16話 ウサギと女神
__帰り道のことだった。
「……あのウサギだ」
いつだったか、辰と動物探しゲームをしながら帰った日。その時と同じ林の傍に、再びウサギが座っている姿を発見した。
ウサギはポツンとその場に座り、ジッとこちらを見据えている。全く警戒した素振りを見せない仕草から、すぐにあの時と同じウサギだと分かった。
と思ったのも束の間。突然、ウサギは僕に背を向け動き出した。
ピョン、と2、3歩飛び跳ね木々の奥へ進んだかと思うと、再びこちらを向いて目線を送ってくる。
ついてこい、と言われている気がした。
辺りには誰もいない。僕は服装を確認する。勿論、学校の制服だ。とても雑木林に入れるような恰好ではないけれど……そうしている間にも、ウサギは少しずつ歩を進めている。
__行ってみるか。
意を決し、僕はウサギの元へ駆け出した。
ウサギは僕と絶妙な距離を保ちながら、素早い動きで林の先へ進んでいく。それをなんとか見失わないように追いかけるが、さすがに野生の動物と同じよう薄暗い木々の間を進んでいくことは難しかった。
動くたびに足に細かい枝が擦れているのが分かる。傷になってはいないだろうか。制服もどこかに引っ掛けてはいないだろうか……
「……ぷっ」
僕は一体を何やってるんだろう、一人で思わず吹き出してしまう。
もしも辰がこの場に居たのであれば、絶対に二人して同じようにウサギを追いかけていただろう。いや、辰なら一人の時でも追いかけるような気がする。木々を掻き分けながら僕は声を出さず笑った。
大分、奴に毒されてる。僕一人でこんなことをやってるなんて、それこそ辰に知られたら笑われてしまうだろう。
ただ、なんとなく今日はそういう気分だった。
それに、この林に入ることにしたのにはもう一つ理由があった。
随分昔、小学校何年生の時だっただろうか。辰を先導に、仲の良かった友達といろいろな森を冒険していた頃。この林を進んだ川沿いに、とても小さな滝を見つけたことがあったことを思い出したからだ。
その滝は誰も存在を知らないような本当に小さいものだったけれど、当時の僕たちはそれはもう大興奮で、そこに秘密基地を造って遊んでいたこともあったぐらいだった。
当然滝の名前は無かったから、その時にみんなで名前を考えて、最後にジャンケンで決めて……そうだ。僕の案が採用されたんだった。
昔を懐かしみながら、ひたすらウサギを追いかけていく。
見覚えのある道と共に、あの日の記憶がだんだんと鮮明になっていった。
そう、確かあの滝の名前は__
「あった!透明の滝……」
透明の滝は、数年前と変わらず今でも透き通るような景色と心地良い音を響かせていた。まるで、皆と遊んだ小学生のあの日にタイムスリップしたかのようだった。
ただ……
ただ、一つだけ、あの日とは明確に違うものがあった。
滝が落ちた先のちょっとした水たまりの部分。
そこに一人、女の人が浸かっていた。
__全裸で。
「__っ!!?」
それは後姿ではあったが、背面からでもその美しさが十分に伝わってくるのを感じた。
背中まで届く長い金色の髪が濡れて輝き、水面から伸びる肢体はまるで彫刻のような曲線を描いている。
ふと昔絵本で読んだ、金の斧・銀の斧を思い出した。
水面から現れた女神。彼女はまさにその表現がぴったりだったからだ。
女神はもちろん実際には存在しないが、そう思えるほど目の前にある光景は現実離れしていた。自分がおとぎ話の世界に足を踏み入れてしまったような錯覚さえ覚えてしまう。
女の人が、ゆっくりとこちらを振り向く。
僕は思わず息をのんだ。
前に一度だけすれ違った外国の美少女、その彼女だった。
彼女は僕を見据え、瞳を大きく見開かせたが、不思議と全く慌てるような素振りを見せず、それは一般的な反応としては不自然なくらいだった。
「どうして、ここに……」
一言だけ、透き通るような声が彼女の口から漏れた。だが、その言葉を理解できるほど頭は働いておらず、代わりにその声質だけが鮮明に記憶された。
しばらく、僕は彼女の瞳から目を離すことができなかった。その水に濡れた瞳があまりにも美しかったからか……それとも単純に、その瞳よりも下を見てはいけないと思ったからなのか__
見つめあう時間はとても長く、まるで時が止まったよう。それが、永遠に続くのではないかと思ってしまうほどだった。
そう、永遠に……
永遠に……
……
……
あれ?さすがに長すぎない?
どんなに時間が圧縮されているように感じていても、さすがにこれは長すぎる。20秒、いや30秒以上はお互いに静止した時間が続いていた。僕が言葉を失っていたせいもあるかもしれないが、それでも男女二人(一人は全裸)が何も喋らずに見つめあい続けるという光景は明らかに異様だった。
「……えっ、あ、あれっ?」
突然、彼女は先ほどまでの落ち着きが嘘のように、額から冷や汗を流して体を硬直させた。
「すっ、すみません!えっと、あの、ウサギを追いかけてて……」
僕もその言葉を皮切りに、しどろもどろになりながらなんとか言葉を捻りだしていく。
そんな僕の言葉を聞いた瞬間、少女の顔は驚愕の表情と共に真っ青に染まり、そこから見る見るうちに赤く変化していった。
「嘘……もしかして、み、見えているのですか!?」
「は、はい、丸見えです……」
数年前と変わらず、水の落ちる音だけが静かに鳴り響く透明の滝。
時が止まったかのようなその空間に、美しい女神の高く、そして長い悲鳴が響き渡った__
・
・
・
「んー?やっぱりこの場所で消えちゃってますね、この女の人……」
目の前に移る映像を何度か見返したあと、桃野こころは難しい顔で首をひねった。
「消えた、ねえ……」
佐護桜は顎に手を当て、切れ長の目を細める。先日ユウの隣を横切った女性……今はその足取りを追っている最中であった。
地味な服装をし、顔がほとんど隠れる程の帽子を被った姿。周辺の住民に確認を取ったが、そのような格好で出歩いた者はいないとのことだった。
注目すべきは、この女性を見かけたという者が一人もいないという事実である。いくら印象に残りづらい格好とはいえ、近辺の住民でない者の姿であれば誰かしらの目には止まるはずである。
相当影の薄い人物なのか、そうでなければ自分から人目を避けているのか……いずれにせよ情報が得られなければどうしようもない。
となると、頼みの綱は監視カメラだけになるが……
優と共に映っていたカメラの延長線上__普通に歩いていけば次に映るはずの映像に、彼女の姿が映っていないのだ。
当然、人が消えるということは普通に考えればあり得ない。つまり、姿が確認されたカメラと、次のカメラまでの数メートル……いわゆる死角の場所で彼女に対して何かしらのアクションがあったはずである。
可能性として挙げられるのは、周辺住民の誰かが嘘を付いており、映像の女性をどこかに匿っているというものが一つ。可能性としては真っ先に考えられるものであるが……いまいちしっくりこない。
むしろ考えられるのは、普通は起こり得ないほうの可能性。
人が消えるという現象が本当に起こっていたとすれば……
「モモちゃん、この数秒映っているところだけで、いけそうか?」
桜の質問に、こころは力無く首を横に振った。
「いえ、この情報だけでは難しいです。顔も帽子を深く被っているのでほとんどが隠れていますし、解像度も粗過ぎます。せめて私がこの女性の表情をきちんと認識できればいいのですが……あっ!」
その言葉も束の間、突然目の前の映像が鮮明になり、九重優の姿と共に女性の姿もある程度はっきりと見えるようになった。心と桜は同時に振り返る。後ろの席で寝そべりながら漫画を読んでいる、コウのほうを注目した。
「ほらブス、見やすくしてやったぞ。さっさとめんどい仕事終わらせな」
「コウちゃん!ありがと!」
「うっせ、テメーはその能力くらいしか出来ることがねーんだからよ。他にできるとすればパイふひゅい!?」
コウの両頬が桜につねられる。
「コウよ。先輩にそんな口の利き方したら、どうなるか分かってるのかな?」
「げ、げんひゅうだへはやめへふだはい……」
「隊長、いいんです。コウちゃんの言う通り、私これくらいしか取り柄が無いですから」
こころは少しだけ自虐的な笑みを浮かべたあと、すぐに真剣な顔になり映像をジッと見つめ始めた。
「ふむ、鮮明になったとは言え、さすがに遠すぎるか……モモちゃん、これなら読み取れそうか?」
「はい。完璧とは言えませんが、彼女が『優』とすれ違った瞬間に生じた感情をある程度であれば読み取ることが出来ます。情報が多ければ多いほどより詳しい感情を読み取れますが、この少ない情報、しかも映像越しとなれば、読み取れるのは本当に表面上の感情だけになってしまいます……」
「構わない。よろしく頼む」
「分かりました!」
こころは映像に映る女性を凝視する。数秒その状態が続いた後、彼女は映像を見つめたままゆっくりと口を開いた。
「恐らくこの感情は……」
「緊張」
こころの放ったその言葉は、普段の柔らかな口調と違い鋭く研ぎ澄まされていた。
桜は腕を組む。
「緊張……か」
「え、そんだけ?」
コウが目を丸くする。
「う、うん。この情報だけじゃ、これが精一杯」
「ほんとに合ってんのお?この人、全然優雅に歩いてんじゃん。緊張してるようになんて見えねーんだけど〜」
「ご、ごめんねコウちゃん。せっかく手伝ってもらったのに」
「いや、十分だ。お手柄だよ、桃野隊員」
佐護桜はこころの肩をポンと叩いた。
「コウよ、お前は先程『緊張しているように見えないからモモちゃんの言葉は間違いだ』などと言っていたが……それは違うぞ。緊張してるように見えないから、こそだ。我々では判断することのできないレベルで対象の『感情』を読み取るセネルこそが桃野こころ隊員の真骨頂。情報収集に大いに役立つ、大変貴重なセネルだ」
「そんな、褒めすぎですよぉ先輩」
こころが両手を頬に当てて照れる。
桜は目を閉じた。
決して褒めすぎなどでは無い。これは非常に重要な情報だ。
見た目とは真逆の感情を持つ、それが意味することは……
そう、彼女は『緊張』しているのに、そのことを悟られまいとしているのだ。そして緊張の原因として考えられるのは、当然__
「皆の者聞いてくれ!」
桜は監視室の中央に立ち、部屋全体に向けて声を上げた。
「今しがた検証した謎の女性。この人物はほぼ間違いなくクロだ。何らかの『セネル』を使って代永に潜入した可能性が非常に高い。そしてその狙いが九重優である危険がある。今すぐ厳戒態勢に入り、彼女の行方を__」
「その必要はございません」
彼女の言葉に隊員達が返事をしようとした瞬間。
「!!」
その声は__
その姿は、突如としてこの空間に出現した。




