涅槃の星屑
腕をつかむ。酩酊、酒によるもの。腕の上から腕をかぶせ、頭の上に頭をかぶせる。
なにか、大きいものがかぶさるようにして、彼女は彼に取っ組み合うようにして、くまなく覆う。すべての思いが逃げないように。
それは、腕と腕の隙間から、すきま風に吹かれたみたいに、今まで彼と彼女が積み上げたものが砂礫となり、地面に溢れ張り付き飛散してしまうことを、彼女が夢見てしまったがために。
それは、彼が彼女の手のひらを掴んで地面に叩きつけ、そこに黒い柄の小ぶりな刃物を突き立て、彼女の手のひらから血がどぶどぶと溢れ出ることを、彼女が願ってしまったがために。
それは、彼女が今まで彼の喉元に爪を何度も突き立てるふりをしては、笑ってふざけただけだとサインを振りまき、その一方で、彼の咽頭の奥のアコーディオンのような形の器官を引き摺り出すことを諦めたことを悔やんでしまったがために。
彼女はもう、彼の耳の穴の中に水を流し込み、石膏のように固めてなにも聞こえなくしてしまいたかった。
彼の上唇の裏側には引っかき傷によるミミズ腫れを作って、それをリボン結びで結わえて治療したかった。
彼の爪の奥には爪楊枝でちくちくとこまめに突いた傷を、ひとつの指につき15個ほど完成させ、その傷に砂を塗りつけて上からマキロンを流し込みたかった。
そして、彼の頭にはピンク色のリボンで髪の房を10個程度に結わえて、それぞれの髪束に鋏を通し、すべての房を切り落としたあとに、頭皮の露出した部分に爪を刺して引っかき傷をコンスタントに勲章としてつけてあげたかった。
砂礫になって、今のこの時間が逃げてしまわないように、動かなければならない。
彼女は、彼の頭をガラス戸に軽く打ち付ける。こつ、と音がしてから、彼女は笑う彼の上からまた空気が漏れるのを防ぐようにして、ぴた、と密着する。
頰の温かみと耳のやわらかさ、そぼそぼと揺れる短い髪。烏賊くせえ、と笑いを弾けさせながら彼は言う。
彼女は我に返ったふりをしながら聞き返す。
なんて言った?彼は応える、烏賊くせえ。ビールと烏賊の匂いがする。
彼女は酩酊している。烏賊の燻製も食べたばかりだ。照れ隠しに本当は言いたかった。
わたしを吊るして干して焼いて食ってくれたら、あなたの首根っこからわたしの頭をどけてあげよう。さあ、どうだい。嫌な取り引きじゃないだろう?
彼はきっと、首を横に振るだろう。バーカ、何を言っているんだ、お前頭おかしくなったのか?
彼女はそれを聞いて彼に齧り付く。君の常識、君の世界、それは君を損なわせる。
私がもっと綺麗で楽しく、君を傷つけ苦しめることのない世界を見せてあげる。
君を傷つけ苦しめる権限があるのは私。鍵は誰にも取り上げさせない。君の喉の奥に鍵穴を作った。だから、鍵穴を壊す前にわたしは君を湖に突き落とさなければならない。
私は高い木の上から夕焼けの空目掛けてハイヒールで太い枝を蹴り、ぶよぶよと太った肉体を夕焼けの下に叩き落とさなければならない。きっと血がついて痛いだろう。
茨はたくさんあるだろうし、緑青色の尖った鉱石が谷底で食欲を漲らせてきらきらと輝いているだろう、けれど。
私は君のことを、とても、そんな、きれいな場所にも行かせたくない。私が行く。
行って、すべての針の山を切り崩し、丸い形の鉱石の玉をたくさん宙に放り投げて、君にぶつけて血まみれにしてあげる。
だから、君を離さないように。離れがたく変じさせることを目的にして。
私は腐った花のような口をかろうじてこじ開け、君の口に舌をさしだす。
舐めればいい、舐めて、すべて忘れさって、昏倒するように、私にしがみ付いて、眠りに落ちてしまえばいい。
好きだと伝えなければ、なにも、触れることすら、手のひらの形すら、思い出すこともできないから。
瞼の閉じ方も、春のうららかさも、仕事の在り方や、君の名前すら、知らぬまま。
わたしがわたしでないままに、死んでしまうことになるから。
世界にあるものはくまなく劣化し風化して、ヒトが老いると形容する流れを汲み受胎して孕んでは手をつないで朽ちて最後の血液の一滴まで乾涸びて凍り、酸素に晒されてひとかけも、ひとかけという概念も捨てゆかずに、××になる。
××を、見たい、ああ。見たい。見たい。そうすれば、君も、損われさせなくできる。多分、きっと。ああ。見たい。