016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅹ
「失礼。上官殿が本当にプフルーク二等兵のことを良く話してくれましてね。思わずお話をしたくなってしまいました。国想いの良いお兄さんじゃないですか。今後の活躍に期待しております」
カールは思ってもいないような声色でローズの背中に話しかける。彼女も曇った表情をしながら振り向くと「はい……」と力なく返事をした。
これでもう後戻りはできない。自分の意志を貫くことによって兄を戦場に送り返してしまった。その罪悪感を感じていないといえば嘘になるが、彼女も自分に素直になろうと覚悟を決めたのだ。
アントレアスを見送ったスワルニダとエーリカが互いの肩を支えながら家の中へと帰ってくる。これでプフルーク家の次期グリムアルムはローズに決まったわけなのだが、ハンスの許可を取らなくては正式な就任になるわけではない。しかし、
「それでは今日、私がグリムアルムの立会人となるのはローズ嬢でよろしいでしょうか?」
とカールは何事もなかったかのように仕切り直した。
「いいのですか?! ハンス様の許可は?」
「ふん。ハンスの許可って言うのは単なる顔合わせの言い訳だ。親衛隊に捕まっている今、手紙を送ったところでグリムアルムになるのに何年かかるか分からない。そんなのを待っている暇は我々にはない。いいか、自分でなりたいと言ったんだ。後悔するなよ」
そう言うとカールは持ってきた大きなトランクを手際よく開けると、三本に分かれた棒を一本の杖に組み立てた。杖はガス街灯の形をしており、持ち主であるカールの身長を悠に超した長さになる。そしてトランクからもう一つ、太い蝋燭と針を取り出すとローズに手渡し使い方を教えた。
「悪いがこの蝋燭に自分の名前を彫ってくれ。偽名は絶対にダメだ。家族の名前と、洗礼名もあればそれもだ。略すなよ」
「この蝋燭は?」
「私の<童話>の力を引き出すものだ。もしこの引継ぎが失敗した場合、私がお前の<童話>を封印しなくてはならないからな。最悪の結果も視野に入れておかねばいけないのでね」
ローズは言われた通りに針で名前を彫ると、蝋燭をカールの手に戻した。彼は名前を確認し最後に大切な事を聞き直す。
「確か、ローズと呼ばれていたが……」
ローズは一瞬だけ唇を小さく噛むと、意を決して
「ローゼです……。ローズはお兄様が付けたあだ名で、本当はローゼです」
と噛みしめる様に強く言い放った。
覚悟を決めた彼女の瞳を、カールは特に気にもせず流し見すると
「それでは始めようか」
と言って蝋燭を街灯のランプにセットした。
ぐるりと一振り、杖を大きく回転させてランプを自分の顔の前に近づける。そしてフッと蝋燭に息を吹きかけると、蝋燭の芯に青い炎が妖艶に灯った。次にローズが右手の人差し指をナイフで傷付け、滴る血を”黄色い栞“に落として吸わせる。
「我、カール・ディートマー・ハウストの名において、彼女ローゼ・プフルークを次期“領主のグリムアルム”に任命する。汝、栞を用いて<童話>の名を呼びなさい」
「おいで、<長靴を履いた牡猫>」
「はい! ローズさま!!」
栞を突き出すローゼの胸にシャトンが元気よく飛びかかる。まるで愛しい人に抱擁を求めるかのように飛びつくが、彼女の元に辿り着く前にシャトンの体をカールの青い炎が包み込む。真っ青に燃え上がるシャトンの体。しかしその青い炎を引き裂いて、中から翼を持った赤い炎のドラゴンが現れた。炎は天井までにも燃え盛り、一瞬にして彼女の体を飲み込んだ。
「ローゼ!!」
目の前の光景にマテスは血相をかいて彼女の名を叫び、助けようと乗り出すが「静かにしろ!!」と怒鳴るカールの声に驚き足をその場で止めた。
勢いよく燃える炎の中でローゼの影は動じない。ただ静かに時が過ぎるのを待っていた。次第に炎が小さくなり、炎のドラゴンが地を這う火のネズミになるとローゼはそのネズミの尻尾を持ち上げる。そしてお返しするかのように彼女は上を向きながら、火のネズミをペロリと一飲みした。
静かになる部屋の中、天井まで焦がした炎の跡はどこにもなく元の古臭いダイニングキッチンに戻っていた。しかし今だにマテスや家の者たちは固唾を飲んでローゼを見守る。彼女はゆっくりと顔を下におろすと、静かに目を開け彼らを見渡した。その反応を見たカールは、
「これにてローゼ・プフルークを正式なグリムアルムとして歓迎する!」
と沈黙を破る勇ましい声で彼女を称える言葉を放った。
「ようこそ、<童話>の世界へ……」
こうしてプフルーク家の四代目グリムアルム、ローゼ・プフルークが誕生した。
ローゼは思わず感極まって瞳を潤ませるが、彼女よりも先に母が堪えていた涙をボロボロと零しながらカールの両手を強く握った。
「あぁ! ありがとうございます、ハウスト様!! 一体どうお礼をすれば良いのでしょうか?!」
「礼などいい!! その分しっかりと使命に務めよ」
カールは嫌そうにその手を小さく振り解くと、今度はマテスの方に鋭い眼光を向けた。
「ところで、その男に取り憑いている<童話>はどうする? そのままにして置くわけではないだろうな?」
マテスの代わりにローザが慌てて答える。
「はい。あの……、二ヶ月ほど前にフェルベルト様に祓ってもらうよう頼んでいたのですが、此方には来れないと言われてそのまま保護しておりました」
「なるほど。人間の方の意識はちゃんとあるようだが、<童話>と本体が少しばかり絡まっている。私がついでに祓っておこうか?」
思ってもいなかった言葉にローゼは頷きそうになるのだが、出かけた返事を閉じ込めるように唇を噛んだ。もうグリムアルムを待たずとも、彼女自身が正式なグリムアルムになったのだ。
「いいえ、彼に憑いている<童話>は私に祓わせてください」
今までの彼女では考えられない二度目のわがまま。カールはもう一度マテスの顔を見て「それでいいのか?」と聞く。マテスも大きく頷き、彼女の意思を尊重した。
「彼に取り憑いている<童話>は、私の<守護童話>の方が祓うのが楽だと思うが……、まあよい。これも経験だ。それでは私はこれで失礼する」
そう言うとカールは杖を解体し、帰り支度をし始めた。
「もし、ハウスト様。今晩の夕食をご一緒に頂きませんか?!」
母が急いでカールを呼び止める。
「申し訳ないですが、私は隣街に宿を取ってもらっているので……」
「そうおっしゃらずに!!」
今度はエーリカがニッコリと微笑みながらカールの肩を捕まえた。どうやら何が何でもお礼がしたい性分のようだ。二人の女性に強く勧められ、カールも観念したのか面倒くさそうに渋々と夕食をいただく約束をした。
* * *
その日の夜、ローゼのグリムアルム就任祝いとしてスワルニダとエーリカが腕を振るった温かな夕食を振舞った。カールも相変わらず口をへの字に曲げてはいるが、少しばかりくすぐったそうにしている。
「カール様はカートッフェルピュレをどれくらいお召し上がりになりますか?」
「いや、自分でやります」
今までグリムアルムとして歓迎された経験が浅いのか、至り尽せりな状況に慣れていない様だった。
「ローゼさんも、今日は遠慮なさらずたんと食べてください」
「ありがとうございます。あと、その、私のことは今まで通りローズと呼んでいただけませんか?」
照れくさそうに笑うローズにスワルニダも妙な顔をする。
「その、ずっとローズと呼ばれていたので今更ローゼと言われるのがむず痒いのです……」
「そんなんじゃいつまで経っても慣れないよ」
「ええ。ですが、もうしばらくは。せめて、グリムアルムとしての初仕事が終わるまでは今まで通りローズと呼んで下さい」
いまだに煮え切れない娘の反応にスワルニダはやれやれといったようにため息をついた。しかし、そう簡単に人は変われるわけでもない。娘らしいところだと母は認めて
「それじゃあ、早くその男の<童話>を祓ってしまいな」
と、それ以上の野暮ったいことは言わずに母は愛おしそうに微笑んだ。
食事の配膳を終えたエーリカが嬉しそうにカールの近くの席に着いた。
「カール様が来てくださったお陰で、旦那の良いところが聞けました」
「二等兵殿の奥様でございましたか。先ほどは大人げないことをしてしまい、大変失礼いたしました」
大人げないと言っても彼はまだ十五歳。人を見下す態度を取ったとしても生意気な小僧としか思われない。
「そんな! 主人が凄い人だと知れてよかったです。その……、主人との出会いは野戦病棟でして、ずっと戦場に返すのが不安でしたの。あの人も自分の実力を下に見ていましたから。ですが軍のお仲間たちに必要とされていると知れて、今はとても誇らしく思っていますわ」
頬を赤らめるエーリカの可愛らしさに気もくれず、カールは彼女が看護婦だった事を知り眉を細めた。
「野戦病棟で……? もし、ハンナ・マイヤーという看護師はご存知でしょうか?」
霧がかかった深緑の瞳がきらりと光る。ようやく興味を持った目でエーリカを見返すカール。
「ええ。知ってるも何も、マイヤー看護長は私の上司よ」
その言葉により一層カールは前のめりになって話を聞いた。
「一体、どんな方でしたか?」
「とても厳しい方でしたわ。人にも自分にも、患者にも。いつも怒鳴ってばかりで怖かったけど、仕事に向き合う姿はとても素晴らしかったですわ。それだけこの看護という仕事に誇りを持っているのでしょうね。カール様も医学生でしたっけ? マイヤー看護長とはお知り合いなのですか?」
振られた質問にカールは気まずそうに表情を綻ばせると、節目がちに「私の母です……」と呟いた。
「まあ、看護長の!! 私ったら、余計なことを言ってないかしら?」
「いえ、いいんです。母はそういう人なので。変わっていないようで安心しました。ところで、彼女は今どこの病院にいるのかご存知ではないでしょうか?」
「ごめんなさい。私も一緒の職場で働いていたのは半年も前のことなので……。確か風の噂では、とある施設で今後の医療に役立つ実験を手伝っていると聞いたことがありますわ」
「そうでしたか……」
緊張したままだったカールの顔が急に緩んだ。その表情から察するに随分と母親とは会っていない様子。ようやく見せた子供らしい表情にエーリカやローゼもほっと優しく微笑んだ。
先日のアントレアスとの食事とは打って変わって和やかな時間が過ぎてゆく。料理の内容も以前の物と比べると質素であるが温もりがある。しかし、エーリカの隣に座っていた子供が食事を終えるとカールの元へと歩いて行った。
「あらナタナエル、どうしたの?」
「お兄ちゃんもグリムアルムなの? 僕も将来そうなるんだよ。何かお話を教えてよ」
幼子ならではの突然の質問にカールの表情が再びキツくなる。
「おぉ、そうか。もうすでに自分の行く道を決めているのか。それではこんな話はどうか? ”へんてこなおよばれ”」
なんともヘンテコなタイトルであるが、それを聞いたローゼとスワルニダの表情が一瞬にして固まった。
<へんてこなおよばれ>
ある所に仲の良い赤ソーセージと白ソーセージがおりました。赤ソーセージは昼食を振舞うと白ソーセージを家に招待しましたが、彼の家はとても奇妙なものでした。玄関を開けるとすぐ目の前には長い階段が続いており、その一段一段に様々なヘンテコな者がおりました。箒とシャベルが喧嘩をしていたり、頭に大怪我をした猿などがいたりと気味が悪い階段が続いておりました。
最後の階段を上りきり、赤ソーセージがいる部屋にたどり着くと白ソーセージは階段で見たものの話をしますが赤ソーセージは話をはぐらかすだけ。しまいには料理の様子を見に行くと部屋を出ていきますが、その時、何者かが部屋の中に入って来て白ソーセージに言いました。
「ここはソーセージ殺しの家だ。早く逃げろ」
と……
ほぼ本編と言ってもいいあらすじを聞いてもよく分からない内容だが、子供に話すには悪趣味なのは間違いない。それをカールはおどろおどろしく、しかし淡々として語り続ける。次第に子供は恐怖に駆られてビャーっと大声で泣き出すと、母の陰に隠れてしまった。
「なんて話をするんですか?!」
「誰の入れ知恵かは知りませんが、冗談でもグリムアルムになりたいとは言わない方がいい」
アントレアスとのやり取りでもそうだったが、カール自身グリムアルムに随分と誇りを持っている様だ。しかし今度は相手が悪かった。しばらくの沈黙ののち、事態を察したカールは目を見開いて
「まさか、本気で言ってるのか?」
とあっけらかんとした声を出す。
「当たり前です!!」
「そうか……」
思わずわが子を護るためにとエーリカは怒鳴り声をあげてしまったが、気を悪くし俯くカールにそれ以上に怒ることはしなかった。彼女は泣き続ける我が子をあやしながら自分たちの部屋へと戻って行く。
食事も終わり、カールは食後のハーブティをいただきながら迎えの車が来るのを待っていた。
ローズとマテスが食卓の片づけをしている間、彼は浮かない表情をしながら蠟燭の火を見つめている。しばらくすると階段からエーリカが下りてきた。
「ナタナエルは?」
カールは思わずエーリカに尋ねた。
「布団にもぐって拗ねています」
「彼には悪いことを言ってしまった」
「私こそ、お客様に声を荒げてしまい申し訳ございませんでした」
「あの……、彼に謝罪してもよろしいでしょうか?」
思いもしなかったカールのお願いに、エーリカも優しく微笑んで頷いた。
部屋の扉を静かに開けると、膨らんだ布団の中から寝息が聞こえてくる。どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ。
カールは静かに枕元に立つと、ナタナエルの額に左手を添えて小さく「すまなかった」と謝罪の言葉をかける。するとナタナエルが「んっ」と声を漏らして反応するものだから、起こしてしまったのかと驚いたカールは一歩後ろに下がってしまった。だがそれは気のせいのようだ。子供はまだすやすやと目を閉じて眠っている。よく見れば、深くかぶった布団の隙間から覗かせる瞼はまだ涙で火照り腫れていた。
カールはもう一度ゆっくりと子供の額に左手を乗せると、優しく二回ほど撫でながら「夕べの祈り。十四人の天使、見守っている眠りの床を……」と子守唄を口ずさむ。しかし途中で小っ恥ずかしくなったのか、大きくため息をついて「なにをしてるんだ」と呟きベッドから離れてしまった。すると丁度ローズが部屋の前にやって来て、扉を小さくノックする。
「カール様、お迎えが来ましたよ」
「あぁ、今行く」
自分らしくない振る舞いを紛らわすかのように、カールは足早に部屋を出た。その後姿をローズは静かに見送るが、その彼女の背後から
「ローズ?」
とナタナエルの眠そうな声が聞こえてくる。
「ああ、起こしてしまったわね。大丈夫?」
「うん。お兄ちゃん帰っちゃった?」
「まだよ。丁度さっきね、お別れのあいさつに来ていたの。カール様が脅かしてごめんなさいって」
「? お兄ちゃんは僕のことが嫌いなんじゃないの?」
「そんなことないわよ。グリムアルムは危ないお仕事だから、カール様は貴方にも危険な目にあってほしくなくって<童話>が嫌いになるように怖いお話を教えたの。これからカール様のお見送りに行くけれども、ナタナエルはどうする?」
街頭も少ない暗闇の中、黒塗りの車がプフルーク家の前に停まっている。カールを見送る為に家の者たちも車の前に集まっているのだが、ローズの姿がまだ居ない。すると遅れて家の扉が開くとローズとナタナエルが現れた。
「あらナタナエル、起きちゃったの?」
子供は眠っていると聞いていたエーリカが驚きの声を上げてナタナエルを向かい入れる。
ナタナエルは恐る恐るとカールを見上げながら母の手を強く握った。しかし彼は勇気を出して一歩前に出る。
「お兄ちゃん、今度は怖い話、嫌だよ?」
カールの目をまっすぐと見つめる子供の瞳に、思っていたよりも強い意志を感じ取ったカールも感心して優しい眼差しを送り返した。
「今度はもっと分かり易く、将来のためになる話をしよう」
再び会う約束をするカールから、今までの意地悪な気配は感じない。しかしその場にいた大人たちは『絶対、また悪い話をしそう』とこっそり思って、彼のことを最後まで信じることはしなかった。
そしてカールは迎えの車に乗って、宿泊先へと帰って行く。
新たな変化のある一日であったが夜は変わらず更けてゆき、締めの作業を終えた人々は自分の部屋へと眠りに入る。
「おやすみなさいローズ」
「おやすみなさい」
いつもと変わらない挨拶をし、部屋の扉を開けると何も変わらない質素な部屋が広がっていた。小さなベッドと小さなイス、使い古された小さな勉強机に小さな衣装ケースの四つだけ。しかしローズは部屋の扉を閉じるなり、カタカタと足を震わせてその場に思わず座り込んだ。
結局彼女もグリムアルムの使命に恐怖しているのかと思いきや、俯く彼女はなんと微かに笑い声を漏らしていた。それは喜びの声ではなく、己の罪に対する懺悔。
「あぁ、ついに……」
己で科してしまった宿命に彼女は涙を一つだけ流して囁いた。
「お父様……どうかこの憐れな娘にご加護を……」