デッド・フロント
暗い夜の森。鬱蒼と茂る高木が頭上を覆い、月明かりさえ届かない。街の外れに位置するこの森は地形が入り組んでおり、現地の者でも迷うことがある。それが視界の悪い夜ならば尚更だ。
だが、そのただでさえ土地勘が無ければ引き返せない暗い森を進む者がいた。
片手にランタンを持ち、闇に紛れる黒いローブで素性を隠した小柄な人影が、人目を忍んでゆっくりと木々の間を歩いて行く。こんな夜更けにこの森にいる時点で十分不審だが、それに輪をかけてその人物の服装は怪しい。
その人影は仕切に背後を気にして、誰かが後をつけていないか気にしている様子だ。挙動まで怪しいことこの上ない。
「……ここまで来ればあいつらも追ってこないでしょ」
フードの下からぼそりと独り言がもれる。それは年若い少女の声質だった。
彼女は追手がいないことに安堵したのか、やおら今まで視界を狭めていたフードを取る。ランタンの明かりに照らされて少女の顔が露わになった。髪はセミロングのブロンズで大きな瞳と端整な顔立ちは見目良く美少女と言っても差し支えない。
そんな十代半ばの少女は、ただひたすら真っ直ぐに当てもなく森を突き進む。追われる身である彼女には、帰る場所も逃げる以外の選択肢も残されてなどいなかった。
しかしそれでも少女の体力などたかが知れている。夜通しで歩き続けることなど不可能だ。事実ここまで相当な距離を歩いてきた彼女の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「さすがにちょっと、休憩しないとまずいかな……」
どこか落ち着ける場所がないか辺りを見回すが、周囲には樹木と草しかなく、とても休息できそうなところはない。
足はすでに悲鳴を上げており、彼女は今にも倒れてしまいそうだった。
鉛のように重くなる足を無心で動かし、虚ろに彼女は前方を見つめる。するといつの頃からだろうか、気づくと彼女の周りにはうっすらと霧が漂い始めていた。その霧は一歩一歩進むごとに濃さを増していき、十メートルも歩くとランタンの光は濃霧に遮られてしまった。
「どうしよう……」
ただでさえ先の見えずらい暗闇で、霧まで出ればいよいよ進むことすらままならなくなる。そうなれば休息場所を探すどころではない。
これはもう適当な場所で休むしかないかと少女が悲観しかけた矢先、不意に霧が薄まり、生い茂っていた木々が消え、彼女は開けた場所に出ていた。
一部だけ木が一本も生えていない新円状に切り抜かれた地点。そこからだけは満月の様子を窺うことができた。まさか森の奥地にこんなだだっ広い場所があるなど予想していなかった少女は驚きとともに周りを見渡し、前方に目を凝らしてその足を止める。
「なに、あれ?」
少女はもっとよく見えないかとカンテラを前に突き出し、眼前の大きな影に首を傾げた。
二十メートル前方、薄い霧に紛れて黒い輪郭を浮かび上がらせる大きな建物が、突如彼女の前に現れて立ちはだかったのだ。
接近するとその外観は古びた洋館だった。レンガ造りの壁には蔦がまとわりつき、懐古調の渋い色合いと左右対称の造形が趣を感じさせる。一階から二階まで視界に映る窓には明かりがついておらず、彼女がすぐに建物だと気づけなかったのも無灯が原因だった。
「誰もいないのかなぁ」
ここは人気のない森の中だ。むしろ無人である可能性の方が遥かに高い。もしかしたらかつてどこかの貴族が趣味で立てた別荘なのかもしれない。なんにしても、これほど休息にうってつけの建物もそうそうないだろう。
彼女は内心僥倖に感謝すると、喜々として門まで駆け寄った。人間目の前に希望が見えると疲れすら忘れるものだ。
段差を昇って彼女は両開きの扉を見上げ、そっと取っ手を握った。
そこでふと彼女の脳裏に、もしかしたら鍵が閉まっているかもしれないという不安がよぎるが、思いのほか扉は簡単に開き、部屋の明かりが隙間からこぼれた。
「やった。鍵がかかってない」
杞憂に終わったことで少女は静かに息をつきつつ、意気揚々と中に入る。
別の思考が介入したためか、あるいは疲労で認識が鈍ったのか、この時点で彼女は一つの違和感に気づくことができなかった。
中に入って後ろ手に扉を閉める。しばらく少女は床を見つめ、次いで目を瞬いた。
「…………あれ? なんで照明がついてるの?」
我に返った様子で彼女は今更な疑問を声に出す。中に入るまでは灯りなど確認できなかったはずであるが、今はまばゆいほどの煌びやかな照明が広い室内を照らしている。
不思議に思い首を傾げるも、すぐに見間違えたのだと結論付けて少女は周囲に目を向けた。
吹き抜けのエントランスは外観から予想される以上に広く、豪華なシャンデリアが部屋中を照らしている。扉から続くレッドカーペットの先にはドアがいくつも並んだ廊下。左右にはゆるやかにカーブした階段が待ち受けており、高級ホテルと見紛うほどの内装だ。
調度品一つ取っても大きなワシの石像や女性の肖像画など、おおよそ少女では値打ちすら推測することもできそうにないものばかりで溢れかえっている。
「ここ、入ってよかったのかなぁ……」
少女は今更ながら後悔し始めた。照明がついている段階で家主がいるのは確定的だ。こんな気品ある屋敷に身なりの悪い少女が泊めてくれと頼んだところで、断られるのは目に見えている。それどころか不審者扱いされて銃を向けられる可能性だってあるのだ。
ここはやはり出た方が最善かもしれないと、少女はすり足で後退りそっと扉を開けようとする。
「あ、あれ……なんで開かないの?」
ところが、いくら取っ手を押しても引いても、先ほどはすんなりと開いたはずの扉がびくともしないのだ。言い知れない不安感に駆られ、少女が扉をこじ開けようと躍起になる。そのせいで彼女は周りに気を配る余裕を失ったのだろう。自分の背後に人影が立ったことに少女は気づかなかった。
「いらっしゃいませ」
「ひゃっ!?」
突然声をかけられて、少女の肩が跳ね上がる。勢いよく振り返れば、そこにいたのは一人の若い男性だった。背が高く愛想のいいフロックコート姿の優男。彼も少女の悲鳴に多少驚いたのか、同じくして目を丸くしている。
「驚かせてしまい申し訳ございません。なにぶんお客様が必死だったもので、声をかけるタイミングを逸してしまいました」
「あ、いえ……こちらこそ、すみません」
仰々しく頭を下げられ、少女はたじろいでしまう。てっきり見つかったら問答無用で追い出されると危惧していただけに、この親切な対応は逆に彼女を困惑させた。それに彼は先ほど少女のことを『お客様』と呼んでいたが、まさか――
「あの、この洋館はいったい……」
「はい。うちは『フェルノ』という名前で宿屋を経営しております。それとわたくしはここのオーナーです」
「そ、そうだったんですか」
その答えに少女は一応納得するが、それでも完全に疑問が晴れたわけではなかった。このように人気のない場所に宿屋を建てたところでお客など来るはずもない。それなのになぜここで、しかもこれほど凝った装飾の洒落た宿が営まれているのか、非常に気になる点であったが、それを訊くのはどうしてか憚られた。
彼女自身うまく言葉では言い表せないが、これは聞いてはいけないような気がしたのだ。
少女が口をつぐんで黙りこくっていると、眼前の男が心配そうに顔をのぞく。
「お客様、ご気分がすぐれませんか?」
「あっ、い、いえ! 大丈夫です!」
意識を内に向けていただけに、いきなり目の前に顔が近寄り少女は思わず顔をのけ反らせる。男性の顔は驚くほど端正で、至近距離まで来られようものなら緊張せずにはいられない。
眉目秀麗という言葉がふさわしい彼であるが、逆に整い過ぎて人間味がないような印象も同時に受ける。心配する顔も微笑む顔も、まるで人間を模倣した上辺だけの表情であるように思えてくるのだ。単に深読みし過ぎであろうが……。
少女は内心疑念と不安を抱えつつも、まずはもっとも重要な問題を解決しなければならなかった。
「あの……一つ訊いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「宿泊費って、おいくらですか……?」
非常に恥ずかしい質問であるが、彼女にとっては死活問題であった。ぼろいローブから察せられる通り、彼女はあまりお金を持っていない。銅貨五枚――だいたいパン五つほどの額が少女の所持金だ。しかもそれは逃げ出した際に追手から盗んだ小銭であるため、胸を張って使える代物でもない。
はっきり言ってこの程度のはした金では、寂れた宿屋で食事なし一泊がやっとだろう。この見るからに豪華な館に銅貨五枚で泊まれるとは到底思えない。しかしこんな奥地でここ以外に休息できる場所などあるわけがないのも事実。最悪無理な時は廊下でもいいので泊めてもらえないか談判するほかない。
そうして少女が早くも断られる前提で土下座の準備を進める中、オーナーの口から飛び出したのはある意味で驚愕の金額だった。
「宿泊費は一拍銅貨三枚です」
「やっぱりそうですよね、こんな高級店じゃ私なんかが払えるような…………え、安っ!」
あまりの格安費用に、告げられてすぐは反応できずタイムラグが生じるも、脳が処理を終えると同時に少女は飛び出さんばかりに目を見開いていた。
銅貨三枚。ということはつまりパン三つ分でこの豪華な宿屋に泊まれるということだ。そんなことが本当にあり得るのか。少女はしばし呆然とするが、激しく首を振って頭を冷静にする。これはきっと何か裏があるに違いない。
「それってアレですよね、廊下で寝てくださいとか、外にテント張ってくださいとかそういうアレですよね?」
「滅相もありません。当店に宿泊されたお客様は全員、客室で泊まっていただきます」
「シャワーやトイレなんかは使用禁止という……」
「すべてのお客様は当店の施設と設備を使用することができます」
「……もちろん食事なんてあるわけ」
「お客様からのお断りがない限り、原則うちは三食食事をご用意しております」
悲観的な予想が完膚なきまでに否定され、いよいよ少女はこれが夢か幻覚ではないかと思い始めた。豪華な内装にもかかわらず、破格の値段でしかも食事付き。こんなうまい話が現実にあっていいわけがない。これはきっと罠だ。罠に違いない、と少女は疑心暗鬼に陥り必死にここから逃げ出す方法を模索するが、悲しいかな、心はすさんでも疲れ切った脳と体が欲望に抗えない。
「……ぜひ泊めてください」
逃走の意志とは裏腹に口から出たのはそんなセリフだった。もう、罠でも何でもいい。休めるのなら悪魔の巣窟にだって行ってやる。内心やけになって吐き捨て、少女は目の前の男性を見返す。
オーナーはとても嬉しそうな笑みを見せて首肯した。
「喜んで。ようこそお越しくださいました。宿泊は一拍一名様でよろしいでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました。では大変恐縮ですが、お客様のお名前をお教えいただけますか?」
「名前ですか? 名前は……リスタです」
少女は一瞬迷うも素直に名前を告げた。