016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅸ
それから更に三日ほど経ち、お昼を過ぎた頃にプフルーク家の前に一台の車が停まった。この辺りではお目にかかれない黒塗りの高級車に村人たちは物珍しそうに近寄るが、運転席から軍服を着たお偉いさんが降りてくると急いで自分たちの持ち場に帰った。
お偉いさんが車の後ろの扉を開くと、大きなトランクを持った青年が下りて来る。
麻くずのようなプラチナブロンドに右目を隠すほどに伸びた前髪。鼻の上にちょいと乗った丸メガネの奥にある瞳は、朝霧立ち込む深い森の色をしている。
彼は口を大きくへの字に曲げて、とてもつまらなそうな顔をしていた。お偉いさんを置いて一人、プフルーク家の門扉を開いて敷地に入ると、玄関扉を二つ叩いた。
「はい。どちら様でしょうか?」
玄関を開けたマテスに青年は間髪入れずに声を上げる。
「失礼、こちらはプフルークの家で間違いはないですか?」
突然の来訪者にマテスはキョトンとして青年を見る。背丈はローズと同じか少しだけ大きいか。肉付きは細身のマテスよりも細く、骨のようにヒョロガリだ。だがマテスとは違って体の中心に真っすぐと芯が入っている。
「ええ……、そうですが……」
まじまじと青年を観察しながら生返事をするその態度に、青年は更に一段とへの口を曲げて大きなため息をひとつ吐く。
「なんです? その態度は? 立会人としてせっかく来たのに。別に私は帰ってもいいのですが?」
「マテス、いったい誰が来たんだい?」
いつまで経っても家主を呼ばないマテスに痺れを切らしたスワルニダが彼らの間に割って入る。
見ず知らずの青年にスワルニダも最初は怪訝そうな顔をするのだが、彼が持つ鞄の紋章を目にした途端にギョッと目を丸くしてマテスを後ろに押し除けた。
「貴方はもしや、ハウスト様でございますか?!!」
「いかにも」
なんと、驚くことにその青年は桐子が最後まで会う事のなかった極悪非道だと聞くハウストの家の子供であった。
そうと分かると先までの尖った態度を解いたスワルニダが、深々と青年にお辞儀をする。
「わざわざ、遠い所からお越しいただきありがとうございます!」
昼食の片付けを終えたローズもマテスの横に並んで彼らの様子を見る。
「ですがハウスト様、今グリムアルムは軍に監視されていて外を出歩けないとフェルベルト様から伺っておりましたが……」
「フェルベルトは特別生真面目な者たちが集まった一族ですので、お上の言いつけ通りに自分の街に篭っているのはあの一族だけですよ。他のグリムアルムたちは軍など気にせずいつも通りに行動しています」
つまり、ローズは助けを求める相手を間違えていたのだった。初めからフェルベルト以外に頼んでいれば、もう少し早くマテスの<童話>を祓えていただろう。
「軍の人たちが警戒しているのはハンスだけです。まともな能力もないハンスだけをヴェヴェルスブルクに閉じ込めて満足しているんですよ。後のグリムアルムには興味がないらしい」
今現在のグリムアルムの事情を堂々とした態度で説明するハウストだが、確かにこの青年を見る限り、言いづらいのだが監視される対象には見えなかった。それはスワルニダも同じ事を思っていたようで、ハウストの青年を頭のてっぺんからつま先までまじまじと舐めるように見終わると気まずそうに質問した。
「あの……、失礼ですがハウスト様?」
「カールでいい」
「カール様。失礼しますが、年齢の方を聞いてもよろしいでしょうか? いや、まぁ……、あまりにもお若く見えましたので驚きました。ハウストと言えばハンス様に使えるグリムアルムの中でも最も強い力を持っていると聞いておりましたもので……」
確かにハウストは<童話>を使役する力のないハンスの代わりにグリムアルムをまとめる長の一族だと言い伝えられている。だが、その現在の長はどう見てもまだまだお子様だ。
カールはより不機嫌そうな顔をするも質問にはちゃんと答えてくれた。
「今年で十五になる。今はミュンヘンのギムナジウムで医学を学んでいますが、れっきとしたハウスト家の三代目グリムアルムです」
そう言いながら胸のポケットから真っ黒な栞を取り出すとスワルニダに突きつけた。それは紛れもなく“封印の栞”。
「!! 疑うようなことを伺いまして、大変失礼いたしました!!」
スワルニダは己の無礼を詫びるために大袈裟に深く頭を下げた。そんな彼女をカールは「ふんっ」と軽蔑する様に息を吐く。たとえグリムアルムの中で一番偉い人だとしても、何と生意気な態度をとるか。
「それよりさっさと済ませましょう。軍と学校には母方の親族の不幸と言って来ましたので、あまり休みたくもありません」
「さっさと済ませるとは?」
「なんだ、そのために電報を送ったんじゃないのか? 後を継ぐと宣言するだけではグリムアルムにはなれませんよ。ちゃんとした契約をしなくては」
そう言われたスワルニダは昼食を食べ終えて自室に戻っていたアントレアスと息子家族を呼びに急いで二階に駆け上がり、事情を知ったアントレアスも初めは緊張した面立ちで階段を下りてきくるのだが、俯くローズの姿を見るやへにゃりといつもの得意気な顔をした。
「…………この人が跡を継ぐんですか?」
自分の前に差し出されたアントレアスにカールは思わず疑問を漏らした。
「はい。<童話>との距離は長く空いてしまいましたが、先代の血を引く自慢の息子です」
「グリムアルムとして<童話>を倒し、民を護ります!!」
お手本の様な解答と、あからさまに作られた満面の笑み。そして太々しい態度にカールは思わず顔をしかめた。
カールが疑問に思う要因として、アントレアスから<守護童話>の気配が全く感じられないことが挙げられる。それでも自信に溢れたアントレアスにカールも面倒臭そうに再確認した。
「貴方は本当にグリムアルムになりたいのですか?」
「はい!!」
元気な返事に参ったのか、プフルークの跡を継げるのが彼しかいないと分かると仕方なしとでも言う様に大きなため息を口から漏らした。しかし、その時「お……お待ちください!」とアントレアスの陰から声が上がる。思いがけない横槍にアントレアスは思わず笑顔を崩して声の方を睨みつけた。
「ローズ! なにでしゃばってるんだ!!」
アントレアスの背後、マテスと彼の家族の間に挟まれて並んでいた小さな少女が勇気を出して一歩前に出る。
「お兄様、お義母様、そしてハウスト様。まず初めに私のご無礼をお許しください。私はこの契約に意義を申し立てます」
「一体何をっ」 「ほほう。意義とは?」
アントレアスの荒げる声をカールの落ち着いた声が遮った。二度も自分の発言を邪魔されたアントレアスは怒りで顔を赤くするが、ローズは恐れる事なくカールの目を見て話し出す。
「お兄様は<童話>を見ることができません。それでどうやって<童話>を祓うことができるのでしょうか?」
「グリムアルムは代々その家の血筋のものが継ぐと決まっている! 子供の頃は見えていたから、感覚さえ取り戻せば、すぐにでも見えるはずっ!!」
「それではお兄様、<シャトン>が今どこにいるのか教えていただけませんか?」
「<シャトン>? <長靴を履いた牡猫>か?!!」
「姿は見えずとも、この家を守護する<童話>なら気配を感じることはできるはずです」
なんとか挽回しようと顔を赤くしたまま辺りを見渡すアントレアスだが、周りにいるのは母と妻と自分の息子。そしてよそ者二人とカールだけ。六人の視線を集める中、アントレアスは静かに、だが隠しきれない苛立った声で
「……この部屋には……いない」
とローズを睨みながら言い切った。
義理であっても共に成長した兄にそんな目を向けられたローズは一瞬だけ憐れんだ瞳で彼を見つめ返すと、今度は兄の子供に優しい眼差しを送った。
「シャトン、こっちに来てくれませんか?」
「……?」
子供は訳も分からずキョトンとした目をしているが、彼の左手は何かを掴んでいる形をしている。
「まったく、相変わらずのクソガキめ。元々<童話>に興味のないお前にこの私が見えるものか」
子供の左手がふわりと引っ張られるように宙に浮くと、マテスが「あっ」と小さく声を漏らした。何とナタナエルが握っていたモノは子供と同じ背丈の大猫の右手であった。
彼は美しい羽根つき帽子を優雅に揺らしながらピカピカに磨かれた長靴を鳴らしてローズの元へと歩み寄る。
子供は「カッツェ、待って~!」と嬉しそうに猫の手をもう一度掴むが、子供の母親と祖母、そしてグリムアルムの血を引く父親はその猫を見る事も気配を感じる事もできなかった。
「プフルーク家の<守護童話>の気配も感じられなくなったお兄様に、グリムアルムを継ぐ権利はあるのでしょうか?」
ローズの鋭い指摘にアントレアスは思わず冷や汗をかいてしまう。それを追い込むかの様にシャトンもものを言うが彼の耳には入らない。
「アントレアスと言う奴は子供の頃からガサツで、<童話>の稽古も全くしないクソガキです」
「お前はどちらにつく?」
「それは勿論、ローズ様でございます。ローズ様、覚えておりますか? 貴女様がまだ幼い時のこと。奥様の知人の赤子に取り憑いた<童話>を貴女様は争うことなく対等に接して祓い退けました。あの時の私は貴女様のことを認めてはおりませんでしたが、貴女様の<童話>との接し方を見て確信したのです。貴女様なら、<童話>たちを清く導くことができると」
膝まつき、愛おし気な眼差しで見上げるシャトンにローズも優しく微笑み返す。そして咄嗟に義母の方へと振り向くと、その目つきを覚悟の色に染めて宣言する。
「お母様! 私はまだまだ未熟者で、マテスに取り憑く<童話>にも手こずるような娘です。グリムアルムとしての血筋もありません。ですが、<童話>が見える私には人々を助ける義務があります! お父様の意志を継ぎ、<童話>たちを清き道へと導く術を知っています! 私は、私にしかできない使命を全うしたいのです! だからお母様、私がグリムアルムになる事を認めてください!!」
子供の頃より自分の意志を殺し続けていた娘が、はっきりと自分の意志を伝える姿に母は強く心を打たれた。スワルニダはアントレアスに向ける温かな微笑みと同じようにローズを見つめて静かに頷く。
「おい待て、母さん。それでいいのか?! ローズはこの家の子供じゃないんだぞ?!! プフルーク家の血は入ってない!!」
「お黙り!!!! ローズは私の娘だよ!」
「そんなぁ……。でも、グリムアルムになるには先代の子供じゃなきゃいけないんじゃないのか?!!」
「そう言う決まりはないですよ。今までにも婿養子が跡を継いだ例もある」
カールもすでにローズの方についているようだ。アントレアスは思い描いていた計画が失敗だと知るやズンッと暗い顔をして肩を落とした。だがカールは「しかし……」と言葉を付け足す。
「その場合はハンスの許可が必要です。それに、女性のグリムアルムが存在したと言う話は聞いたことがありません。先ほど話した婿養子も、実子が女性しかいないグリムアルムの家に後継ぎとして向かい入れられたという例です」
あと一歩という所で突き付けられる現実に思わずローズも「そんな……」と声を漏らし、首の皮一枚繋がったアントレアスはニタリと気味悪く笑って義妹を見下した。
「君は、本当にグリムアルムになりたいのですか?」
カールは絶望して固まったローズに問いかける。その瞳は刃物のように恐ろしく冷たくローズを睨んでいた。
とっさに候補してしまったが、正直まだ迷いはある。しかしマテスの言葉を思い出し、己の意志を強く持ち直すと、
「はい……」
と熱のある眼差しでカールをの瞳を見つめ返した。
「まっ、待ってくれ!! 女性のグリムアルムはいないんだろ?! ならローズはグリムアルムになれないんじゃぁ……」
「禁止はされてはいない。前例がないだけだ」
「それじゃあ俺は? 俺はどうなる?!」
「外にいる車で帰れば良いんじゃあないですか?」
そう言うとカールは後ろにある玄関扉に目配せした。
「あの中には休暇を終える貴方を迎えに着たお偉いさんが乗っています。ここに来るまでの道中、貴方の活躍を聞かせてもらいましたが、貴方は自ら志願して軍に入ったそうではないですか。そして随分と上司や部下たちに頼られている。貴方のような一財を無くすのはもったいないと言っていましたよ。もっと己の仕事に誇りを持てください」
「い……いや、俺はもうグリムアルムとして人助けを……」
「グリムアルムでなくとも人助けはできますよ。頑張ってください、二等兵殿」
先程までの鋭い目つきが今度はアントレアスに向けられている。カールはアントレアスと出会った時から、彼が軍から抜け出したいが為にグリムアルムになろうとしていることに勘付いていたようだ。だがそれは逆にカールたちグリムアルムを侮辱する行為。もう彼を味方につけることは決してできないだろう。
カールから伝えられた刺々しい伝言にスワルニダは気まずそうに俯くが、嫌味とも気づいていない|アントレアスのお嫁さん《エーリカ》は目を潤ませて感動していた。
ついに追い詰められたアントレアスは、居たたまれない気持ちになって自分の家族にも挨拶せずに顔を真っ赤にしたままワザとらしく肩を揺らして家を出た。その後を「待って!!」と叫びながら母と妻子が追いかける。ローズも彼女らに続こうとするのだが、玄関の外には出なかった。ローズは玄関扉に手をかけると、家の中から兄と家族の別れを見つめていた。