人恋い
『 人恋い 』
二次元に置かれた二本の直線は平行でない限り、一度だけ交差し、その後は再び遭遇することはない。
人と人との巡り合いもどこか似ている。
かつて同じところに住み、睦まじく慣れ親しんだ者同士であっても、遠く離れて暮らせば、再び邂逅する機会は失われるものである。
しかし、人の生き方は直線ではなく、意志を持てば、曲線になる。
そして、曲線であれば、いつか遭遇するという機会は訪れる。
再会するその時、声をかけるか、或いは、かけないか。
巡り合ったその時を大事にするか、背を向けてしまうか。
初めの出会いはいつも偶然であり、本人同士の意志が働くことはないが、再会時には必ず意志が働く。
チャンスの女神には前髪しかない、と云われる。
懐かしい人との邂逅時も同じことである。
声をかける、或いは、気が付かない振りをする。
そこが、運命の分かれ目となる。
人は必ず老いる。
老いを意識すると、人は旅に出かけたがる。
センチメンタル・ジャーニーと称して、思い出深い地を訪ねる人は多い。
そして、懐かしい風景、或いは、懐かしい人に再会したいと思う。
しかし、それは、パンドラの箱を開けるようなものだ。
追憶、或いは、郷愁に誘われて、思い出の地を訪ねる。
すると、パンドラの箱からはいろいろなものが飛び出す。
喜び、哀しみ、怒り、楽しさ、・・・。
そして、最後に残るもの。
楽しい予感に満ちた『希望』であろうか、それとも、苦くやりきれない『失望』であろうか。
平成二十年六月初旬
佐藤洋一は新聞の小さな記事に目をとめた。
気象観測機器の自動化に伴い、地元にある測候所が十月から無人化されるという記事であった。
佐藤は新聞から眼を離し、窓の外を見遣った。
あの測候所が無人化されるのか、今は何人くらい勤務しているのだろうか、それが無人の測候所となってしまうのか、時代の風潮とやらで、お決まりの公務員人件費削減の一環か、懐かしい測候所だったが、と思った。
ふと、懐かしい顔が脳裏に蘇ってきた。
小学校時代の友達、中井正貴の色白の顔を思い浮かべた。
笑窪を見せて笑っていた。
もう、五十年近くなるのか。
中井は今、どうしている?
中井正貴はインターネットで気象庁のホームページを見ていた。
週に一度くらいはこのホームページを見る、それが中井の長年の習慣となっていた。
中井の注目を引いた報道発表が掲載されていた。
平成二十年六月六日付けの、『今年度の測候所の機械化・無人化について』という報道発表の中で、十月一日に十ヶ所の測候所が無人化されるとあり、対象となる富士山測候所、室戸岬などの測候所の中に、○○測候所という名前があった。
観測機器の自動化に伴う測候所の無人化は既に平成八年以降、六十八ヶ所にのぼっており、平成二十二年には全ての測候所を無人化するという計画のもと実施されているプロジェクトであり、そう驚くべきことではなかったが、○○測候所という名前は中井にとっては特別な名前であり、そのインターネットの報道記事を眺めながら、中井は暫く懐かしい追憶に浸った。
○○測候所の歴史はかなり古く、開設は明治四十三年(千九百十年)に遡り、現在の○○港に近い場所に移ったのが大正十二年(千九百二十三年)であり、歴史としては開設後九十八年、現在の場所に移設後も八十五年という時が流れている。
そして、公務員削減という時代の流れの中で、測候所の無人化が計画され、実施されている状況にあった。
○○測候所は、昔はF地方気象台の測候所で運輸省の所管であったが、現在は省庁統合により、国土交通省所管の気象庁に所属している。
○○測候所はまた、昭和三年以降、その地域のソメイヨシノ桜の開花発表という役目でも知られた測候所であった。
中井の父は、中央気象台附属測候技術官養成所を出て、この○○測候所に所長として赴任したのが昭和三十五年であり、それから二年足らずで東京に再び戻った。
中井正貴も両親と一緒に測候所に隣接する官舎に住み、○○小学校に二年ばかり通った。
報道発表には、国内四十六ヶ所の測候所無人化により、三百三十八人の人員が削減されるという記事も補足記事として掲載されていた。
平成二十一年九月中旬
中井正貴はJR・J線の特急電車の車窓から、沿線に柔らかく広がる田園風景をぼんやりと眺めながら、昭和三十五年当時の世相を思い出していた。
西暦で言えば、千九百六十年で何と言っても、日本は安保の年だった。
当時は小学校の五年生であった僕も安保のことはよく覚えている。
安保と言えば、大学に入学したのが昭和四十三年で、この時は七十年安保に向けて反対運動が活発に行われていた。
その当時は、昭和三十五年に発効された安保は六十年安保と呼ばれ、国会前のデモで亡くなった東大生・樺美智子さん追悼集会も全学連のセクト毎開催されるといった騒然とした政治情勢であった。
六十年安保では、安保反対を叫ぶデモ隊ごっこが小学生の遊びになっており、僕たちは深い意味も分からず、ただ、『安保、反対、安保、反対』と大きな声で言いながら、友達数人で列をつくり校庭を駆けていたものだ。
前の者の両肩を両手でつかみ、『安保、反対』の掛け声を威勢よくかけながら校庭をぐるぐると回っていた。
その頃は、日教組も強く、組合員の先生たちも僕たちのこの遊びを止めることは無かった。
六十年当時は安保反対という言葉を使っていたが、七十年になると、安保反対は安保粉砕という、より過激な言葉になると共に、反対運動もより過激な闘争に激化していった。
安保反対も、安保粉砕も最終的には敗北の道を歩んだ。
活動に参加した学生たちは苦い挫折を味わうこととなった。
六十年安保当時、流行った唄に、『アカシアの雨がやむとき』があった。
西田佐知子というほっそりとしたスタイルの綺麗な歌手が少しハスキーな乾いた声でけだるげに歌い、安保反対闘争で挫折した学生たちを含め、多くの人々の共感を得て、この歌は大ヒットした。
この年、昭和三十五年、千九百六十年という年は結構大きな出来事があった年であり、僕が覚えているだけでも相当ある。
チリ地震による大津波の発生、安保反対があり、岸内閣が倒れ、所得倍増計画の池田内閣が発足し、夏にはローマ・オリンピックが開催され、テレビのカラー放送が始まり、米国ではジョン・F・ケネディが大統領になった年である。
その他、確か、ダッコちゃんが大ブームになったのもこの年だったように記憶している。
四年前には、『もはや戦後ではない』という政府の経済白書の中の言葉が敗戦から復興した日本という国の繁栄を予感させる名文句として喧伝され、二年前には東京タワーが出来、一年前には皇太子が正田美智子さんと結婚され、ミッチー・ブームが起こり、そのパレードが中継放映されるということでテレビの普及が爆発的に起こった。
その四年後、昭和三十九年には新幹線が走り、東京オリンピックが開催され、日本の繁栄振りが世界にアピールされた。
日本全体が貧困を脱し、豊かさを享受し始めた時代でもあった。
テレビと言えば、三年後、日米衛星中継が始まった時、臨時ニュースとして流れたのが、ケネディ暗殺の報だった。
とても驚いたことを覚えている。
米国の若き希望の星、ケネディ大統領は就任から暗殺されるまで、僅か三年の期間しか大統領で居られなかったのだ。
僕はこの暗殺報道を聞いて、憧れていた国、米国の野蛮さにショックを受けると同時に、大変がっかりしたことを今でも覚えている。
I駅に着いた。
中井はホームに降り立ち、周囲を見渡した。
駅のすぐ近くに、ビジネスホテルらしい白っぽい大きな建物が見えた。
その建物を除けば、駅の周囲で目立つ建物はなく、殺風景で少し淋しい光景が広がっていた。
昔の面影は何一つ残されていない、もう少し、周囲は家々と緑に囲まれていると思っていたが。
中井はそう思った。
無理もない、もう五十年になるのだ。
かつての木造の鄙びた駅舎を期待する方が土台無理な話であるし、五十年という歳月はあまりにも長過ぎ、かつての風景は例外なく劇的な変貌を遂げているものだ。
中井は階段を上がり、改札口に出た。
そして、改札口を通り、エレベーターで駅出口に降りた。
出口に出て、周囲を見渡した。
今、駅の造りは標準化されているのであろうか、新しく造りかえられる地方の駅はどこの駅も皆同じように見える。
二階に改札と駅事務所、小さな売店があり、ホームと二階、二階と一階出口は階段、エスカレーター、 エレベーターといった組み合わせで結合されている。
駅建物の全体的な色調は白を基調として統一されており、五十年前の茶褐色の駅舎は今、白っぽい現代的な建物と化していた。
タクシー乗り場の方に出て、後ろを振り返ると、正面の壁には『JR I駅』という大きなロゴが取り付けられており、左には百メートルほど離れたところに、『ルートイン』という全国的なチェーン・ホテルが九階建ての大きな姿を見せていた。
このホテル・チェーンには随分とお世話になったものだ、と中井はホテルを見上げながら微笑んだ。
つい一年ほど前は出張の都度、頻繁に宿泊したこのホテル・チェーンの名前を見て、中井は自分が会社で担当した業務を懐かしく思い出していた。
会社で担当していた商売、というか職務が悪い、品質保証担当だもの。
製造して納入した製品の品質が悪ければ、製品品質の窓口として顧客からの連絡を受けて、直ちに顧客のところに赴かなければならない。
北は北海道から、南は九州、沖縄まで、日本全国、どこへでも行かなければならない。
朝一番に来い、と言う顧客の要望があれば、前泊しなければならず、その時はこういった駅近くのビジネスホテルに宿泊することとなる。
前泊し、何とか朝一番に行けば行ったで、待ち構えていた顧客からまず叱られた上で、可能な限り迅速な解決を求められる。
しんどい仕事だった。
まあそれでも、昔と比べたら随分と品質クレームは減ったものの、精神的にはキツイ因果な商売だったなあ、と中井は溜息交じりに思った。
早期退職した今は、そのような緊急事態とは無縁になり、悠々自適とまではいかないにしても、こうしてセンチメンタル・ジャーニーとやらを満喫出来る身分になった。
今回は還暦旅行として、家内も一人でのびのびと行ってらっしゃいと送り出してくれた。
六十歳より少し前に退職し、一年ほどぶらぶらとし、このように還暦旅行を楽しむのも悪くないものだ、と中井は思った。
駅から出ると、すぐ左に小さな人工池があり、中央に何やら島のレプリカが建っている。
『T島』と云う海鵜の生息地である島の何分の一かの縮尺レプリカだそうだ。
そう言えば、この島のことは昔何かの折に聞いたことがある。
O町とN町の間の小さな湾にある島だったはずだ。
海中からニョキっと立っている島と記憶しているが、果たしてどうだろう、僕の記憶も当てにはならないが。
家内からはいつも、あなた、この頃は少し健忘症気味よ、私はちゃんと覚えているのに、すっかり忘れてしまうなんて、と言われている僕の記憶だもの。
しかし、まあ、女の記憶力というのは素晴らしい、男はそう重要ではないと思ったことはすぐ忘れてしまうのに、女ときたら実に細かいことまでいつまでも覚えているものだ、と中井は思いながらニヤリとした。
駅の正面には、タクシー乗り場があり、その左側がバスの停留所となっている。
『新JB交通』という地元のバス会社の停留所だ。屋根が付いて、ベンチもある。
発着時間を見たら、少し待ち時間が長い、タクシーに乗ろうかと中井は思ったが、現在は何と言っても無職の身分だ、タクシーは贅沢だろう、と思い直し、バスを利用してO町に行くこととした。
暫くして、バスが来て、中井はバスに乗り込んだ。
乗客は数人足らずで閑散としたバスの中で、中井はバス中央の席に腰を下ろし、車窓から過ぎ去って行く景色を眺めた。
ほとんど記憶にない風景が後方に飛び去っていった。
暫く走ると大きな交差点に出た。
その交差点を横切り、狭い道に入った。
暫く行くと、急に展望が開け、青い空が目に入り、何本か工場の煙突が見えてきた。
赤白だんだら模様の煙突が一本、空中に大量の白い煙を吐き出していた。
ここらあたりは工業団地にでもなっているのだろうか。
昔は港の他は、工場なぞそれほどなかったように記憶しているが、と中井は思いながら、秋晴れの澄んだ空に白い煙を大量に吐き出している煙突を眺めた。
バスはO町に入った。
通りは閑散としており、人影は疎らだった。
通りに面した商店は多くがシャッターを閉ざしており、見るからにシャッター通りと呼ばれる淋しい様相を呈していた。
こんな淋しい通りではなかった。
昔も今同様、各商店の店の構えは小さかったものの、活気はあった。
道を歩く人も多く、パチンコ屋からは軍艦マーチが威勢よく流れていたし、商店からは買い物客と交わす声が明るく響いていた。
今、地方の町は軒並みこんな風になってしまった。
本当に元気を無くしているのだ。
『O案内所』というバス停で降りた。
バス停はJ銀行O支店という銀行の前にあった。
周囲の商店はほとんどがシャッターを閉ざしており、歩く人影もほとんど無かった。
中井は今バスが来た通りを戻り加減に歩いた。
少し歩いて、左手前方に見えた魚屋の角を左に曲がり、海方向の路地を歩いた。
段々と思いだしてきた。
途中、右に曲がる細い路地がある。
昔、ここから見えるところに、一軒の床屋があった。
しかし、探したが見当たらない。
昔、確かにこの路地の左側に一軒の理髪店があったはずだ。
愛子ちゃんの家だったのだ。
中井は立ち止り、右手の路地を見ながら過去を振り返った。
懐かしい顔が脳裏に甦った。
丸顔で大きな眼をした、お下げ髪の愛子の顔であった。
今、愛子ちゃんはどうしているだろう。
元気でいれば、僕同様還暦を迎えている。
もうすっかりいいお祖母ちゃんになっているはずだ。
孫の二、三人にでも囲まれて幸せに暮らしていることだろう。
そう言えば、佐藤君はどうしている?
愛子ちゃんのことを思うと、どうしても佐藤洋一君のことを思い出す。
洋一君とは二年間の付き合いだった。
小学の五年の春にこのO町に引っ越ししてきて、○○小学校に転校し、すぐ友達になり、六年を卒業した春休みに僕は父の転勤に伴ってここを去って東京に戻った。
洋一君が友達になってくれて、僕は本当に嬉しかった。
洋一君は頭が良くて、体も大きく強かった。
洋一君と友達になるまでは、僕は都会から来た生意気な転校生ということでクラスの者から苛められた。
ランドセルに生きたカマキリを入れられたり、机に『シスターボーイ』と落書きされたり、いろんな苛めを受けた。
でも、洋一君が友達になってくれてからは、そんな苛めは全然無くなった。
だって、級長で腕力も強い、言わば餓鬼大将だった洋一君に逆らう奴なんて居なかったから。
僕と洋一君は無二の親友となり、ほとんど毎日のように学校が終わった後、一緒に遊んだ。
そんな僕たちだったが、一度、愛子ちゃんのことで仲違いしたことがあった。
今思っても、洋一君が全面的に悪かった。
だって、僕が愛子ちゃんを好きだっていうことをクラスの者にばらしてしまったの
だから。
そこで、僕は洋一君に宣言してやった。
僕は君を他の誰よりも信用していたのに、君は僕の信頼を裏切った、だから、君とは金輪際絶交する、と。
その絶交状態は大体一週間程度は続いたろうか。
未来永劫、僕は洋一君と絶交するつもりで宣言したのだ。
でも、いつの間にか、絶交状態は解消され、僕たちは元の友達に戻った。
果て、どうして、元の親友に戻ったのだろう。
どうも、思い出せない。
何かのきっかけがあったはずだけど。
しょうがないな。この頃、忘れっぽくていけないや。
でも、最初に友達になった経緯は覚えている。
あの頃、ぺったと言っていた『めんこ』とか『ビー玉』は低学年の遊びで、高学年の僕たちの間では一時、軍事将棋、いや、軍人将棋といった方がいいか、それが流行っていた。
将棋の桝目の中で、大将、戦車、飛行機、スパイとかいった駒を使って遊ぶゲームだ。
駒の布陣で、人によっていろんな流儀があり、僕たちは夢中になって遊んだ。
しかし、僕は転校したてで皆から爪弾きにされていたから、僕と軍人将棋をしてくれる者なんか居なかった。
そんな或る日、放課後、学校の放送室の前を歩いていたら、室内で大きな歓声が起こった。
好奇心を起こし、何だろうと思って室内を覗き込んだら、洋一君たちが軍人将棋をしていた。
洋一君がスパイを上手に使って、敵の大将を見事にやっつけた直後だった。
洋一君は僕に気付き、少し僕を見詰めた。
僕はまた苛められるとかなわないと思い、そそくそとその場を去ろうとした。
その時、洋一君の声がした。
中井君、軍人将棋は出来るかい、と。
僕は何だかすごく嬉しくなって、思わず放送室の中に入って行った。
洋一君の他は驚いたような顔をしたが、洋一君は笑って、軍人将棋をやろうと言った。
快活そのものといった大きな声だった。
僕と洋一君は軍人将棋を始めた。
どちらが勝ったか、覚えていないが、僕はとても嬉しかった。
その晩、家に帰った父に友達が出来たことを告げた。
父も母も僕の話を聞き、喜んでくれた。
あっ、いけねえ、今でもあの時のことを思うと、涙が出てしまう。
年齢と共に、涙腺も緩むものなのか。
恥ずかしいものだな。
ここは洋一君の生まれ故郷だ。
今も住んでいるのか?
住んでいれば、会いたいものだ。
広い大通りに出た。
右に曲がると、右手斜め方向に測候所の建物が見えた。
昔は白い板壁の木造建築だったが今は建て替えられて、コンクリートの建物となっていた。
中井は感慨に耽りながら、測候所の周りをぐるりと歩いた。
中井が住んでいた所員用官舎は既に無く、官舎があった辺りは小さいが一戸建ての小奇麗な建売住宅が三軒ほど並んで建っていた。
ほぼ一周廻ったところに、測候所の門があり、表示板が嵌め込まれていた。
表示板はまだ新しく、『○○特別地域気象観測所』という表示となっていた。
門の正面には、白っぽい建物が玄関を見せて建っている。
二階建ての建物で、屋上には小屋があり、傍らに幾つかの気象観測用の機器が姿を見せていた。
門の右手は芝生になっており、白いフェンスに囲まれて、種々の観測設備が配置されていた。
昔はあのあたりに百葉箱があった、と中井は思った。
敷地の外れには桜の木が立っている。
この桜の木はこの地域の桜の開花宣言の木となっており、無人となった今でも、地元の測候所OBたちが協同して観察し、開花の状況を市役所等に知らせることとなっているとインターネットには出ていた。
こうして見ると、測候所の敷地はさほど広くはない、と中井は思った。
昔は、敷地が随分と広く見えたもので、洋一君が家に遊びに来ると、外に出て、キャッチボールとか、ドッチボールをして暗くなるまで遊んだものだ。
桜の花が咲くと、休日の時はお昼から所員たちがご馳走を持ち寄って、満開の桜の木の下で花見をしたり、平日も夕方になると、数人がお酒を飲みながら夜桜見物と洒落こんだものだ。
父も大声を立てて近所迷惑にならなければいいよ、と夜桜見物を許可していた。
再び、大通りに戻り、少し歩くと、信号のある交差点に出た。
佐藤洋一は三崎の中腹にあるマリン・ビレッジという名前の喫茶店から海を観ていた。
佐藤はこの店が好きで、そう頻繁とまではいかないにしても、とりたてて何もすることがない休日には、午後にふらっとこの店に立ち寄り、熱いコーヒーを飲みながらのんびりとした時間を過ごすことを楽しみとしていた。
何と言っても、眺望が素晴らしい。
佐藤が座っている窓際の大きな窓からO港が一望出来た。
この三崎というところは俺にとって、とても懐かしいところだ、と佐藤は思った。
磯と小さな浜辺があり、俺は小学校の時分は夏休みになると仲の良い友達と連れ立ってほとんど毎日のように遊びに来たものだった。友達か、と佐藤は思い、小学校の頃の親しかった友達の顔を何人か思い浮かべた。
そう言えば、中学校に入る前に転校していった奴で、中井正貴という友達が居たなあ。
秋晴れの青い空に白い雲が幾つか浮かんでおり、佐藤はぼんやりと眼下に広がる風景に眼を遣りながら、ふと小学校で同級であった中井正貴のことを思い出していた。
あいつは小学校五年の春に東京から転校してきた。
第一印象はすごく悪かった。
正直言って、なんだ、こいつは、と思った。
色が透き通るように白い奴で、女の子みたいな顔をしていた。
あの頃、美輪明宏がまだ丸山明宏と言っていた頃で彼が元祖だったか、『シスターボーイ』という言葉が流行っていて、正貴はまさにその言葉ぴったりの男の子だった。
俺たち色の黒い田舎の少年から見たら、やっかみ半分でまさに嫌悪すべき対象であった。
大体、よその町から来る転校生は妙に生意気に見えるもので、正貴も初めはそんな転校生の一人のように思えた。
そして、どことなく、田舎で暮らす俺たちを馬鹿にするような嫌味な態度をとっているようにも見えた。
まして、東京から来たということで、垢ぬけた仕草で標準語を綺麗に話す、というだけで俺たち男の子からは憎まれたものだ。
加えて、女の子からはどことなく尊敬の目、憧れの目で見られる正貴は俺たちから見たら、はっきり言えば、憎たらしい存在でしか無かったのだ。
少年は少年なりに嫉むものだし、底意地悪く扱うものなのだ。
少年少女は純粋なものだ、なんていうのは幻想でしか無い。
徹底的に意地悪をし、加減せず、苛めもする。
けれど、見るに見かねたのか、或る時、担任の女の先生が俺を呼んで注意した。
級長のあなたが先頭に立って、中井君を苛めてどうするの、むしろ苛めから中井君を守ってあげなくっちゃ、あなたはそういうことの出来る子と私は信じているのよ、と。
秘かに憧れていた女の先生にこう言われると、苛めにもそろそろ嫌気がさしていたこともあってか、また俺も女の人には弱いもので、よし、正貴を守ってやろう、それが級長の果たすべき役割だと心を入れ替えた。
少し、大袈裟な物言いになってしまったな。
初めはぎごちなかったが、俺は正貴と友達になった。
そして、俺と友達になることにより、正貴への苛めは無くなった。
或る時、正貴に誘われて俺は学校の帰り道に正貴の家に行った。
正貴のお父さんは測候所の所長さんで、正貴は所長さん用の官舎に住んでいた。
家族は両親と妹が一人、四人でその官舎に住んでいた。
官舎自体はもう随分と昔に無くなってしまい、今は建売みたいな住宅が跡地に建っているが、当時としては二階建てでかなりモダンな造りの家だった。
古びた俺の家から見たら、羨ましいような家に見えたものだった。
正貴に連れられ、玄関で正貴のお母さんに挨拶をして、二階の正貴の部屋に入った。
室内は八畳ほどある洋室で綺麗に整理されていて、大きな机と寝台があった。
寝台などと言うといささか古臭いが、当時としては、ベッドはまだ珍しい家具であり、俺の眼にはとても新鮮でいかにも快適なものに見えた。
正貴の話に依れば、畳の室は体に合わず、喘息みたいに咳がひどくなるということだった。
今から思うと、正貴はダニに対するアレルギーを持っており、畳に巣食うダニによって咳が止まらなくなってしまう体質の持ち主だったのだろう。
正貴の部屋には俺が見たみともないような玩具もあった。
一番びっくりしたのは、木の玩具だった。
今は、レゴと言って、プラスティック製の組み立て玩具があるが、昭和三十五年当時はそのようなプラスティックの玩具は無く、木かブリキ、或いは紙の玩具しか無かった。
プラスティックと言えば、セルロイドの人形があったに過ぎない時代だった。
正貴が遊ぼうと言って、押入れから取り出してきたのは、木の組み立て玩具だった。
いろんな形の木のパーツがあり、金属製の蝶ネジで連結し、様々な形が作れた。
とは言え、金属が使われており、幼児向けの幼稚なおもちゃでは無く、少し知的な創造
性が求められる玩具であった。
見たことも無いおもちゃにびっくりしている俺を尻目に正貴はいろいろと木片を組み合わせて、ロボットとか戦車とかを器用に作ってみせてくれた。
正貴に倣って、俺も夢中になっていろいろなものを作って遊んだ。
当時は、鉄腕アトムとか鉄人二十八号とかいったロボット漫画が全盛で、俺もロボットを作り、似ても似つかぬ形ではあったが、ほら、アトムだぜ、と言って正貴に見せ、悦に入っていた。
そんな俺の様子を見て、正貴は満足そうに笑っていた。
とにかく、俺たちは大の仲良しになり、学校の帰りはいろんなところに寄っては、夜になるまで遊んだ。
当時は、住宅地には必ず空き地があり、草が伸び放題生い茂っていた。
子供たちには格好の遊び場で、ちゃんばらをしたり、材木を集めてきては隠れ家と称して小屋を作り、中で漫画を読んだり、軍人将棋をしたりして夕方になるまで過ごしたものだった。
俺は近所の子供たちを集めて、餓鬼大将を気取っていたし、正貴は俺の客分として小屋の中でも上座を占めていた。
クラスに、醤油屋の息子がいた。
今でもこの町に住んでおり、先祖代々の醤油屋を経営しているが、なかなか商売の方は厳しいらしく、アパート経営という副業の方が収入になると、先日会ったら話していた。
店が小学校の前の大通りにあり、俺と正貴はそいつのところに行き、一緒にかくれんぼなぞをして遊んだこともあった。
醤油屋には味噌蔵もある。
醤油の副産物から味噌が出来るのか、味噌の副産物として醤油が出来るのか、知らないが、店の名前は醤油屋だから、醤油の副産物として味噌は位置付けられているのだろう。
まあ、それはともかく、その味噌蔵の中でかくれんぼをするのは結構楽しい遊びだった。
蔵の中は醤油とか味噌、或いは麹とかいった一種独特のにおいに満ちていたが、慣れればそう嫌なにおいでも無く、なによりもかくれんぼをするには絶好の暗さと広さがあった。
隠れる場所も俺たちの背丈より大きな木の樽が何十個もあり、その間に隠れるとか、樽の後ろの壁の隙間に隠れるとかすれば、そう簡単には見つけられるものではなかった。
鬼には順番でなったが、醤油屋の息子が鬼で、俺と正貴が隠れた時のことだった。
別々の場所に隠れるというのが普通であったが、その時は偶然俺が隠れた場所に正貴がやって来た。
鬼が来る時間となっており、もう別な場所も見つける余裕が無く、俺と正貴は同じところに体を寄せ合い、息を詰めて、そのまま隠れることとした。
場所は狭く、俺と正貴はぴったりと密着して、お互いの心臓の鼓動が聞こえるくらい体を寄せ合って隠れていた。
その時、普段は感じなかったが、正貴には独特の体臭があることに気付いた。
同様に、俺の体臭もあったに違いない。
正貴の体臭に俺の鼓動は激しくなった。
今、思ってもひどく官能的なひと時であったように記憶している。
別に、同性愛とかいった感情は抱いてはいなかったが、妙にドギマギして、早く鬼に見つかることをその時ばかりは願ったことも覚えている。
正貴のような綺麗な男の子は女の子にもてるばかりでは無く、同性にも何やら妙な感情にさせるものだ。
そう言えば、その醤油屋の息子には弟一人と妹が二人居た。
妹は少し俺たちと年齢が離れていたが、どちらも可愛い女の子で、俺たちが遊びに行くと何かにつけ、俺たちに纏わりついてきた。
鬱陶しいと思った半分、何だか嬉しく思う気持ちも半分ほどあり、少し複雑な気持ちにさせられたものだ。
けれど、俺とその息子は学区の違いで、中学では別々の中学校に行き、次第に疎遠になり、遊びにも行かなくなった。
ただ、高校では一緒の高校になったものの、クラスも違い、そう親しい関係にはならなかった。
今、あの二人の妹はどうしているだろうか。
二人共結婚してよその町に行ってしまい、もう随分と会っていないが、五十過ぎのいいおばさんになっている年齢だ。
おそらく、今会っても判らないと思うが、会って話をしてみたい気がする。
そして、俺と正貴と、どちらが好きだったのか、二人にこっそりと訊いてみたい気もする。
どうも、齢を取るといけないもので、昔の知り合いにもう一度会ってみたくなるものだ。
還暦を迎えると、人が恋しくなってくるものなのか。
それはともかく、今思うとやはり楽しかったのは小学校の頃で、いろんな思い出がある。
回虫事件というか、回虫騒動があった。
『もはや戦後ではない』、と政府の経済白書には謳われていたが、それでも昭和三十五年当時はまだまだ世の中は一般的に貧しく、衛生状態も良くなかったのだろう、結構寄生虫に関することが学校では話題になっていた。
検便も定期的に行われ、寄生虫の疑いがある子には虫下しが渡された。
今は、鼻水を垂らした小学生なんて見かけないが、当時はクラスで一人か二人は鼻の下にいつも鼻水を垂らした者が居た。
そして、制服の袖口で鼻水を拭くものだから、黒の袖口が鼻水で光ってピカピカと白っぽく輝いていたものだ。
また、いつも痰が出るということで、学校に痰壺を持参する者も居た。
そう長くは生きられないんだって、お医者さんから言われたよ、と言いながら、カァー、と痰を吐いていた。
同情すべきであったろうが、見ていて、気持ちが悪くなる光景だった。
そんな時代だ、寄生虫が身近にいても不思議はなかった時代だったのだろう。
寄生虫もいろいろと種類はあるが、一般的だったのは回虫で、学校の標本室でホルマリン漬けされてガラス壜に入れられているのを見ていたが、ミミズよりは太く長く、白っぽい色をした寄生虫であった。
何処が頭で、何処が尻尾か、判りゃしない。
長さは結構長く、二十センチ程度はあったように記憶している。
その他、蟯虫とか、サナダムシといった寄生虫の名前も覚えている。
その回虫が学校の校舎の廊下でのたくっていたのだ。
初め、誰が見つけたのか知らないが、俺たちは廊下の板の上で蛇のようにくねくねとのたうちまわっている回虫を取り囲み、大騒ぎした。
誰かが、これは回虫で虫下しを飲んだ者の尻の穴から出てきたのだ、と言っていた。
確かに、虫下しは前日渡されており、あり得ない話では無かった。
皆、気味悪そうに見ているばかりで何もしなかったが、その内、保健室の女の先生が連絡を受けて、塵取り片手にやって来て、さっさと片付けた。
が、暫くは学校中、その話題で持ちきりとなった。
回虫が外部から侵入することなんて無い、間違い無く誰かのお尻から出てきたのだ、一体誰だろう、という話で持ちきりだったのだ。
その頃、検便の寄生虫検査で引っ掛かる生徒は数多く居て、皆疑心暗鬼といった表情でお互いを見ていたのだ。
しかし、何と言っても、肛門からすり抜けて回虫が落ちていく、といった光景を想像することは気味悪いものであったが、妙に生々しく官能的ですらあった。
回虫騒ぎが一段落した頃、俺と正貴は肝試しと称して、科学の標本室に行き、回虫を含むいろんな標本を見た。
子供の好奇心は強いもので、昼でも薄暗い標本室には寄生虫の標本の他、人体の模型とか、骨格標本、狸、蝙蝠などいろんな動物の剥製も極めて無造作に陳列されており、普段は気味悪いということであまり寄り付かなかったが、その時は恐いもの見たさも手伝い、肝試しをしようということになり、二人して放課後、見物に行った。
骸骨の骨格見本はそれほど怖いものでは無かったが、人体の半分が一皮剥いた状態で筋肉、血管が生々しく示されている模型はかなり気味悪いものであり、剥き出しの眼球が恨めしそうに見ている顔の半分は十分に子供の恐怖を誘うものであった。
よほど気味が悪かったのか、正貴が俺の手を握り締めてきた。
大丈夫だと握り返す俺の手も緊張のためか、汗ばんでいたことだろう。
俺たちは大の親友となり、日曜日になると勉強などほったらかしにしていつも連れ立って、自転車に乗ってあちこちと周辺をハイキングと称して遊び回っていたが、時には喧嘩することもあった。
覚えているのは、正貴から面と向かって、もう君とは遊ばない、絶交だ、と言われたことだ。
これはかなりショッキングなことだった。
女の子が絡んでいた。
同級の女の子で、林愛子という女の子が居た。
学校から港の方に行く道の途中に床屋があり、そこの娘であった。正貴が好きな女の子だった。
或る時、夏休みの暑い一日で、俺たちは三崎の磯の小さな浜辺で寝そべっていた時のことだった。
話のついでに、好きな女の子はいるか、ということが俺たちの話題になった。
女の子の話なんて、それまで俺たちの話題にはならなかったものだが、その時は暑い太陽と焼けた砂が俺たちを何か奔放な気分にさせていたのかも知れない。
予想外に、正貴は頬を紅潮させて俺に好きな女の子の名前を告白してくれた。
洋一君、親友の君だから話すんだけど、という前置きで、実はクラスの隣の席に座っている愛子ちゃんが好きなんだ、という話をした。
そして、洋一君は誰が好きなんだい、という正貴の問いかけに俺も、正貴が打ち明けた以上は内緒にしてもいられないと思い、副級長をしていた鈴木純子の名前を挙げた。
実際の話、それほど好きな女の子でも無かったが、正貴の前で言葉に出して言うと、本当に好きなような気がしてきた。
初恋かい、と訊かれ、そうだと答えると、本当に初恋の相手のような感じがしてきた。
感情のあやとでも言うのであろうか、不思議なことで一度肯定してしまうと、それまで抑えていたかのように、本当に好きで好きで堪らないという感じにもなってしまうものだ。
正貴も或いはそうであったかも知れない。
愛子のことを話す正貴の顔は、譬えは悪いが、夢見る少女のような顔と眼をしていた。
その愛子のことを俺は何かの話のついでに、クラス仲間に話してしまったのだ。
何の話だったか、もう忘れてしまったが、正貴のことが話題になり、誰かがあいつは鈴木が好きみたいだよ、と言った。
別な女の子の名前だったら、どうってことはなく、本当のことを話すつもりはなかったが、たまたま自分が好きな女の子の名前が出て、あろうことか、正貴が好きらしい、と言われ、俺は打ち消すと共に、つい、正貴が好きなのは林だよ、と言ってしまったのだ。
すぐ、噂はクラス中に広まった。
クラスの女子は好奇心に溢れた眼で、正貴と愛子を見た。
愛子は知らんぷりをしていたが、俺の見るところでは案外満更でも無さそうな感じだった。
それでも、正貴の方はなるべく見ないようにしているようにも見えた。
おさまらないのは正貴の方で、時折俺の顔を険しい眼で見るようになった。
その眼は間違いなく怒っていた。
俺は正貴に合わせる顔も無く、正貴に謝罪するでも無く、じっとしていたが、数日して放課後、校庭を歩いていたら、正貴がすうっと歩み寄って来た。
体を堅くして身構える俺の前で立ち止まった正貴は思い詰めたような固い表情で、俺に絶交を言い渡したのだった。
君を信じていたのに僕は裏切られた、もう君とは遊ばない、絶交する、と言って俺に背を向け、立ち去った。
去って行く正貴の細い背中が寂しそうで、泣いているように見えた。
俺は立ち止ったまま、いつまでも正貴の後ろ姿を見ていた。
それから一週間、俺と正貴は口もきかず、放課後は別々の道を辿って家に帰った。
家でつまらなさそうにしている俺に気付き、姉が声をかけてきた。
洋一、どうしたの、しょんぼりして、と。
俺は姉の心配に気付かぬ振りをして、少年漫画に目を落としていた。
下手に喋ると、何だか涙が零れそうに思えたからだった。
でも、捨てる神あれば拾う神ありだ。
仲直りの機会はふいに訪れた。
喧嘩して一週間ほど経った或る日、家の近くの神社で秋の祭礼があった。
その神社はかなり地元では名の通った神社で祭礼の日には数多くの露店が神社の道の両側に並び、子供たちは親から貰った小銭をしっかりと握り締めて露店を物色したものだ。
昼はともかく、薄暗くなると露店の入り口にアセチレンガスの炎が灯される。
独特の臭いと共に明るく周囲を照らした。
臭いはいいにおいとは言えなかったが、明るいことはとても明るく、露店を覗き込む人々の顔を鮮やかに照らし出した。
俺も姉と連れ立って行ってみたが、同級生に逢い、女の長話というように夢中になって話し込む姉と別れ、俺は一人でぶらぶらと露店を覗き込みながら歩いた。
途中、何人か学校の友達にも逢った。
ハッカ・パイプを大人のように粋に咥えたり、りんご飴などを買って齧り、唇を奇妙な色に変色させていた友達も居た。
皆、結構楽しそうにしていた。
神社入り口の旗のところで、正貴を見かけた。
正貴も俺を見ていた。
正貴は笑うと、笑窪が出る。
俺を見る正貴の頬に、小さな笑窪があった。
俺は何だか素直な気持ちになり、正貴のところに近づいて行った。
食べるかい、と言って、俺はポケットの中からグリコのキャラメルを取り出した。
ああ、と言って正貴は受け取った。
俺と正貴はキャラメルを頬張りながら一緒に歩いた。
そして、翌日から俺たちはまた元のように学校の帰りは一緒に歩くようになった。
その交差点を左に、海の方角に曲がると、『アクアマリンF』という大きな看板が目
に入った。
線路があった。
左手に貨物列車が手持無沙汰に待機していた。
この線路は昔、臨港鉄道という会社の線路であり、I駅への往復に一両か二両編成の電車が乗客を乗せて走っていたが、今は貨物専用の路線となっているらしい、と中井は思った。
その線路を横断すると、海の方角に大きなガラス張りの建物が見えた。
青みがかった曲線的な建築物で、標示に依れば、『アクアマリンF』という県立の水族館であった。
頭上に巨大な看板があった。
『左方向 三崎公園 I・ら・ら・ミュウ 1号埠頭』と書かれてあった。
その看板の下を通り、産業道路と呼ばれる大きな通りの交差点を横断する。
『アクアマリンF』を右手に見ながら、中井は三崎公園を目指して歩いた。
O町から東京に戻り、父の実家がある文京区で暮らした。
茗荷谷の駅が最寄りの駅で、少し歩くと、後楽園にも行ける小石川というところに家があった。
近くには、石川啄木の終焉の地とされるアパートの跡地もあった。そこの中学に入り、高校も同じ地区の高校に入り、卒業して私立の大学に入った。
大学卒業後は全国規模の製造メーカーに入社して、全国各地を転勤して廻った。
洋一君とは中学の間は文通していたが、高校に進学する頃には年賀はがき程度の繋がりとなり、大学に入りそれぞれ家を離れてからは連絡もいつしか途絶えてしまった。
僕は洋一君が好きだった。
愛子ちゃんのことで喧嘩はしたが、実際のところを言えば、喧嘩している最中も仲直りしたくて堪らなかったのだ。
どんなきっかけでもいいから、洋一君とは仲直りしたかった。
洋一君は僕のことをどう思っていたのだろうか。
右手斜め方向に、広大な駐車場があり、海が顔を覗かせていた。
風が潮のにおいを運んできた。
懐かしい潮風のにおいだった。
空にはぽっかりと白い雲が浮かんでおり、太陽の日差しは眩しかった。
百メートルほど歩くと、右手に建物が二つ見えてきた。
道路の片隅に、『○○美食ホテル』という看板が立っていた。
どうやら、港の古い三角倉庫を改造した観光宿泊施設のように思われた。
施設の向こうは海で太陽の強い日差しを受け、キラキラと輝き、船が白い船体を見せながら、ゆっくりと航海していた。
『○○美食ホテル』の三角屋根の正面の白い壁面には、英語で、ショップ&レストランと赤い字で大きく書かれてあった。
観光土産とレストランの合同施設であり、どうやらホテルの宿泊施設では無さそうであった。
また、少し歩くと、『I・ら・ら・ミュウ』という名の大きな建物があった。
興味を引かれて近づいていくと、その建物は埠頭に突き出す形で造られており、右手には遊覧船が停泊していた。
その遊覧船の向こうには、『アクアマリンF』のガラス張りの巨大な青い姿があった。
なにやら、巨大な潜水艦を思わせる格好をしている水族館だなあ、と中井は思った。
潜水艦と言えば、と中井は脳裏に一つの光景を思い浮かべた。
ここの小学校の校庭には、潜水艦のようなものが置いてあった。
魚雷にしては大きく、かと言って、潜水艦と言うにはあまりにも小さい物体であった。
それは校庭の片隅にひっそりと置かれており、説明等を記した表示板は一切無かった。
ステンレスで造られているらしく、表面はピカピカと輝いていた。
中井たちは昼休みとか放課後、この物体に乗ったりして遊んだものだった。
中井たちには一種の遊具であったこの奇妙な形をした物体は実は、戦争中の新兵器であり、人がこの中に乗り込み、操縦して敵艦目掛けて突っ込んでいく兵器だ、と云う話がまことしやかに中井の耳に入ってきた。
中井はまさかと思った。
先端は少し尖っているものの、全体的には葉巻のような形状をしているこの物体の中央はやや膨らんでおり、腹這いになれば、なんとか人が潜り込む余地はあるようには思えるが、潜望鏡が無い。
潜望鏡が無ければ、操作して敵艦に突っ込むことなど出来ないじゃないか、と中井が異議を唱えると、どうも外されて蓋をされたみたいだよ、現にここが蓋になっているじゃないか、と或る級友が指摘した。
中井は思わず身震いした。
この中に乗り込み、敵艦目掛け、突っ込んでお国のために自爆する勇者が一瞬脳裏に浮かび、カッコ良いと思う反面、戦争というものの狂気も同時に感じた。
あの潜水艦のようなものは一体何だったのだろう。
本当のところを知る機会が無いまま、転校したことを少し残念に思った。
今立っている『I・ら・ら・ミュウ』の埠頭が一号埠頭であり、『アクアマリンF』は二号埠頭に建てられていることを中井は地図案内板によって知った。
このあたりの施設がO町としての人寄せ施設かと思った。
埠頭の先端に立って振り返ると、『I・ら・ら・ミュウ』の正面が見える。
正面は遊覧船の切符売り場と待合室になっているようだ。
建物を左に見ながら歩くと、賑やかな呼び込みの掛け声が聞こえ、海産物売り場が目に飛び込んできた。
どうやら、この建物自体が巨大な市場になっているらしい。
レストラン、遊覧船、海産物市場の複合施設であるらしかった。
海産物市場を後にして歩くと、前方にO港の風景が広がっていた。
海の向こうに岬が見え、岬の左となるがほぼ正面中央に巨大な塔が屹立していた。
港は大きな湾となっていて、多くの漁船が停泊していた。
中井は埠頭の端に立ち、周囲を見渡した。
埠頭の車止めには、数多くの鷗、烏がとまり、中井同様海を見ていた。
鷗は二種類おり、白い羽根の鷗と茶褐色の羽根の鷗であった。
上空にも沢山の鷗、烏が傍若無人に飛び回っており、喧騒に満ちた鳴き声を周囲に響かせていた。
海を眺める鷗の姿は悠然としていて格好がよく、なにやら哲学者の風情を醸し出しているな、と中井はニヤリとしながら思い、それからぶらぶらと大通りの方へ歩いた。
小学生の頃は口笛を吹きながら、マドロス気分で歩いたものだ、と中井は昔を思い出していた。
石原裕次郎、赤木圭一郎といった映画俳優がスクリーンで演じていたマドロス物が好きだった。
大人になったら、外国汽船に乗って知らない外国に行く、というのも中井の夢の一つだった。
或る時、洋一君にそのことを話したら、洋一君の話では外国汽船に乗っていた人が退職後、家の近所に家を建てて住んでいる。
瀟洒な感じの家で、さすが船乗りだよなあ、と洋一君は感心したように言っていた。
いろいろと夢は見たけれど、結局夢は夢のままで終わり、身過ぎ世過ぎのため、サラリーマンとなり、今の自分となった、と中井はほろ苦く思った。
洋一君はどうだったろうか?
中学の頃の手紙には、小説家になりたいとか、世界的な発明をする科学者になりたいとか、いろんなことを書いていたけど。
人はなりたい者になれるわけではなく、畢竟なれる者にしかなれない、と渋々悟るものだ。
○○港は三崎から大剣と呼ばれるところまで天然の入江となっており、江戸時代以前から良港として栄えていた。
古くは、鯨も獲れたらしい。
今は長大な防波堤が湾のそこかしこに、船の通航を妨げないように分割されてはいるものの、橋のように設置され、外海から押し寄せてくる波は悉く抑制され、港の海は穏やかとなり、緩慢な潮の満ち干で海面が僅かに上下に揺動するにとどまっていた。
中井は港中央に位置する魚市場に立った。
左手に湾の端を形成する三崎の突端が見え、手許の海面には緩慢な上下運動を繰り返しながら揺れる小さな漁船が数多く停泊していた。
市場は既に朝の喧騒は止み、閑散として少しけだるげな雰囲気を漂わせていた。
市場の真ん中に立って、右手方向を見遣ると、O町に来るバスの車窓から見た赤白だんだらの大きな煙突が二本目に入り、次いで埠頭の積荷昇降用の巨大クレーン設備が二、三基ほど見えた。
少し雲はあるものの、空は良く晴れ上がり、まさに秋晴れの空となっていた。
市場の二階は市場食堂となっており、観光客と思しき男女が数組上り下りしていた。
市場を出て、三崎に向って道なりに歩くと、正面にトンネルが二つ穴を覗かせている。
左右の道のトンネルであり、O町と塩屋岬を繋ぐ。塩屋岬は美空ひばりの『みだれ髪』で有名になった灯台のある岬だ、と中井は思った。
美空ひばりに対する思い入れはさほど無かったが、塩屋岬のことを歌うこの歌は中井の郷愁を誘う歌謡曲であった。
測候所に勤めていた父の転勤で日本各地を何ヶ所か廻ったが、O町は思い出多い土地で僕にとっては第二の故郷と言えるところかも知れないな、と中井は甘酸っぱい感傷に浸りながら思った。
郷愁の先には感傷があり、感傷の先には常に懐かしい人が居る、と中井は佐藤洋一の顔を思い浮かべながら思った。
僕は一度死を経験した。
正確に言えば、一度死にそうになった。
中井はトンネルの手前で右折し、三崎に向かう道を歩きながら追憶に浸った。
もう十年ほど前になる。
僕は出張先のホテルで、『クモ膜下出血』の症状を起こした。但し、その時は『クモ膜下出血』とは判らなかった。
長嶋ジャイアンツのリーグ優勝の夜だった。
実は野球を観る前から変だった。
出張で岡山駅に着く新幹線の中から妙に気分が悪かった。
頭の中がもやもやとして実に不快な気分であった。
このところ、寝不足気味でもあるし、ホテルに着いたらご飯を食べてすぐ寝ようと思っていた。
岡山駅に着き、駅近くのホテルに入り、宿泊サービスとして付いた無料の夕食を食べていたら更に気分が悪くなってきた。
いつもは食欲旺盛な方で出された料理はほとんど食べてしまうという、どちらかと言えば健啖家の方であるが、その時は確かおでん定食であったが、食欲が起こらず、ほとんど箸もつけないまま残してしまった。
ふらふらと部屋に入り、野球を観ていたら突然激しい頭痛に襲われた。
頭痛持ちの僕はいつもの頭痛だろうと思い、常備薬のバッファリンを飲んだがどうにも効き目が無く、頭痛は増すばかりだった。
中日との試合で九回裏まで0対4というスコアで完敗かと思われたが、江藤の満塁ホームランで同点とし、その余韻も冷めぬ内に二岡のサヨナラ・ホームランが飛び出し、優勝を決め、超劇的と後で評されたこのリーグ優勝を見届け、長嶋監督が胴上げされ宙に浮くのを見定めてから、ベッドに潜りこんだが全然眠ることが出来なかった。
朝になり、ホテルの従業員に最寄りの医院の所在を訊いて、ホテルをチェックアウトし、その医院に行き、診察して貰った。
診察結果、原因はよく判らないが、尿の中に血の成分が見受けられるところから、
ひょっとすると腎盂腎炎ではないかとの診立てで少しベッドで休んで様子を見ましょうということになった。
ベッドに横になり眠ろうとしたが、頭痛に加えて、激しい全身の筋肉痛が周期的に襲ってくるようになり、ちっとも良くならない。
入院を勧める医者の言葉に耳を傾けず、とにかく家に帰ろうと思った。
会社に電話をかけ、今回の出張は中止する旨を伝えてから、よろよろと岡山駅まで歩き、新幹線に飛び乗った。
岡山駅から三島駅までの五時間程度の時間は実に長かった。
長い苦痛の時間が過ぎ、三島に着いた。
いつもならば、三島から沼津まで在来線で戻り、G線でG駅まで電車で帰るという電車乗り換えを採るのであるが、今回はそんな悠長なことはやっておれないという事態で、三島からタクシーに乗ってG市の社宅に帰った。
その晩も全然眠れなかった。
なにしろ、痛くて横になることさえ出来なかったのだ。
仕方がないから、半身を起した状態で壁に寄りかかり、周期的に襲ってくる痛みを我慢しながら、長い夜を過ごした。
真夜中近く、再度、激しい頭痛に見舞われた。
その後、絶え間なく襲ってくる頭痛と全身が強く締め付けられるような筋肉痛と闘い、生まれてこのかた経験したことのない最悪の夜を過ごしたのである。
辛い夜が過ぎ、朝が来た。
とにかく、会社に行って今日は休暇を取ると連絡してから、病院に行こうと思った。
そして、車を運転したが、首が全然回らないのには驚いた。
回そうとするのだが、全然回らない。
振り返る時は上半身毎回さざるを得なくなった。
まるで、能役者のような体の動きだな、と痛みに震えながら、情けなく思った。
駐車場では、後ろを見ながらバックで駐車するのが普通だが、後方確認のため首を回すということが出来ず、駐車にひどく難儀した。
それでも、何とか駐車し、事務所に行き、休暇を取る旨、部下に話し、また車を運転して病院に向かった。
病院ではいろいろと検査を受けたが、詳しい病名は判らず、とりあえず鎮痛剤のような薬だけ受け取って、その日は家に帰った。
家に帰って、トイレに入って驚いた。
尿が真赤だった。
翌朝、首は昨日同様回らなかったが、また車を運転して何とか病院に行き、そのまま入院させて貰うこととした。
しかし、二日ほどして、別な病院に僕は緊急移送された。
何でも、僕の頭のX線写真を見た外来で大学から来る脳外科専門の医師が、この患者は『クモ膜下出血』を起こしていると告げ、早急に脳外科専門の病院に入れなければならないと要請したらしいのだ。
僕は突然病室から車椅子に乗せられ、救急車で脳外科病院に移送され、そのままそこで長期入院する羽目となった。
家内の話では、僕は二週間ばかり意識も混濁し、生死の境を彷徨ったらしい。
この二週間に関しては、僕の記憶はとても曖昧だ。
ただ、絶対安静のベッドに寝かせられた僕は天井を見るしかなかったが、その天井の模様がやたら人の顔とか動物の姿に見えてしょうがなかったことだけを何故か鮮明に覚えている。
眠っている間に、カテーテルで太腿の血管から挿入し、脳の検査も行ったらしい。
このカテーテルの検査は、後で家内から言われたことだが、僕は全然覚えていない。
幸い、血管が破れたことは事実だが、破れた箇所はいつの間にか閉じて、脳の方にはあまり出血が行かず、下に流れ、血尿となって血が流れたのが功を奏したのか、経過は極めて良好で、開頭手術等の厄介な事態は避けられ、抗生物質等の薬剤投与だけで済み、約一ヶ月半程度の入院で元の状態に恢復することが出来た。
それでも、後頭部の髪の毛がばさばさと大量に抜け落ちたのにはびっくりした。
まるで、お岩さんだよ、と僕は見舞いに来た家内に笑いながら言った。
入院中に、長嶋ジャイアンツが王ダイエーを二連敗の後の四連勝で見事下した日本シリーズを僕はベッドの中で横になりながら有料テレビで観た。
退院に際しては、医者からあなたのような運のいい人は二、三%しかいませんよ、
これからの人生どうか大切にして下さい、と言われた。
少し、自宅で生活のペースを取り戻してから、会社には二ヶ月振りに出勤した。
命が助かったのは運が良かったが、サラリーマン人生としては運が悪かった。
後日、上司から聞いた話だが、病気で倒れる前、僕に部長昇進の話が出ていたらしい。
当然、その話は見送られてしまい、部長に実際昇進したのはそれから三年後となった。
倒れた当時、僕は五十一歳を迎えたばかりだった。
五十前後という年齢は大卒サラリーマンにとっては極めて重要な年齢であり、競馬で言えば、第四コーナー、つまり最終コーナーを廻る一番重要な時期となる。言わば、最終的な出世が決まるという大切な時期であり、肝心要のそこで倒れた僕は出世の最終競争からは脱落した存在となった。
三崎まで、あと少しの道となった。
道の右手に、昔の木造船の造船所の跡地がある。
今となっては、造られた船を海に進水させるための曳航用鉄レールが赤錆びだらけの姿を曝け出している他はもう見る影もなく打ち捨てられているが、昔はここで常時一隻か二隻は大型の木造船が造られていた、活気に満ちたところだったのだ。
赤錆びレールの真ん中あたりに、立ち入り禁止の看板と、通行を強制的に禁止、妨害するためと思われる木の柱が両側の支柱に支えられて一本横に渡されていた。
傍らに、やはり真っ赤に錆びたドラム缶が所在無げに潮風に吹かれて黙然と置かれてあった。
やがて、道は洞門に入る。
この洞門を抜けると、小さな磯と浜辺があるはずだった。
この洞門は、昔は掘られたまんまの岩盤が剥き出しになった、少し崩落が懸念される怖い洞門であったが、今は頑丈なコンクリートで固められた大きなトンネルとなっている。
中は暗かったが、向こう側には明るい空がくっきりと見えていた。
中央は車道で、片側一車線ではあるがかなり広幅の車道が通っており、その車道の両側は幅広い歩道となっていた。
洞門を抜けると、視界は急に開け、三崎の入江の海岸に出た。
『M海岸』という立て看板があった。
知らなかった。
ここは、M海岸と言うのか、と中井は思った。
洋一君との会話の中では、常にこの海岸は、三崎の海岸、と言うだけで事足りていたのだ。
道の右手には、中井にとって懐かしい小さな浜辺があり、道はそのまま三崎公園へ向かう少し急な勾配を持つ登り道となっている。
浜辺に下り立ち、右を見ると、ぽっかりと口を大きく開いたかなり大きな洞窟がある。
今は、落石危険、且つ崩落の恐れありということで、『立入禁止』の看板があり、この洞窟は周囲を含め立ち入り禁止区域となっているが、昔はそのような制限は何もなく、中で水着に着替えたり、涼しい日陰ということで泳ぎ疲れた後の休憩場所として使われた便利な洞窟であった。
そして、洞窟という存在は何処か秘密めいているもので、中井たち少年にとっても少しわくわくするような何かがあった。
潮のにおいに包まれた砂浜からはO港の防波堤とか埠頭が遠くに見える。
しかし、このあたりには防波堤が一切無く、かなり激しい波が洞窟の裾脇の岩礁に当たっては波飛沫を上げて砕け散っていた。
中井は中学か高校の頃、源氏三代目の将軍、源実朝の和歌、『大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて 裂けて散るかも』という有名な和歌を目にする度、このM海岸の浜辺に押し寄せ、岩礁に当たって砕ける光景をいつも思い出した。
この周辺の海では、鮑とか雲丹が獲れるらしく、無断採取禁止の地元漁業組合の看板が立っていた。
昔は、砂浜の他は何も無い海岸であったが、今は訪れる人の便宜を図るために洒落た東屋風の休憩所、ベンチ、そして砂浜へ続く階段状のスロープがコンクリートで小奇麗に造られており、見違えるほど整備された景観を備えている。
ふと、岬の突端にある高い樹の梢に何か、鳥らしい影を見た。
風に吹かれながらもしっかりととまっていた。
かなり大きな鳥だ。
時々は首を巡らし、周囲を睥睨しているかのようにも見てとれた。
大きな鷹か、鷲だろうと思った。
毅然とした姿だ、なかなか、格好の良い姿をしている、と中井は強い日差しに目を細めながら思った。
少し足が疲れた。
中井はベンチに腰を下ろして、前方に広がる海を眺めた。
右方遠くに、二本の煙突が見えた。
右の煙突の方がずっと高いが、煙は出していない。
煙を出しているのは左の背の低い煙突の方で、かなりの量の白い煙を空に噴出させていた。
O町を出た数年後に、銅の製錬所が出来たと昔父から聞いたことがある。
その製錬所の煙突かも知れない、と思った。
しかし、今日は何と気持ちの良い日であることか、と潮風を胸一杯に吸い込みながら中井は両手を空に広げて背伸びをした。
今を大事にしよう、と思い中井は少し幸福感を感じた。
二年ほどしか住まなかった町ではあったが、いろいろと思い出は残っている。
この浜辺だってそうだ。
洋一君と夏休みは週に二、三回はここに来て、磯で水遊びをした。『ぶんず色』という言葉を初めて聞いたのもここだった。
水から上がった僕の唇を指して、洋一君がこの言葉を使ったのだ。正貴、お前の唇、すっかり『ぶんず色』になっているよ、と言ったんだ。
何のことか、僕には判らなかった。
『ぶんず色』って何?、と僕は訊いた。
洋一君が説明するところに依れば、打ち身の時の痣のように、紫がかった葡萄色になることをこの地方では『ぶんず色』になると云うのだそうだ。
その他、疲れたという意味で、『こわい』という表現をすることも知った。
泳ぎ疲れて帰る時、洋一君は自転車を漕ぎながら、やたら『ああこわい、こわい』と言っていたので、僕は不思議がり、何が怖いの、と訊いた。
洋一君は不思議そうに訊く僕の表情で僕が勘違いしていることに気付き、『こわい』というのは、疲れた、という意味さと笑いながら言った。
方言というのはなかなか面白いものだ。
会社に入り、岐阜県の小さな町の工場に転勤した時も面白い方言を聞いた。
従業員が話す言葉で、『なぶる』とか『ほかる』という言葉がやたら出てきて解釈に戸惑ったことがある。
『なぶる』は、触るとか触れる、そして、『ほかる』は、捨てる、という意味で使っているのに気付くまで暫くかかったものだ。
ああ、思い出した。
ここで、僕はとても官能的な経験をした。
山口百恵の『ひと夏の経験』とまではいかないが、今思い出しても少しぞくぞくするような経験だった。
泳ぎ疲れた僕たちは洞窟の脇の岩礁に座り、肌を乾かしていた。夏の陽は漸く西に傾き、いつの間にか夕陽が僕たちを照らしていた。
洋一君は夕陽に背中を向けて、遠くの山々を見ていた。
浅黒く日に焼けた洋一君の背中に夕陽が輝いていた。
肌に付着した水滴は小さな七色の虹の宝石と化して、僕の眼を幻惑していた。
綺麗だ、と僕は思い、その宝石に指を伸ばして触ろうとした。
そして、まさに触れる、その時、洋一君が僕の方を振り向き、何か言った。
もう夕方だ、あまり遅いと家の人に叱られるから、帰ろうか、という言葉だった。
僕は何か憑き物でも落ちたかのように半ば放心し、戸惑いながらも、うん、帰ろうと答えた。
その時の洋一君の背中は虹色の宝石を散りばめたように本当に綺麗だった。
性的なことに興味は無かったが、その時は妙に官能的な気分にさせられた。
これは今もって、僕のウィタ・セクスアリスとなっている。
人は幼い頃は近くの同性に対する憧れから始まり、それから、徐々に成熟するにつれて、異性に対する愛に目覚めていくのかも知れない。
M海岸を後にして、中井は三崎公園に繋がる登り道をゆっくりと歩いていった。
だが、別れは突然来た。
佐藤の回想は続いた。
六年の終りに、正貴は転校してO町を去っていった。
お父さんがまた東京勤務となり、○○測候所を去ることとなったのだ。
俺はO臨港駅で正貴を見送った。
正貴は小さな笑窪を浮かべて、涙ぐむ俺にサヨナラを告げた。
それ以来、正貴とは会っていない。
もう五十年近くなる。
俺はその後、地元の中学、高校を出て、大学に入り、卒業して地元の企業に入社した。
いろいろなことがあったが、今こうして還暦を迎え、会社を辞めるか、子会社に行くか、いろんなことを考えながら迷っている。
時間が欲しいという気もする。
時間が欲しければ、会社勤務にはおさらばしなければならない。
時間があっても持て余しそうならば、会社勤務は続けた方が良い。
どっちにしようか、実際決めかねている。
俺たちは『団塊の世代』と言われてきた。
昭和で言えば、二十一年から二十六年までの六年間、西暦で言えば、千九百四十六年から千九百五十一年までの期間に生まれた人口ピーク・ゾーンの世代を指す言葉だ。
今考えても確かに仲間は多かった。
小学、中学、高校と一クラス、五十名は常に越えていた。
高校なんて、五十五名編成で一学年十クラスもあった。
ということは、一学年は五百五十名という勘定になる。
この間、同じ高校に行っている姉の子供に訊いたところ、一学年三百二十名程度であるらしい。
昔と比べると、大体六割程度の人数となっているのだ。
紛れもなく、少子高齢化の時代となっている。
団塊の世代は競争の世代でもあった。
人数が多かった分、高校の入試とか、大学入試はかなり厳しかった。
でも、日本経済は右肩上がりだったので、卒業後の就職状況は恵まれていた。
まあ、その反面、同期入社が多かったので、就職後はまた出世競争という競争が俺たちを待ち構えていた。
全国的な企業には就職せず、地元の企業を選んだ俺はそれほどガツガツと出世競争に励んだわけではなかったが、同期入社の間の昇進は露骨に言葉には出さないまでも、気になることであり、無関心ではいられなかった。
俺は結構順調に昇進し、今は製造部門の取締役部長になっている。
けれど、常務取締役、専務取締役までの出世は叶わなかった。
今一歩、欲が足りなかったのかも知れない。
それでも、取締役にはなっているので、六十二、三位までは勤められるはずだ。
今、俺が迷っているのは、還暦を機に思い切って勇退するか、今のまま六十二、三まで勤めるか、或いは、先日社長から打診されたのだが、子会社の専務として異動するか、ということだ。
本音を言えば、六十であっさり辞めて、のんびりしたいという気持ちはある。
その一方、子会社に行けば、六十五歳或いはそれ以上、働けるというチャンスはあるのだ。
満額の年金を貰える六十五歳まで働き、その後はかなりゆとりを持って老後を送るというのも悪くはない。
さあ、どうしようか?
しかし、このところ、どうも腑に落ちない感情に囚われることが多い。
会社でバタバタと仕事をして、退勤し、会社の駐車場に停めてある自分の車に乗り込み、エンジンをかけた時なぞ、どうも妙な気持になるのだ。
何かが欠けている。
このままでいいのか?
そんな思いにふと囚われるのだ。
この気持は何だろう、と自分に問い掛けるが、別に思い当たるふしは無い。
これまでの人生で、まあいろいろとあったものの、俺の人生は比較的順調だったし、別に不足しているものもとりたてて思い浮かぶものは無い、のだが。
生きている時代のせいだろうか?
閉塞感と飢餓感。これが今という時代のキーワードかも知れない。どこか、満たされぬ思いがある。
言わば、精神的な飢餓感がなぜか付き纏うのだ。
飽食の時代であり、それなりの収入さえあれば、何でも食べることは出来、肉体的な飢餓は無い。
しかし、このままでお前の人生は満足なのか、と心の奥底で囁きかける声があるのだ。
俺は一体、今の人生で、このままの人生で満足しているのか、と自問し、そうだ、今のままでいいんだ、だってそれほど悪い人生では無かったんだから、と自答する。
そうは言いながら、もっと別な人生も送れたはずで、今からでも間に合うよ、一体お前の人生はどうあるべきだったの、と心の薄暗がりの中で囁くもう一人別な自分の声もある。
何かが足りない。
待てよ、これは悪魔の囁きかも知れぬぞ。
新聞とかマスコミあたりで、功成り名を遂げた人の突然の醜聞或いは破廉恥を伝える報道を耳にすることが多くなっている。
尊敬される職位にある者がつまらない物を万引きして逮捕されたとか、電車で痴漢行為を働き、駅公安に突き出されたとか、結構傍目には馬鹿馬鹿しい事でその人の社会的存在が失墜してしまい、社会的に抹殺されてしまうといった事件が世間を賑わしている。
事件の内容、程度の大小はともかく、一般的な常識から言えば、どうにも測り知ることの出来ない、言わば心の闇の深さを感じてしまうのだ。
ひょっとすると、俺が今感じているのもこのような悪魔の囁きかも知れない。
もっとも、功成り名を遂げた、とは言えぬ俺でも心の中で秘かに鬼を飼っているのかも知れぬ。
時代の閉塞感という何だか比重の重いものが知らず、心の闇に沈みこみ、隠れ潜んでいるのかも知れない。
その閉塞感が、何か足りないという焦慮にも似た渇望感、飢餓感と結合、合併し、シナジー効果、つまり相乗効果とやらで更に悪い方向に人を牽引、引っ張っていっているのではないだろうか。
危ない心理に陥っているのか?
今の自分は本当の自分では無く、身過ぎ世過ぎのために被った仮面の、仮の姿としての自分ではあるまいか、本当は違うのだ、出来れば人生をもう一度やり直してみたい、今から思えば、過去のあの時が運命の分かれ目であった、あの時に戻り、二者択一の別な道を選択していたら、別な人生、もっと幸せな人生を歩めたはず、と砂を噛むように思うのか。
老いを意識することは、生の終わりを意識することであり、未練がたっぷりある人ほど何かじたばたとしたいという気になるものではないだろうか。
老いを意識する。
還暦を迎えるということはその意識を誘起する一つのモチベーションに他ならないのかも知れない。
と同時に、自分と関わり合った他人のその後の人生も気になる。例えば、そうだ、小学校の頃のあの女の子はどうなっている。
あの初恋の女の子の人生はどうであったのか。
今、幸せなのか、それとも、不幸せなのか。
幸せ、それとも、不幸せ、・・・、どこかで聞いたような歌の文句じゃあないか。
そんな単純なことじゃないと思うんだが。
どうも、齢を取るとせっかちになっていけない。
俺と一緒にならなかったことが良かったのか、それとも、悪かったのか。
これなら、良い。
少しは、具体的だろう。
出来れば、彼女の今の境遇を知りたいものだ。
知って、どうする?
どうしようもないじゃないか。
どうも、考えが全然纏まらなくなってきた。
我ながら、頭の働きが悪くなってきたものだ。
これが、老いか。
果て、幸せと言えば?
俺に、甘美な人生の桃源郷なるものは果たしてあったか?
その桃源郷を知らずに、このまま自分の生を朽ち果て、完結させてしまっていいものだろうか。
少し、焦りを感じる。
桃源郷!
はてな、あったような気がする。
そうだ、あの頃が、そうだったのかも知れない。
佐藤洋一は冷めたコーヒーを一口、口に含みながら思った。
会社に入って、三年ほど経った頃、佐藤はひょんなことで十ヶ月ほどメキシコに滞在した。
日本政府とメキシコ政府との間に交換留学研修制度という政府間の取り決めがあり、佐藤の会社でメキシコ人研修生を一名受け入れ、その一名分を会社からメキシコに派遣することとなり、若手技術者の中から佐藤が選抜された。
昭和五十三年夏から翌年の春にかけて、佐藤はメキシコのメリダという都市で十ヶ月近く暮らした。
入社早々のあの頃が俺の人生の桃源郷であったのかも知れない、と佐藤は思った。
人生の中で、その桃源郷をその人生の初期に味わってしまった者のその後の長い単調な人生はいかなる意味を持つのか。
佐藤はこのような大時代的な考えを巡らしながら、そのように大袈裟に考える癖がある自分が可笑しくてならなかった。
ふと、頭の片隅に、最高傑作を画家になり始めの頃に描いてしまった或る画家のその後の長い人生を想った。
その画家は終世、その絵を凌ぐ作品は描けなかったと云う。
俺もその画家のようなものか。
一人苦笑しながら、窓の外の港を、青い空を眺めながら暫く追憶に浸った。
追憶はいつでも甘美なものだ。
そのような甘美な追憶を持つことが出来る俺は恵まれた方かも知れない。
贅沢は言えない、ということか。
悲観は気分に過ぎず、楽観は大いなる意志である、という名文句がある。
憂鬱な気分に陥った時は、強い意志を働かせて、過去の甘美な追憶に浸るに限る、ということか、と佐藤は思った。
しかし、それにしてもあの十ヶ月は楽しかった。
あまり愉快とは言えぬ会社生活の中で、極めて楽しいロング・バケーションだった。
会社の給料とメキシコ政府からの奨学金という二重取りの生活は独身の二十八歳という若者にとっては極楽みたいなものだ。
行った当初は、ホームステイをしていたが、言葉にも慣れてきた時点で自分でアパートを探して、気楽なアパート暮らしを始めた。
俺が行った先は、メキシコ南東部のユカタン半島にあるメリダという州都で、そこの州立大学に聴講生として編入学した。
メリダ・グループの仲間は十名で、俺のような社会人研修生が五人、日本の大学を休学して政府留学生となった学生が五人という編成だった。
社会人研修生の中には東大の法学部を出て郵政省に入ったバリバリのキャリアも居た。
俺が一番の年長者ということでメリダ・グループのリーダーとなった。
学生はスペイン語専攻の学生ばかりで、かなりスペイン語を話すことが出来たが、俺たち社会人研修生の方はスペイン語には馴染みが無くほとんど話せないということで、ユカタン州立大学側の配慮で社会人研修生のために特別のスペイン語講座が組まれ、俺たち五人は日本で言えば小学生レベルの語学教育を集中的に受講させられた。
しかし、現地でホームステイをしながら学ぶ言葉の修得は思ったより早く、日本出発前に外務省管轄で行われたラテン・アメリカ協会でのスペイン語講座も基礎として功を奏したのか、三ヶ月ほどで多少の個人差はあったにせよ、ほぼ全員が日常会話程度はほとんど不自由無くこなすといったレベルになった。
校舎は人類学教室の講義棟が俺たちにあてがわれており、授業としては週五日で、一日四時間ほどの授業時間が終われば、後は何の束縛も無く、自由だった。
会社の仕事絡みの話も一切無く、会社へのレポートもさほど義務付けられてはいなかった。
会社も日墨交換研修プログラムのお付き合いで社員を派遣したという程度の認識で別に俺に何かを期待したわけでは無く、行く前に本社に挨拶に行った際も、会社の人事担当からは、健康第一、無事に帰って来いよ、という程度の声しかかけられなかった。
学生たちは二十歳から二十二歳までの年齢であったが、社会人研修生は二十五歳から二十八歳までの年齢であった。
大学を休学してまで来た学生はともかく、社会人研修生の方は、若くてしかも金は二重取りという結構な身分で経済的に言えば潤沢な状況にあった。
時間もたっぷりあり、監督する者も誰も居ない。遊ぶな、という方が無理である。
言葉に早く慣れようと、恐らく日本の大学生だった頃よりは真面目に勉強したことは勉強したが、遊ぶ方も結構遊び、青春を謳歌したことは間違いない。
それでも、セニョリータにうつつを抜かす者は俺の見た限りでは一人も居らず、旅行、お酒、ゴルフ、映画、麻雀といった、まあ健康的且つ常識的な遊びに限られた。
マリファナを吸う者も居なかった。
その代わり、酒はかなり飲んだ。
メキシコはビールの旨い国で、夕方になり、校舎のプールで泳いだり、バスケットボールで遊んだ後は、俺のアパートに三々五々集まり、冷蔵庫でギンギンに冷えた瓶ビールに口を付けて一気に飲み干す、これが最高だった。
いつも、誰かビールを買ってきて補充していたので、冷蔵庫のビールはいつも満杯だった。
時には、学生たちも連れ立って来て、ご馳走になりますと言って、勝手に冷蔵庫を開け飲んでいった。
いつも部屋で飲んでいたわけでは無い。
週に一度くらいは連れ立って、セントロ(街の中心)に繰り出し、開店前のバル(居酒屋)に行ってドアを叩き、店を開けて貰い、テキーラ、ウイスキー、ワインを飲んだ。
居酒屋には時間が来ると、流しのトリオが歌いながら入って来る。
俺たちは五十ペソ(五百円ほど)紙幣を渡して何曲かリクエストして歌って貰う。
流しのバンドの中には、何かの興業で日本に行ったことのあるトリオも居て、その時覚えた日本語の歌だ、と言って日本の歌謡曲を歌った。
確か、『ウナ・セラ・ディ・東京』という歌であった。
その歌を聴きながら、俺は望郷の念に駆られ、思わず涙ぐんだことを記憶している。
日本に居る時は、それほど日本という国に愛着を持つということは無いものだが、日本を離れ、外国に居ると、妙に日本という国がとてつもなく素晴らしい国のように思えてくるものだ。
まあ、相当安っぽい涙だが、その時は本当にジーンときたものだ。
留学生全体の飲み会もかなり開いた。
俺は飲み会が大好きだったが、俺に輪をかけて好きな者が社会人研修生の中に居た。
アパート暮らしのリーダーの部屋が一番良いと主張し、俺の部屋が飲み会常設会場となった。
最低でも、月一回はパーティーを開催した。
費用はほとんど社会人研修生が負担し、学生たちを毎回無料ご招待した。
時々は、学生たちがメキシコ人の同級生を連れて来た。
留学生の中には女子学生も居たので、日本料理を作って貰った。
日本料理の食材はメリダでは手に入らなかったので、社会人研修生で会社の駐在事務所に報告がてら時々メキシコシティに行く者がいたので、そいつに頼んで日本食材をたんまり仕入れて貰った。
おかげで、長ネギ、春菊、シイタケ、糸こんにゃく、豆腐、醤油などが手に入り、すき焼きをして食べることも出来た。
他、メキシコシティの病院で研修を積んでいる看護婦さんたちもメリダに遊びに来て、カレーライスを作って貰ったこともある。
米は日本の米と味が似ているカリフォルニア米がメキシコシティにはあり、重い重いと言いながら抱えて戻って来た研修生も居た。
お握りにしてパーティーに来たメキシコ人に振る舞ったこともある。
美味い、とは言ってくれたが。
肉は安く、牛肉の良さそうなところがキロ四百円程度でスーパーで買うことが出来た。
おかげで、肉ばかりのすき焼きになったこともある。
旅も出来た。
なにせ、時間と金がふんだんにあるのだ。
普通は、時間と金は両立しないものであるが。
それに、若くて体力も十分にある。
長期旅行する者もいたが、俺は一、二泊程度の小旅行が好きで、月二回ほどはメリダ周辺をバスで旅行して廻った。
ユカタン半島というところはマヤ文明が発展した地域で、マヤの遺跡がそこかしこに残されているところだった。
有名なマヤ遺跡としては、チチェンイッツァとウシュマル遺跡がある。
メリダがその遺跡観光の中心都市で、日に何本も観光バスが出ており、俺は暇に任せて十ヶ月の間にそれぞれ五、六回は行った。
マヤの遺跡巡りも良いが、何と言っても、一番思い出に残ったのはカリブの海だ。
メリダから高速バスに乗って四時間程度でカリブ海に出る。
船でカリブの綺麗な海を見ながら、コスメルとかイスラ・ムヘーレスといった島に渡る。
途中で、エメラルドグリーンに輝く海面を飛び魚が銀色の鱗をきらめかせて滑走していく群れを度々見掛ける。
夕方になると、海は夕陽をいっぱい吸い込んで、そのお返しとばかり、メキシカン・オパールを惜しげもなく吐き出したような七色の虹の海になる。
この海を見ると、誰もが詩人になる。
俺は浜辺に座り、よく冷えたビールを飲みながら、夕陽に輝く豊饒で贅沢な海を眺める。
正直言って、今、こうして生きていること自体を神に感謝したくなるひと時だった。
しかし、桃源郷のような至福の日々はあっという間に過ぎ去り、帰国の時が来て、俺は後ろ髪を引かれながらも日本に帰った。
帰ってから、何となく結婚し、子供が生まれ、慌ただしく、忙しい暮らしを送り、多少会社では出世もし、子供も結婚し、今は孫も一人出来た。
もうじき、還暦を迎える。
自分が還暦を迎えるなんて、考えたことも無かった。
小学校の頃だったか、中学校の頃だったか、忘れてしまったが、何かの雑誌に手相による運勢診断が掲載されており、自分の寿命線を見て愕然としたことがあった。
俺の寿命線は極端に短く、途中であえなく消滅していることを知った時だった。
いつしか、四十前に死ぬものだと思っていた。
しかし、死なずに今、俺は還暦を迎える齢となった。
勿論、六十歳まで生きることが出来たという実感と満足感はある。
しかし、ただ、それだけのことだ。
それだけのことなんだよ。
また、心の奥底で何か疼くものがある。
俺に囁くものがいるのだ。
それで、お前は幸せなのか、と。
癪にさわるが、幸せだと言えない俺もいるのだ。
何かが足りない。
何かが欠けている。
還暦を迎えた立派なおっさんが、閉塞感とか飢餓感、或いは渇望感、焦慮感をぶつぶつと呟く姿は実に異様だとは思わないか。
人がやたらと恋しい。
昔の友達に会いたい。
会って、今の自分の位置を知りたい。
昔の友達に会い、近況を語り合うことによって、自分の今のポジションを確認したい。
誰でもいい。
誰か、現われないものか。
少し登った右手に、白い建物がある。『F水産試験場』という表札が門に嵌め込まれている。
そこを過ぎると、左手方向が広大な広場となっている。
小さい子供が喜びそうな動物の形をした遊具が沢山置かれており、全面芝生の美しい公園である。
親子連れの姿がそこかしこに見受けられ、青空の下で子供が動物遊具に乗り、スプリングを揺らしながら歓声を上げている様子はまことに長閑な眺めだった。
子供たちは大学を出て就職したものの、結婚とかいう雰囲気、気配は全く無い。
僕が孫の相手をするのはまだまだ当分は先の話か、と中井は微笑しながら思った。
六十歳に一年半ほど残して、早期退職したことで後悔したことは無い。
勤めた会社は古い体質の会社で、管理職の場合は内規として五十五歳が役職定年となっており、五十五歳を過ぎて取締役など含め役員待遇の管理職となれなかった者は繰り上げ定年といった早期退職制度を利用して退職するか、一度退職した上で、上司が勧める子会社或いは孫会社への出向に同意するか、或いは、部下が上司となる嘱託扱いに甘んじるか、というような道を考えなければならなくなる。
まあ、言ってみれば、役人世界の官僚みたいなものだ。
出向といっても、役人のような有利な天下りでは無く、給与体系は大幅に減ってしまうのが民間会社の常だ。
僕の場合は関連子会社への出向を打診された。
打診されて少し考えたが、結果としては、五十八歳にもなっていることであるし、子供も二人立派に独立しており、そろそろ会社勤めも潮時かなと思い、子会社出向の話は辞退し、早期退職優遇制度を利用する形で退職するという道を選択した。
子供にはもうお金はかからないし、古くはなったけれど、親が残してくれた文京区の家で暮らす限りは何とかこれまでの蓄え、退職金、将来の年金で生活していける見通しも持てていたからでもある。
『クモ膜下出血』という思わぬ病気に罹った経験も早期退職に踏み切った一つの要因となっているかも知れない。
自分で言うのも何だが、この病気に罹るまでは品質保証畑で結構働き蜂のような生活を長年送ってきた。
品質保証担当という職務はかなり神経が疲れる職務で、僕が知っている同業者は何と精神安定剤を日常的に飲みながら勤務しているという話も聞いたことがある。
それでも、僕は結構自分の性格に合っているという思いで、重大クレームが発生した時も逃げずに前向きな対応をしてきたつもりだ。
それで、病気になるまでは常々、出来れば六十歳を過ぎても仕事があれば、生涯現役とばかり働き続けるつもりでいたものだ。
しかし、長年蓄積したストレスもあったのだろう、思わぬ病気に罹り、二ヶ月ほど会社を休職し、元の仕事に復帰してからは少しずつ考えが変わってきた。
死んでも不思議ではない病気を克服し、何とか生き延びることが出来た。
言わば、何の後遺症もなく、奇しくも生き延びた命だ、一回限りの命だ、大事にはなければいけない、とこれまでにも増して命の有り難さを強く思うようになった。
人は生まれ、老いて、死んでいく。
これが寿命というものだ。
しかし、今という時間は二度と来ない。
今を大事にしたい、いや、大事にすべきである。
そして、今という時間を、今生きているこの人生を味わうという生き方を貫いていこう。
このように思っているのだ。
だが、そのように思う反面、還暦一年生となった今、僕は自分の今後の生き方も模索している。
自分という存在は一体どのような意味を持っているのか。
言い換えれば、今、僕は自分探しの旅を還暦旅行と称して行っているのかも知れない。
自分を見つめ直すためには、過去を再度検証しなければならない。
過去の自分と向き合うということは、今の自分を検証するということにもなる。
そのためには、過去に出会った懐かしい人と再会することも必要だろう。
懐かしい人の今の境遇を確認することにより、自分の今居る位置が確認出来るからだ。
換言すれば、懐かしい人との再会が自分を客観的に評価する良い機会になるかも知れないのだ。
他人と比較することにより、見えてくる新しい自分もあるはずだ。ということは、
畢竟、自分の人生はどうであったのか、を懐かしい人との再会の中で知るということか。
中井は坂道を登りながら、歩き続けた疲労のためか、少し混乱した頭でそのようなことをとりとめもなく思っていた。
道を更に登り、頂上付近まで行くと、右手に港の埠頭から見えた塔がその巨大な姿を現わしていた。
『マリンタワー』という高い展望台であった。
地上から三分の二程度の高さまでは白く塗装され、その上は青いガラス張りの展望台となっている。
それは、秋晴れの空に美しく映え、空に向って吠えるように屹立していた。
いつ頃、出来たのであろうか?
昔は、無かった。
昔無かったものばかりだ。
中井は段々と戸惑いが増幅され、感情が昂ぶっていくのを感じた。それは、やるせない怒りと似ていた。
O町という街並みも変り、愛子ちゃんの家も無くなり、臨港の駅も変り、測候所も変った。
そして、知らない建物がどんどんと増えてしまった。
アクアマリンという水族館、美食ホテルという観光施設、ら・ら・ミュウという海産物市場、M海岸のトンネル、マリンタワーという展望台、・・・、昔は無かった建物がどんどん増え、僕を全然馴染みのない異邦人にしてしまっている。
時代は変わり、風景も人に遠慮会釈無しにどんどん変わっていく。人も当然変わってしまっているのだろう。
今回の旅は僕にとってセンチメンタル・ジャーニーであり、過去を懐かしむ旅であったはずだ。
ところが、変わったものが多過ぎる。
これでは、過去に対する決別の旅となってしまう。
まあ、それもいいのかも知れない。
過去に対して決別し、未来へ向かう意思を表明する旅と位置付けるのもいいだろう。
ならば、僕はこれからどのように生きていけばいいのか。
ああ、洋一君に会いたい。
今の洋一君はどのように生きているのだろうか。
洋一君と比較すれば、自分の位置が分かる。
僕の人生は果たしてどうだったのか。
積極的に肯定出来る人生であったのか、それとも、否定されるべき人生であったのか、また、微笑をもって諦めるべき人生であったのか。
洋一君に逢えば、きっと判るに違いない。
道を左に折れて、中井は三崎を少し下り加減に歩いた。すると、道の右手に、『マリン・ビレッジ』という喫茶店があった。
少し洒落た感じの喫茶店であった。
入ってみよう、と中井は思った。
店内は結構広く、窓際の席に座れば、○○港が一望出来た。
正面に港が見え、左手後方にマリンタワーが見える喫茶店で、二人用、四人用、そして六人以上が座れるテーブルが十二、三はあった。
店内はかなり混んでおり、空いている席はほとんど無かった。
眺めの良い窓際の席を諦め、中井は店内中央の二人用の席に腰を下ろした。
そして、窓に目を遣り、港と海を眺めた。
店内はお喋りに精を出す女性客がほとんどであったが、男の客も二、三人ほど居た。
ふと、窓際隅のテーブル席に腰を下ろし、新聞を読んでいる男が眼に入った。
禿げ上がってはいないが、額は広く、白髪が目立つ初老の男であった。
少し若くは見えるが、結構年齢はいっているだろう。
ひょっとすると僕と同じくらいの年齢かも知れない。
何気なく見ていると、その男は新聞から眼を離し、中井の方を見た。
どこかで会ったような顔をしている、と中井は一瞬思った。
その男はゆっくりと中井を見てから、再び新聞に目を戻した。
男の横顔にも見覚えがあるような感じがした。
佐藤洋一君とどこか似ている男だ、と中井は一瞬思った。
が、そんなことはないだろう、いくら何でも偶然過ぎる、洋一君が偶然ここに居て、旅行で偶然立ち寄った僕と遭遇するなんてことは物語の世界でしか無い、それに何と言っても、五十年振りの旧友同士の偶然すぎる再会なんて、まあ本当にあり得ないことだもの、と中井は苦笑交じりにそう思った。
中井はコーヒーを飲み終わり、立ち上がろうとした。
窓際の男がこちらを見た。
中井は請求書を手に持って、立ち上がった。
洋一君、じゃないと思うけれど、一度話しかけてみようか、と中井は思ったが、違いますとにべもなく言われそうな気がして躊躇する気持ちも多分にあった。
行動に移すかどうか、中井はどうにも決めかねていた。
窓際の男が少しぎごちなく微笑んだようにも見えた。
完