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水底の校舎

作者: しろくま

 高校1年生のとき、私は彼女と出会った。体育の授業で、貧血を起こして倒れこみそうになった時、近くにいた彼女が駆け寄って支えてくれたのだ。当時は別のクラスだったから、彼女と会えるのは体育の授業だけだったけど、授業のたびに彼女に好感を持つようになった。バスケの時間には彼女の部活の三角関係の話を聞いて、水泳の時間には水泳が得意な彼女に泳ぎを教えてもらい、バレーの時間にはやたらボールが頭にヒットする私の姿を見て彼女は笑い転げていた。私は次第に週に二回もある、大嫌いなはずの体育の時間が楽しみになっていた。





 水底の校舎






 彼女は私とは全く違う人間だった。

 人当たりがよく、男女分け隔てなく誰とでもすぐ打ち解けられる上、何かの行事のたびに誰もが嫌がる面倒くさい役を引き受けて、しかしそれでも結果を出していたのでクラスメイトから一目置かれる存在だった。顔立ちが整っており、ぱっちり開いた目が印象的で、存在感がある。運動神経も当たり前のようによく、運動部に勧誘されるほどだった。


 そして誰よりも部活に熱心だった。彼女は美術部に属していたのだが、授業が終わればすぐに部室に行き、キャンパスの前に座り込んでいた。水を汲み、パレットに絵具を出し、筆をくるくると回しながら自分の絵とにらめっこしている。彼女がひとたび絵に熱中すれば、周りの声など聞こえない。時には睡眠や勉学の時間を犠牲にしてまで絵を描いているようで、教室で絵具を手に付けたままなのを気にせず眠ったり、赤点を取っては私に泣きついていた。ほぼ帰宅部だった私はたまに美術室を覗かせてもらっていたが、記憶の中の彼女はいつも私に背を向けていた。キャンパスに向かう彼女の背は、きっちり伸びていて美しい。


 部員ではない私はよく知らないが、彼女はたくさん絵を描いて様々なコンクールに応募しており、文化祭などの学内の発表の場でもかかさず作品を出していた。私は絵心が全くなかったため、彼女の絵に芸術的なすばらしさがあるかどうかはちっともわからなかったが、ただきれいだ、素晴らしいといつも思っていた。特に印象に残っている絵は、2年の文化祭で展示されたものだった。それは、おそらく5、6階の校舎の窓から中庭や体育館を見下ろしているような構図で、その中にこちらに向かって手を伸ばしている制服姿の少女がいる。中庭や少女の制服から、明らかに自分たちが所属している学校を模しているものだとわかるのだが、一つだけ不思議な点がある。校舎から中庭まで全てが水に浸かっているのだ。


「これね、……さんがモデルなんだ」


 彼女は出会った頃から最後まで私のことを、名字にさんをつけて呼んでいた。呆けたように絵を見つめていた私は彼女の言葉がよくわからず、え、私?と思わず聞き返す。


「うん、……さんはいつも苦しそうだから」


 なんだそれ、と私は苦笑した。が、否定はできない。私は、彼女みたいにはなれなかった。不器用で愛想がない。彼女以外の友人はほとんどなく、運動神経もなく絵も描けない。恋人もいないし先生にも好かれない。だから私はいつだって学校が嫌いだったし、彼女のことがうらやましかったのだ。監獄のような学校の中で唯一心を委ねることができたのは彼女だけだった。そんな彼女には私がこう見えているのか、と思うとその絵が宝物のように思えた。たとえ、絵の中の少女が息が出来ずに顔をゆがませていたとしても。



 私たちは高校2年の時に同じクラスになり、そのまま3年まで持ち上がった。その間私は新しい部活を始めてみたり、受験勉強とやらに手を付けてあくせく忙しく過ごしていた。彼女は相変わらず大量の絵を描く傍ら、クラスの行事運営の手伝いをしたり、高2になってできた恋人と毎日楽しそうに過ごしていた。恋人は同じ美術部の男の子で、自他ともに認めるラブラブなカップルで見ていてこちらが恥ずかしくなるくらいだった。それでも私と彼女の関係性は特に変動することもなく、毎日授業を受けて、お昼を食べて、部活に行くのを見送って、たまに二人で遊びに行く、そんな生活を続けていた。



 いつの間にか私たちは高校3年生になっていた。受験の足音があちらこちらで聞こえ、私はそれに怯えながら必死に勉強をしていた。彼女は以前と変わらず部活に行き続け、今もなお作品を作っている。私はなんとなく彼女の進路の見込みを聞けずにいたが、相変わらず彼女には赤点の山が押し寄せ、数学の先生がため息をついていた。そんな秋のある日、掃除を終えた彼女が荷物を持って教室から出て行こうとしたので、部活?と尋ねた。


「ううん、ちょっと彼と大事な話をしてくる」


 大事な話って、別れ話でもするみたいだ、と私は円満な関係であることを了解した上での冗談を彼女に投げかけた。すると彼女はくすっと笑った。


「うん、別れ話」


 その言葉で固まった私を置いて、彼女は放課後の教室から出ていった。



 その後のことで今でも思い出せるのは、彼女の恋人の顔と、三年間で初めて見た彼女の涙だった。私はどうも心配になって校内のどこかにいるだろう彼女の姿を探したのだが、タイミング悪く別れ話の真っ最中に見つけてしまったのだ。彼女の恋人の顔は疑問と怒りと悲しみに染まり、あまりにも歪なその顔に私は射抜かれたように動けなくなった。恋人は、わかった、と一言を残し、彼女を置いて去っていった。私は生まれて初めて恋が終わる瞬間を目の当たりにしたのだった。


 見苦しい姿を見せたと謝罪する彼女の肩を抱きながら、私たちは学校の外に出た。いつもの道を無言で歩いていると、「ちょっと行ってみない?」と普段は通らない道を彼女は行きたがった。私はそれに従い、歩いていくと小さな公園を見つけた。私たちはずっと近くにあったこの小さな公園の存在を知らなかったのだ。三年間もこの近くにいたのに。


「あそこで泣くつもりはなかったのになぁ」


 気まずい沈黙を破るのはいつも彼女の方だった。すでに泣き止んだ彼女は、自分が失恋したかのように涙を流す私に、呆れながらもハンカチを差し出してくれた。私にはわけがわからなかった。彼女の恋人は過剰ともいえるほどに彼女のことを愛してた。いつも一緒に登下校し、休み時間のたびに彼女の教室に遊びに来ていた。彼女繋がりで私も彼と何度も話をしていたが、誠実に彼女を愛している真面目な男の子だった。それなのにどうして、彼女は突然彼を突き放したのだろう。



「……さん、私ね、東京に行くんだ」


 彼女はブランコに腰を掛け、それを少し揺らしながら当然のようにそう言った。東京に行く、その唐突な宣言に私の涙は引っ込んでしまった。そして全てが腑に落ちてしまった。


「向こうの大学を受けることにしたの、私の欲しいものは向こうにある、そこで絵を描きたいの。……彼と別れたのはそのこともある、嫌いになったわけじゃないんだけど」


 彼女はここから出ていくことにしたのだ。これが全ての理由だった、答えだった。そして別れるのは恋人だけではない。慣れた場所から、愛し愛された人たちから、そして私と別れていくのだ。「絵を描きたい」というたった一つの理由だけで彼女は自分を守る繭を燃やす覚悟を持っていた。鮮やかに、軽やかに現状を変えていける強さと、すべてを捨て去る残酷さがあった。


 本当は行かないでほしかった。いつまでも体育の授業を受けて、他愛無いことを話していたかった。私のどうしようもない暗い性格を笑い飛ばしてほしかった。将来の夢、好きな人のこと、なんだって聞いてほしかった。私は彼女のことがどうしようもなく好きだったのだ。でも、私に彼女を止める力など何もないことは分かっていた。出会った時から今までずっと、彼女は私の手をすり抜けて飛び去って行く。そして二度とは帰ってこないことも分かっていた。



 そんな私に言える言葉なんて一つしかないじゃないか。ただ、頑張ってね、という言葉しか。



 彼女は私に許されたたった一つの言葉を聞いて嬉しそうに笑った。そして秋が過ぎ、冬を越えて春になる頃、彼女は宣言通りに東京へ旅立っていった。見送りなど不要と言うように、私に出発日を告げることなく旅立った。定期的にとっていた連絡も、夏が終わり秋がまた巡ってくる頃にはぱったりと途絶えた。








 たとえ彼女の未来に影響を及ぼさなかったとしても、あの時行かないでほしいと言えばよかったのだろうか。さみしいと伝えればよかったのだろうか。高校の時に撮った写真を携帯端末で眺めながら、大学生になってしまった私はそんなどうしようもない事を考える。私はさらに過去の写真を探し始めた。遠足、修学旅行、文化祭、教室、美術室……その中には高校2年の文化祭の写真もあった。写真写りがいい彼女と悪い私のツーショットがいくつも並び、私は苦笑する。そして、彼女のあの絵全体を撮った写真も出てきた。


「……さんがモデルなんだ」


 彼女の声が反芻されたと同時に、はっとしてその写真をじっと見た。水に沈む校舎と、苦しそうな少女の絵、彼女の絵。この絵の意味が今になってやっとわかったような気がした。


 そうだ、水に沈んだ学校で、もがく少女の姿は私だけではなく、彼女でもあったのだ。


 絵への渇望、遠地への憧れ、けれど彼女は高校生だった。思いを燻らせながら絵を描き続けるしかなかったのだ。眠たくても赤点をとっても、いつか羽ばたくときのために。恋人でも友人でも癒せない痛いほどの願いを持っていたのだ。美術室の中で絵に向かい続ける彼女の背には、孤独と焦燥がのしかかっていたのだ。私は気が付かないフリをずっとしていたのかもしれない。学校という箱庭が彼女の情熱を縛り付けていること、そして遠くない未来に彼女はいなくなってしまうことを。




 彼女は安定と引き換えに夢を追い、息苦しさからも解き放たれる。




 どこにも行けない私と、どこにでも行ける彼女。正反対な私たちが出会えたのは偶然だった。そして離れていくのは必然だった。奇跡のような三年間を、監獄のような狭い校舎のなかで私たちは駆け抜けたのだった。水に沈んだ校舎の中で彼女は必要のないはずの私の手を取ってくれた。あの小さな公園で私に夢を教えてくれた。




 彼女のことが好きだった、大事だった。眩しくてうらやましかった。彼女と過ごせてとても楽しかった。もし、もう一度会える日がくるならば、あの絵を貰おう。もし捨ててしまったなら、また描いてもらおう。あの永遠に続くかと思っていた三年間を忘れないために。


2017/8/29に執筆したもの。

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