016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅷ
初めて入ったローズの部屋は必要なものと言えるもの以外は何もなかった。小さなベッドと小さなイス、使い古された小さな勉強机に小さな衣装ケースの四つだけ。机の上もすっきりとしていて擦り切れたグリム童話集と聖書、そしてマテスと話すための物か独英辞書が置いてあるだけだった。
ローズはマテスに椅子を譲ると、自分はベッドのふちに座った。
「一緒に食べるのに貴方は何も持ってこなかったの?」
ローズに言われてようやく自分が手ぶらなことに気が付いたマテス。彼は新しい言い訳を作らなければとオロオロと目を泳がせた。そんな彼にローズは食べかけのパンの、口を付けていない所をちぎり取って綺麗な部分を彼に渡した。
会話のない、普段と変わらない時間がゆっくりと進んでゆく。しかし今日は息苦しい。どうにかこの沈黙を破ろうと、マテスはよそよそしくローズに話しかけた。
「ローズ、私が言うのもなんだけど……その…………、彼の言葉を気にしちゃあいけないよ」
「何のこと? 私は別に気にしていないわ。私がよそ者だなんて事、今に始まったことじゃない」
彼女は驚くほどにケロッとしていて、残ったパンをすべて平らげた。そしてまだ手の付けていない料理をマテスの隣、机の上にそっと置くと優しく自然に微笑んだ。
「気を使ってくれたのね。ありがとう」
今なお平静を装う少女の笑顔にマテスは辛そうな顔をする。彼女は普段からこうして嫌な事に蓋をしてきたのだろうか。そう思うと胸が圧し潰される。
またもや続く気まずい空気に今度はローズが気を使って口を開いた。
「私ね、本当はローズじゃなくってローゼって言うの。でもお兄様たちが『お前の国では“薔薇”は”ローズ“って言うんだ』って言って、そう呼ばれ続けていたらいつの間にか私はローズになってたの。でも別に私はそれを嫌ってなんかいないわ。だって村の皆んなも私をローズって親しみを持って呼んでくれるから」
清々しいほどに凛とした少女の顔に、マテスも納得せざるおえなかった。彼女の言ったことは本当の事だろう。外野である自分が入り込む余地はない。だが、それでも何処か引っ掛かるものも感じられた。微笑みを讃える少女の瞳には何処か寂しい色も混ざっているようにも見えた。しかしそれもマテスが勝手に感じているだけのもの。本当の事はローゼにしか分からない。
「だからマテスも変わらず私の事は“ローズ”って呼んでね」
そんな彼女にマテスが言える言葉はただ一つ。
「ローズ」
「なに?」
「私はローズの味方だよ……」
彼女を思って告げた言葉も、今の彼女には届いている気がしない。
ローズは変わらぬ声色で
「ありがとう」
とだけ言って静かに微笑んだ。
「ローズ、入るよ」
扉を叩く音と同時に義母が部屋の中に入って来る。ローズに用があった彼女は部屋の中にマテスがいることに驚くと、グチグチと嫌味を言いながら彼が立ち退いた椅子を奪って乱暴に座った。
「アントレアスがすまないね。また戦場に行くことになって苛立っているんだ」
「ええ。上のお兄様方が亡くなって不安になっているんですよね。仕方のない事です」
「そこでだ! アイツをプフルーク家の三代目グリムアルムとして跡を継がせようと思うのだが、どうかね?」
思ってもいなかった提案に、ローズは思わず義母の顔を凝視した。彼が正式なグリムアルムとなれば、厳しい戦場に送られることはないだろう。しかし……
「素晴らしい考えですわお義母様! 早速、ハンス様と他のグリムアルム様にもご連絡しなくては!!」
「ああ、そうだな。こちらに来れなくとも大事な知らせだ。皆にこの事を伝えよう」
ローズは今までにないほどに喜んでみせるが、それがあまりにも嘘臭く見えてマテスには気味悪く感じられた。逆に彼女の義母は娘の喜ぶ姿に満足し、珍しくローズに笑顔を返す。
本来ならばローズが次期プフルーク家のグリムアルムになるはずなのに、義母の思いつきで無くなってしまった。彼女の理不尽な扱いにマテスは不満を募らせるのだが、その不満は次の日の朝に大きく爆発する。
次の日の朝、ローズとマテスがいつもの様に馬たちの世話をしているとアントレアスが得意げな顔をして彼女の前に現れた。
「ローズ、早速だが親衛隊に馬を寄贈する話をつけてきた」
「……? どういうことですか?」
「昨日話したろ? 物資が足りないんだ。使えるものは全て寄贈しないと」
その言葉にローズは顔を青くする。酔っ払いの口からの出まかせだと思っていたが、彼は本気で言っていたのだった。
「そんな急に……。せめてピラトゥスは連れてかないでください! 彼女はもう歳で働けない」
「いいや、三頭だ! そう話をつけてきた」
一方的な兄の言葉に目眩を起こすが、なんとかその場は踏ん張って持ちこたえる。しかし体は小刻みに震え始め、言葉が上手く紡げない。消沈する義妹の姿に、アントレアスは満足したのかあの得意げな笑みを彼女に向けると颯爽と母屋へと帰って行った。
井戸でその光景を見ていたマテスは心配してローズの元に駆け寄るが、彼女は譫言の様に
「ピラトゥス、ツーク、グロックナー……みんな行ってしまうの?」
とかすれた声を唇からこぼしていた。
「ローズ! しっかりして!」
「ああ、マテス……。大丈夫よ、ごめんなさい。ただ……この子達が心配で……。ツークとグロックナーはまだ若いから大丈夫だろうけど、ピラトゥスは私が小さな頃からおばあさんで……、今はヨボヨボのおばあさんね。それなのにお兄様、この子も戦場に送るだなんて、酷いわ……。きっとすぐにでも脚を折って死んでしまう…………」
いつもの飄々とした笑顔はどこへやら、今まで堰き止めていた感情が濁流のように押し寄せて彼女の膝を折ってしまう。そしてついにはその瞳から大粒の涙を溢れさせる。彼女にとって馬たちは兄妹として育てられた義兄たちよりもよっぽど大切な家族なのだ。
初めて見せるローズの弱々しい姿に、マテスの心は抉られるような想いをした。そして、それと同時に激しい怒りが湧き上がる。
マテスはローズを置いて一人、アントレアスの元へと歩みを進めた。勝手口の扉を強く開き、暖炉の火をかき回すアントレアスを見つけると、苛立ちを抑えた低い声を捻り出して彼に言う。
「馬たちを連れて行かないでください。彼らは村の大切な労働力なんです」
「元々あの馬は俺たち兄弟のものだ。それをどう使おうが俺の勝手。よそ者どもが決める事じゃない!」
馬たちの世話をずっとしてきたローズを侮辱するような身勝手な言いように、マテスは更に怒りを感じた。何故自分はこんな野蛮な人間に頭を下げなくてはいけないのか。
その時、薔薇と鉄の匂いが鼻先をついた。何か思い出してはいけないモノが目を覚ますような……。だがマテスはそれに気付いていない。彼はアントレアスのペースに飲まれまいと一つ大きな深呼吸をして、先程よりも落ち着きを繕った声で要望する。
「お願いします……。彼らを連れて行かないでください」
その声を聞いたアントレアスは、睨みをきかせていた目を解いて何故か空っぽの色を瞳に宿した。
何か様子がおかしい。別にアントレアスはマテスの誠意に心打たれた訳ではない。しかし彼はいつもの様に怒鳴ることも嫌味を言うこともしなかった。すると今度はローズが慌てて勝手口から屋敷の中に飛び込むと、彼らの状況を見るや「マテス、止めて!!」とマテスの方を阻止しだした。
ローズの為を思ってアントレアスとの会話に挑んでいたマテスは彼女の言葉に酷く驚き、孤独に似た悲しみを覚えた。ローズはその間も素早く兄の方に振り向くと、
「お兄様! 彼の言った事は全て水に流してください!! そしてどうか馬たちを、お国の為に使って下さい!!」
と声を大にしてマテスの言葉を上書きする。
「でもローズ……」
「いいから!! いいから……もう…………」
ローズの顔は見えないが、幼い肩が震えている。
「わがままを言ってしまって……申し訳……ございませんでした……」
涙と共に零れる言葉。その言葉に
「分かればいいんだ……」
と今なお空虚な瞳をしたアントレアスが軽い声色で言い返す。そして彼は体を翻すと自分の部屋へと帰って行った。
静かになる居間の中、マテスはローズの気持ちが分からずに苛立っていた。なぜ嫌だと言えないのか。自分の出張を貫き通さないのか。
結局その日のうちにアントレアスと同じ軍服を着た男たちが馬を引き取りに訪れて、ローズの手から二頭の馬を連れ去った。ピラトゥスは歳を取り過ぎているという理由で連れて行かれずに済んだのだが、一頭だけになってしまった広い馬小屋の中、ローズは
「さみしいね、ピラトゥス」
と首を垂れて、一人と一頭で悲しく寄り添い慰め合った。
痛ましい姿を見せつける少女の背中に、マテスは小さく口を開いた。
「ローズ、キミはもっと自分の思った事を言った方がいい」
血が繋がっておらずとも互いを尊重し合い大切にする家族は幾らでもいるだろうが、彼女たち一族は恐ろしく歪である。そしてその歪さはローズから来るものであるとマテスは考えていた。
「言ってるわよ……」
背中越しに帰ってくる少女の返事。
「それは嘘だと、私にはそう見える。本当の事を言ってるのだとしたら、キミは今こんなにも傷ついているはずがない」
マテスは初めてローズと出会った時よりも流暢に言葉を操った。しかし彼の言葉はお節介というもの。たとえ図星を言われたとしても彼女の心には響かない。だから彼は続けるのだ。一方的に。彼女の心に届くことを願って。
「…………昨夜の奥様との会話だって、私は納得してない。私はローズが時期グリムアルムになるのだと思っていた。なのに、私に取り憑いている<童話>に気付きもしないあの男が時期グリムアルムになるだなんて、キミはそれで納得しているのかい?」
「……」
「もちろん、ローズがグリムアルムになりたくないのなら、別にこのままでいいのだろう。それはグリムアルムの一族であるキミたちが決めることで、それこそ部外者である私がとやかく言う筋合いはない。でもね、ローズ。これだけは言わせて欲しい。私はあの日、キミに優しくしてもらえて嬉しかった。まだ何で私がこの馬小屋で倒れていたのかも、何をしていたのかも分からないけれど、不安で心細かった私にキミは温かく手を差し伸べてくれた。
昨日の市場で助けた子供の母親の顔を覚えているかい? キミが一歩前に出たお陰であの親子は不幸にならずに済んだ。
結局はキミが決めることだけど、キミが動いてくれたお陰で私達は救われた。だから今度はローゼ、キミに救われて欲しいんだ」
「……」
「でしゃばった事を言ってしまってごめん……。でも、もうキミが悲しい顔をするのを見たくないんだ」
そう言い終わるとマテスは静かに馬小屋を出た。遠くなってゆく足音を聞きながら、ローズは今もなおピラトゥスに寄りかかり俯いている。しかしその目にはもう迷いの色は無くなっていた。