016 <長靴をはいた牡猫> ― XIII
「お義母様、最近マテスが私の絵を描いてくれているようで、おちおち仕事に集中できないのです」
ある昼下がり、ローズは観念するかのように義母に愚痴をこぼしていた。あれから更に時が過ぎ、季節もすっかり夏の終わりを告げようとしている。スワルニダは冬の備えに編み物をしながら古いクラシックレコードを聴いていた。それはかつてローズの父がよく聞いていた行進曲の一つであるがタイトルは不穏な名前であった。
「なに、すぐに飽きるさ」
スワルニダは楽観的に答えるが、ローズはそれ以外にも何か思い当たるものがあるようだ。
「その事で少し、ご相談があるのですが……」
「なんだい」
「マテスに絵を描くようにお願いしてからしばらく経ちましたけど、いまだに記憶は戻ってこないようです。絵描きだったとの見立ては勘違いだったのかも」
「そんなことは無いさ。アイツの絵は何処かできちんと学んできた絵だよ。あの人の猿真似芸術とは違う。ただちょっとばかり、人物を理想的に描きすぎるがね」
スワルニダにしては珍しくローズを茶化すような事を言う。それに対してローズは苦笑いで返事をするが、また険しい顔をしてマテスの話を続けた。
「半年ちょっとマテスと暮らしてきて、彼の性格ならば取り憑いた<童話>を悪いように使わないと思いましたので、もう<童話>の名前を言っても大丈夫かと考えているのですが……」
「おや? アイツが記憶を取り戻すよりも先に<童話>が記憶を取り戻して暴れてしまうんじゃなかったのかい?」
「もしかしたら<童話>が邪魔をして彼の記憶が戻らないのかもしれません。“マテス”という名前をつけたのも間違いだったかも。元々の“彼”の記憶がどんどんと“マテス”に変わっていき、<童話>に取り込まれずとも、本当の“彼”が失われている気がして私……」
いつも以上に悲観的なローズに、スワルニダは更なる彼女の不安を見つけた。
「それ意外にも何か心に突っかかりがあるんだね?」
「…………あの<童話>を知れば知るほど、私には到底祓えない<童話>だと思い知らされます。あの時、カール様がいらしていた時に祓ってもらっていた方がよかった」
「大見え張ったのはお前だよ! お前はもうグリムアルムなのだ。なに、大丈夫さ。ハウスト様だってそう思ってお前に託したんだろう」
「分かっております……。でも、祓っている途中で私……、彼を殺してしまうのではないかと思うと……」
「悲観的になるのはおよしなさい! そんなんじゃ祓えるもんも祓えなくなる!! もうここまで来たんだ。迷っているぐらいなら、腹を括ってアイツに言うもん全て言ってやりなさい!」
いつもの厳しさを交えながらも、その声は熱いものであった。いつになくローズの背中を温かく押し上げるスワルニダの言葉にローズは不安と驚きの混ざった顔をして彼女を見つめた。
「大丈夫。お前さんがこんなにも尽くすんだ。マテスの記憶が戻らずとも、記憶を取り戻した<童話>の方が案外お喋りさんかもしれない。物分りが良いとは限らんがね」
「…………そうね。お喋りさんかも。物分りが良くなくても説得させるのが私たちの役目。大丈夫よね。ありがとう、お母様。彼にどうしたいか聞いてみるわ」
不安が全て拭えたわけではないが、ローズは先ほどよりも覚悟をもってマテスと向かい合う決意ができた。彼女は二階へと歩みを進め、叩き慣れた扉の前に立ち止まる。大きな深呼吸を一つ吐き、いつもの微笑みを浮かべながらゆっくりと扉を二回叩いた。
「失礼します」
一番上の兄の子供部屋。その扉を静かに開くと、そこには真剣なマテスの後ろ姿が、蝋燭の影に浮かび上がってその目に映った。彼は目の前のイーゼルにかけられた絵画の最終チェックをしていたようで、ローズの声に驚き振り向く。
「あっ、ローズ」
彼はまともな休みも取らずに目の下に立派なクマをつけている。マテスは自分の絵を隠すように体を広げて彼女を迎えるが、ローズの目線はすでにマテスの先、イーゼルにかけられた一枚の絵画に注がれていた。
「これは……」
マテスを押し退けて目にしたその絵は、幾度もこの家で繰り返された見慣れた光景。暗い部屋の中、蝋燭の小さな明かりに照らされて子供に<童話>を読み聞かせている自分の姿が描かれていた。しかもその肖像画のローズはとても優しく、暖かな表情をしている。
彼の目に映る自分はこんな表情をしているのかと、衝撃を受けたローズはこれから彼に言う残酷な言葉に喉を詰まらせて唇を噛んだ。
「ローズ……、すまない。やはり幾ら絵を描いても何も思い出せないんだ。何枚描いても、一つの絵に集中しても、何一つとして思い出せない……」
彼の苦しそうな表情に、ローズも悲しい顔をして彼を見上げる。
「このまま記憶が戻らなければ、<童話>が祓えなければ一体どうなる? 私は私ではなくなるのか?」
「大丈夫よ、大丈夫。きっと思い出せるわ」
咄嗟に出た言葉。今のマテスには嘘の様に聞こえて慰めにもならないが、ローズは確かに彼の<童話>を祓う術を知っている。
「こんなに素晴らしい絵が描けるんだもの。きっと大丈夫」
「……キミにそう言ってもらえると、少しは心が救われるよ」
安心したような眼をしてローズを見下ろすマテス。決してそんなことはないが、確かに彼女の言葉で少しは心が軽くなったような気がした。
しばらくの沈黙が続き、落ち着きを戻したマテスにローズはついに義母に話した“マテスの<童話>の話”をしようと唾を吞み込んで覚悟を決めた。しかし、彼女よりも先にマテスが口を開いた。
「本当は全ての記憶が戻ってから言いたかったのだけれども…………。もしも、<童話>を祓うことができたなら、思い出の場所を巡りたいと、思っているんだ」
マテスは少し恥ずかしそうに、視線を逸らしながら夢を語った。こんな戦時下の中、旅に出るだなんて、まさしく子供じみた夢物語。ローズは一瞬、我が耳を疑いマテスの顔を凝視したが、すぐに無邪気な子供を見るように愛おしそうに優しく微笑んだ。
「よかったらそこに、ローズもいて欲しい」
思ってもいなかった彼の願い。突然の申し出にローズの顔は引き攣った。
「キミがこの地でグリムアルムの使命を大切に思っている事は分かっている。でも、私はローズにもっと、この国のいろんな景色を見てほしいんだ。グリムアルムの仕事なら、他のグリムアルムの様に旅をしながらその地の<童話>を祓えばいい」
「ごめんなさい」
間髪入れずに帰ってきた返事にマテスは酷く驚き固まった。
「マテスと一緒にこの国の色んな所を見て回るのはとても素敵だし、楽しいと思う。でも私の場所はここ。ここ以外のどこにも無い」
まっすぐな瞳に騙されそうになるのだが、無理矢理に笑顔を取り繕って見上げる姿に、ついにマテスは痺れを切らした。
「いつまで奥様に縛られているつもりなのですか?!!」
今までに聞いたこともない彼の荒げた声にローズは目を丸くして驚いた。しかし彼女はゆっくりと、いつもの憂だ微笑みを浮かべて、静かに己のあかぎれた両手を擦りながら俯いた。
「そう、ね。でもそれは嫌でも無いの。諦めとか、自分で考えるのが面倒なんかではなくて、私があの人の事を愛しているの。それに私は私の意思でグリムアルムになった。確かにグリムアルムになる前は不安で一杯だったけど、今は平気。とっても幸せ」
次に顔を上げた彼女の表情は、清々しいほどに凛としていた。それもまた紛れもない彼女の本心。マテスは自分の言葉で彼女の自由を奪ってしまったと思っていたが、彼女はすでにちゃんと自分の意思を貫き通していた。
全てを見透かすような澄んだ瞳に見つめられ、観念したマテスは悲しそうに小さく笑う。
「……分かったよ、ローズ。突然失礼なことを言ってしまいすまなかった。私はキミに感謝しても仕切れないほどの恩を感じている。だからキミが不安に思うことがあると心配で仕方がなかったんだ」
「マテスは優しいのね」
「だって私は、キミのおかげでこの世界の美しさを知れたし、沢山の楽しい事を教えてもらったんだ。本当はとっくに捨てた命なのに、それにキミは光を与えてくれた」
「……!! 記憶が」
「少しだけ。だけどもどれも良いものではない」
思い出すのは馬小屋の梁にかけられた一本の荒縄。ローズの信ずる神は自ら命を絶つものを赦さない。それは人を作った神への冒涜。
「本当はもうこれ以上何も思い出したくはない。あんな恐ろしい記憶なんかより、キミから与えられた“マテス”としての時間の方がとてつもなく大切な記憶になってしまったから」
彼の言葉には溢れんばかりの愛情が詰まっていた。しかしそれは受け止めてはいけない想い。ローズは零れそうな涙を懸命に堪えながら彼を顔をきつく睨んだ。
「だけどもそれじゃあダメなんだよね、ローズ。だから改めてキミに願うよ」
そう言うとマテスはローズの前に跪き、まるで愛の告白をするかのように彼女の両手を優しく取った。
「僕の<童話>を祓ってほしい」
恋愛や依存とは違う、二人の間だけにしか存在しない見えない絆。慈愛に満ちた彼の決意に彼女の不安も浄化された。
「ええ……。きっとやってみせる……」
ローズは強い意志を持った眼でマテスを見下ろした。
―― 主よ憐れみたまえ
これも天から授かりし試練なのですか。
彼女は涙し、彼の手を握り返した。
―― 主よ憐れみたまえ
迷える子羊でしかないこの私に力を、
彼を殺す勇気を、
どうか、授けてください。
―― 主よ、この愚かで救いようのない魂を憐れみたまえ
「貴方を<童話>になんかしたりしない。貴方はこれからも、人として生きてゆくの」
しかしその次の日の朝。プフルーク家の門を激しく叩く音が屋敷中に轟いた。
<つづく>