1話 朝と九重家
__夢を見ていた。
これは、夢だ。
目の前に、誰かがいた。
誰かは僕のほうを向いて、唇を小さく動かしている。僕はそれをただ見ているだけ。顔は分からない。声も聞こえない。それでも、何かを呟いていることだけは分かる。
ふわり、ふわりと意識が揺れる。ふわり、ふわりと視界も揺れる。やがて『誰か』は掠れ消えていく。
脳はまるで働かない。まるで赤ん坊にでもなったみたいだ。ただただ目の前の現象を享受するだけ。ああ、頭が馬鹿になっている。とても気持ちが良い。できるなら、一生こうしていたい__
でも__僕は知っている。もうすぐ、この夢から覚めてしまうことを。
そして、夢から覚めると、もう『誰か』のことを思い出すことは無いことを。
これまでだってそう。夢を見たことは覚えていても、不思議と夢の内容を覚えていることは無かった。起きた瞬間にはいつも頭の中からさっぱり消え去っていた。
理由は分からない。大した夢ではなかったのだろうか、元々そういう体質なのだろうか。
それともあるいは……
「ゆうううううううう!!起きろおおおおおおお!!!!」
あるいは__夢の途中で叩き起こされているからだろうか。
「ふぐっ!?」
まだ静けさの残る朝方には不釣り合いな大声と共に突然、ベッドの左側から非常に強い圧迫感を感じた。
瞼を開けると、そこにはエプロンをした中年女性が一人……
「さっさと! 起きなさい! いつまで! 寝てんのさ! ユウ!!」
ベッドをゴロゴロと転がりながら、僕に何度も体をぶつけていた。
意味が分からない。
「とっくに! 朝ご飯! できてんのよ! ほら! ほら! ほ」
「ちょ、やめて、母さん!起きてる!もう起きてるから!」
痛い!これ地味に痛い!
脳に血液が回っていないのと状況の意味不明さもあり、僕は母さんの攻撃(?)を避けることができずにいた。
「あら、もう起きてるの?ならさっさと顔洗ってきなさい!早くしないと朝ご飯冷めるよ!」
怒鳴りながら母さんはベッドから降り、シワシワになったエプロンを整え始める。
目を擦りながら、僕は上半身をゆっくりと起こした。
「母さん……なんでいつも普通に起こしてくれないの?」
「ん?そりゃアンタ、普通に起こすだけだったらウーンウーンって唸るだけで全然起きやしないじゃないの。だから母さんもね、アンタの目が覚めるよう毎日工夫してるんだよ!」
そう言いながら母さんはケラケラと笑う。
なんでこの人は朝からこんなに元気なんだろう。
「じゃ、顔洗ったらさっさと降りてきなさい!2度寝したら今度は上からやるからね!」
う、上からってなんだ?
目覚まし時計を確認する。
6時__20分……
早過ぎる。
今すぐにでも布団に潜り込みたい衝動に駆られたが、ここで二度寝してしまったら母さんに上からやられてしまう。この家では母さんの言うことは絶対だった。誰も逆らうことはできないのだ。
階段を下りていく母さんを横目に、僕は7時にセットしていたタイマーを虚しくOFFにした……
テーブルに座ると、父と妹が既に席についていた。
「おはよ、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう」
妹は既に目が覚めているようで朝食に手を付けているが、父さんのほうはまだ眠いのか、目を閉じてカクカクと頭を揺らしていた。
「いただきまーす……」
味噌汁の香りを鼻に感じながら、僕__九重優は両手を合わせた。
我が家、九重家はごく普通の一軒家に暮らす、ごく一般的な4人家族である。
父は一般的な会社員、僕と妹は一般的な高校生2年生と1年生、母は……まあ一般的な専業主婦だ。
何か他の家庭と違ったことがあるかというと__と言っても他の家庭の生活を知ってるわけじゃないんだけど……あえて挙げるとするなら、我が家は母の権力が非常に強いということぐらいか。割合で言うと9割は軽く超えているだろう。独裁も独裁である。
「あの…母さん」
「なんだい?」
エプロンを取り、席に着こうとしていた母さんがこちらを見る。無意識に身体が強張った。
「前から思ってたんだけどさ……朝ご飯、早すぎない?もうちょっと寝てたいなー、なんて思ったり」
学校が始まるのは8時20分。通学には20分弱。朝の準備も30分あれば十分なので、登校までには少なくとも1時間以上の余裕があった。時間ギリギリまでとは言わないけれど、せめてあと30分は寝ていたいのが本音である。
「なーに寝ぼけたこと言ってんのアンタ」
母さんは僕の意見を異に返さず、その長いまつ毛を携えた吊り目でギロリとこちらを睨んできた。これくらい別に怒っているうちには入らないのだが……その眼力はかなりの迫力があり、ぶっちゃけかなり怖い。前世は蛇か何かだったのだろう。そして僕の前世は恐らくカエルか何かだ。
「『朝ご飯は家族みんなで食べる』、これは九重家ルールの一つ!破ることは許さないよ!」
「いや……それならみんな起きる時間を遅くすればいいんじゃない?ほら、父さんも眠そうだし」
父さんも控えめにだがウンウン、と頷いて僕の意見に同意している。
僕と父さんの主張に、言葉に母さんはフン、と鼻を鳴らした。
「それなら愛に言いなさんな。母さんは一番早く起きた人に合わせてるんだから」
そう言いながら母さんは妹__九重愛のほうを見た。
「ん」
突然話題が自分に向いたことに気付くと、愛は頬張っていた塩サバをゴクリと飲み込んだ。ぴょこ、と寝ぐせが跳ねる。
「愛、頼む!もうちょっと寝ててくれ!」
間髪入れずに僕は愛に向かって手を合わせた。睡眠時間を確保できるかどうかは死活問題だ。自然とリアクションもオーバーになってしまう。
「えー」
僕の頼みに愛はなんとも微妙な返事をした。快諾、とはいかないようだが、そこまで嫌そうな顔をしていないのが幸いである。これは頑張れば行けるパターンだった。ちなみにダメな時は『ヤダ』の一秒で会話が終了する。
「でも私、6時になったら目ぇ覚めちゃうんだもん」
「そこをなんとか!」
「やだよー。いろいろ準備しなきゃいけないし…」
「じゃあ!せめて20分だけ!20分だけでいいから!」
「あんまりせめって無くない?んー、どうしよっかなあ」
ちなみに愛も朝にそんなに強いわけではなく、受け答えもローテンションである。
「そもそもアンタ、このところ大分夜更かししてるでしょうが」
「うっ……」
僕と愛が交渉をしていると、母さんから手痛い横槍が入った。
「アンタが無駄にゲームしてる時間を20分削ればいいじゃないのさ。人にモノを頼むなら、まず自分がなんとかしてみなさんな!」
母さんの言葉に、僕は言葉を詰まらせる。まったくの正論なのだが、
「で、でもさ、朝ご飯食べた後、結構暇なんだよね……学校の準備はもう終わってるし、その時間を睡眠に使いたいなー、なんて思ったり」
我ながら苦しいが、精いっぱいの反論を試みる。
「遅刻ギリギリになって準備するよりマシでしょうが。それに、辰クンも外で待ってくれてるんだろう?」
「いや、辰とは別に待ち合わせしてるわけじゃないんだよ。なんでかいつも一緒になるだけで……」
「ごちそうさまー」
僕と母さんが問答をしている間に愛と父さんは朝食を食べ終えていた。
「あ、愛!」
「ん、ちょっと考えとく!」
愛はそう言い残し、食器を持って立ち去っていった。
「ほら、あんたも食事中に喋ってばっかいなさんな!味噌汁冷めるよ!」
「は、はい……」
こうして、朝の時間はせわしなく過ぎていく。せっかく朝早く起きたのだから、ゆっくり過ごしていいはずなのに……
『……まだまだ上着の必要な気温ですが、今朝のヨナガは青空が広がっており、とても心地の良い天気が続くでしょう!それでは次のコーナー__』
地元のニュース番組は、いつもの女子アナウンサーが今日も透き通るような声とさわやかな笑顔を食卓に振りまいていた__
「じゃ、行ってきまーす」
玄関前を通りかかったとき、ちょうど愛が家を出るところだった。
「いってらっしゃい」
既に靴を履き扉に手をかけている愛に向かって、日課になっているやりとりを行う。行く学校は一緒なのだから、いってらっしゃいってのもよく考えたら変な話である。
「あ、お兄ちゃん!」
そのままリビングに戻ろうとしたところを愛に呼び止められた。
「どうした?」
玄関前で声を掛けられるのは珍しい。(無駄に)時間に余裕はあるので別に構わないんだけど。
「起きる時間のことだけどさ、今日の夜、これ手伝ってくれたら考えてあげる!」
そう言いだすと、愛はポケットからスマホを取り出し、画面を僕の顔に近づけてきた。
「お前、また新しいアプリ始めたのか」
「『わんこにゃんこ融合!』ってアプリ!最近クラスで流行ってて、すごく面白いんだよ!」
「わんこにゃんこ……融合?」
聞いたことないアプリだ。かわいいタイトルに見せかけて結構おぞましいことを言ってる気がする。融合って、あの融合のことだろうか?
「いろんな動物を混ぜて新しい動物を作るの!特にうさちゃんとねこちゃんを混ぜた『ウーサーニャイト』がすっごくかわいいんだよ!」
そう言いながら愛は、ウーサーニャイトというキャラを僕に見せてきた。ネコの顔にウサギの耳がついているデフォルメされた動物が、甲冑を着て兵士の格好をしているというなんともゴチャゴチャしたキャラが画面に写しだされていた。たしかに可愛いと言えば可愛い。
「じゃ、後でダウンロードしといてね!いってきまーす!」
それだけ言い残し、愛は玄関を飛び出していった。
正直つまらなさそうだけど……まあ、これで睡眠時間が増えるのなら安いものだ。
僕は制服に着替えながらスマホで『にゃんこわんこ融合!』のアプリを探す。
ランキング67位。
……流行ってるのか?
いつもより少しだけ賑やかな、とある朝のことである。