まりそうになかった。
さみしい夜のなかで彼をつかまえない限り、彼への不安は消えそうになかった。
いきていてほしいと伝えない限り、あたしは一生後悔するだろうと、確信していた。