017 <いばら姫> ― Ⅵ
それからどれほどの時が流れただろうか。実際は数十分しか過ぎていないのかもしれない。だがローズにとっては永遠ともいえる時が流れていた。
この夢は<いばら姫>を通して桐子が観ている記憶。リッツとフリードリヒが殺され、ローズが青髭に捕まり屋敷の二階奥の部屋に連れ込まれてからは口にも出したくない程に悍ましい出来事が起こっていた。その中でも唯一言える情報があるとすれば、彼らの持っていた栞は細かく千切られ<青髭>を封印することは不可能となっていた。
ローズもまた逃げられないようにと手足の腱を切られてしまい、視界も右目が見えずに残った左目も霞んで辺りを確認することが出来なくなっていた。
彼女は朽ちたベッドの上で目に見えない暗闇の中、心に灯る深い後悔に蝕まれていた。
―― あぁ、主よ。お願いします。もっと時間を……まだやり残したことがあるのです。
もっと時間が欲しい。もっともっと生きていたい。せめてマテスとの約束を果たすまで。しかし彼女の願いは虚しくも<青髭>の手によって奪われる。彼女に残された時間は全て彼女の体を弄ぶために費やされてしまった。
もう彼女が何を思っているのかは分からない。時折聞こえてくる微かな喘ぎ声でまだ息がある事はなんとか分かった。もういっその事、死んでしまった方が楽なのに。そんな恐ろしい考えすらも脳裏をよぎる程に彼女の身体はズタボロになっていた。
この悪夢を観ていた桐子も強く願った。
もしもこの世に彼女の信ずる者がいるのであれば、どうか奇跡が起こりますように。たとえこれが<いばら姫>の夢だとしても、一寸の希望を、光を、幸せな終演を、どうか……どうか…………
……
………………
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「ローズから離れろっ!!」
死に掛けているローズの耳に慣れ親しんだ男の声が勇ましく聞こえてきた。声の方へと目を向ければ、なんと部屋の入り口にはマテスが猟銃を構えて青髭を睨みつける姿があった。
なぜ彼がここにいる。まだそう考える力がローズには残っていた。恐らく彼女のことが心配で単身、|人ごろし《<青髭>の》城へと乗り込んできたのであろう。霞んだ左目でなんとか彼の姿を一目見ようと凝した瞳からは安堵の涙が流れていた。
何とも頼もしい時に来たことか。だが彼の声は震えており、歯がカチカチとぶつかり合っている音が聞こえてくる。喋り終わった今もずっと鳴り続けていた。足も枯れ枝の様に震えており、今にも倒れてしまいそうだった。
「こ……この、この銃はただの銃じゃない! 私の<童話>の力だぁ! だからお前にもっ!!」
瞬きをする間もなく、<青髭>の大剣がマテスの横腹へと殴り込まれる。マッチ棒のような彼の体は面白いほどに弾け飛び、壁へと強く叩きつけられた。
ひび割れた壁が倒れた男の上に崩れ落ちると、その下からは赤い水たまりが広がり始める。彼の日の光のように輝く金の髪も赤く濡れ、青白い手はピクリとも動かなければ息をする音さえも聞こえてこない。
「ふん。たわいない」
青髭のつまらなそうな声が男の最後に贐られた。
なんと哀れで弱き存在か。糸の切れた操り人形のように潰れた男が最後に残した成果があるとすれば、それはその姿をローズの目の前に晒したこと。
乾いた彼女の眼球にマテスの最後の姿が映ったその瞬間、部屋全体の床は崩れ落ち、太くて巨大な白い茨が辺りを一斉に呑み込んだ。
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白んだ空が窓の外に広がっている。その美しい朝焼けを見上げながら桐子は長い夢から目を覚ました。彼女は静かに起き上がると、隣でスヤスヤと幸せそうに眠るクラウンとシャトンを見下ろした。今日は日曜日。秋の心地よい朝日が部屋の中に溢れている。
一階の台所には早起きしたハンスが大きな欠伸をつきながら、やかんに火をかけていた。肩から落ちたストールをかけ直し、肌寒さを和らげようと腕を擦っていると二階から誰かが下りてくる足音に気が付いた。
「あら桐子、おはよう。早いのね」
台所の入り口に佇む桐子に気だるげに挨拶をすると、桐子はゆっくりと顔を上げて堪え続けていた涙をボロボロとこぼし始めた。
「ハ……ハンスさん……。<いばら姫>が……<いばら姫>がぁ……」
突然泣き出す桐子に驚き慌てて近づくハンス。彼女は言葉を詰まらせながらも、なんとか言いたいことを声に出す。
「聞いてもらいたいっ……話があるんです……」
真っ赤に腫れた目から溢れる涙を拭う彼女にハンスは自分のストールをかけてやる。<童話>の憑りつく彼女の肩を抱いてやることはできないが、ハンスは優しく微笑むと彼女が落ち着くまで”ローズの物語”を静かに聞いた。