016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅶ
兄と呼ばれた男はローズの方へと歩みを進める。
彼の後ろには洒落たワンピースを着こなす女性が、三歳ぐらいの男の子を抱きかかえて後を付いてきているのだが、ローズには彼女たちが見えていないようだった。
建物の陰に隠れていた少年兵たちも上司に気が付き、辺りの村人たちを蹴散らしてローズへと続く道を作る。そして妹の前に立ち止まった兄は、実の妹に向けているとは思えない威圧感を放った目つきで彼女を冷たく見下ろした。
「お兄様……無事でしたの。でも、どうして?」
ローズは引き攣らせた声で兄にだけ話しかけた。心配するような口ぶりだが、表情はどこか落ち着きがない。
「醜い鷲鼻の怪しい男がプフルーク家に転がり込んでいると、もっぱら軍の中で噂になっていてな。元々帰って来る予定だったが、順番を早めてもらった」
それで手柄が欲しい少年兵たちは、朝からマテスにちょっかいを出していたと言うわけか。しかし彼らの手柄はローズの兄に渡ってしまった。
「お前らは持ち場へ帰れ」
アントレアスの隣に佇んでいた少年たちは不満げに敬礼をすると、自分達の巣窟へと帰って行く。
邪魔な目は消えたが、面倒臭そうな相手が現れた。ここでようやくローズは彼の後ろに着く女性と子供に気が付き、目を丸くして興味を示した。
「ところでお兄様、後ろにいる方たちは?」
「俺の妻と息子だ。その男の噂が出る前から実家に預けようと準備していたのだがな」
語尾を強めて凄むアントレアスに、マテスも少々苦手意識を覚えてしまう。ローズも最初は怯んで顔を強張らせたが、それよりも彼女たちが兄の新しい家族だと知るとより一層大きく目を見開いた。
「お兄様の奥様とお子様?! それは早く家へ帰りましょう! お兄様がご結婚をして子供を連れて帰って来たと知れば、きっとお母様も喜ぶわ!!」
兄はもちろんだと言いたげな表情をした後に、マテスには鋭い目つきで威嚇した。何せ大切な家族を預けようとした実家には、どこの馬の骨かも分からぬ男が居着いていたからだ。
マテスの息抜きでやって来た市場での穏やかな時間も、最後には居たたまれない気持ちになりながら五人はスワルニダの待つ家へと帰路に就いたのだった。
* * *
「アントレアス!! お前、無事だったんだね! よく帰ってきた」
母屋の玄関を開けて早々に、母スワルニダは喜び跳ねながら息子のアントレアスを強く抱きしめた。
アントレアスも再会の喜びに強く母を抱きしめると、すぐに自分の後ろにいた女性を嬉しそうに紹介した。
「そちらのご婦人は?」
「妻のエーリカです。彼女は前にいた戦場の近くで看護婦をしていて、僕も何度かお世話になりました。それと、見てください僕たちの自慢の息子を!」
アントレアスはエーリカの腕から息子を取り上げると、スワルニダの腕に押し付けるように抱かせた。
「まあまあ! 立派な坊やだこと。目元はお前そっくりだ!」
確かに目元はアントレアスと瓜二つの切れ長で、ぱっちりとしている。
嬉しそうに子供の重みを感じるスワルニダからは普段のヒリついた空気は感じられない。その優しい雰囲気に信頼したのか子供も楽しそうな声をあげて彼女に抱きついた。
「それでアントレアス、他の兄さんたちは?」
「……戦場に着いてから、一度も会っておりません」
「戦場? お前達は特別な親衛隊に入って、歴史を研究するから前線には行かないと……」
「それだけ人手不足なのです! 兄さんたちは東の前線に飛ばされて敵を追い込む前に凍死したとか、捕虜になったと聞いております」
「立派な……、そして可哀想に。しかしお前だけでもよく帰ってきた。そうだ! このままお前たち家族でこの家に住むといい。部屋は困るぐらいたくさんある! お前の部屋も、掃除してあるから綺麗なままだぞ!」
「実はそのお願いをしたくって今日は帰って来ました。せめて戦争が終わるまで、妻たちを預かってもらいたい」
「もちろん良いとも! 嫁だけでなく、お前もこの家に住んでくれ! もう軍隊には戻らないでくれ!」
我が子を甘やかす母の言葉にアントレアスは嬉しそうに、だが悲しい眼をして俯いた。
「有り難うございます。ですが、それはできません……。仲間や上官殿が待っているのです。それに……もう次に向かう戦場が決まっている…………」
小さく震えるアントレアスに、母も深追いせず「そうか」としんみりとした顔立ちをして彼を慈しんだ。
「悪いことを言ったねぇ。それじゃあ、せめて今日の夕食は盛大に振舞わないとね! おい、ローズ!!」
「はい、お母様」
母の号令を合図にしゃんと背筋を伸ばしたローズはてきぱきと、買ってきたものをキッチンへ持って行って下ごしらえの準備を始めた。
彼女の顔は先ほどから微笑みを浮かべてはいるが、ぎこちなく、目元は笑っていない。ローズの手伝いをするためにマテスもキッチンへと向かうが、その後ろ姿をアントレアスは冷たい目つきで追いながら「あの男は一体何者なんですか?」と小さく母に耳打ちした。
「あの男は下男だよ。訳あってしばらく前から住み込みで働いてもらっている」
「スパイじゃないかって軍の中でも話題になっていますよ。……!! もしかして、ローズの男なんじゃ?!!」
「そんなバカな事があるかい!! <童話>だよ。そんな事も分からなくなったのか。まぁ、お前は兄弟の中でも一番<童話>の稽古をサボっていたからな」
子供の頃のアントレアスたちを思い出したのか、スワルニダは可笑しそうに話しをする。しかしアントレアスは静かに「<童話>か……」と呟き、怪訝そうに夕食の準備をするローズの背中を睨んでいた。
その日の夜は戦時中だという事を忘れてしまうほどに本当に豪勢な夕食になった。といっても、立派なご馳走が出てくる宮殿料理というわけではない。ジャガイモとキャベツのスープやソーセージをじっくり焼いた料理など。ハーブも窓辺に並べた鉢植えから摘んできたものを使っている。それでも彼らは大いに喜び、神に感謝をして夕食を堪能した。
「毎日こんなご馳走を食べているわけじゃないよね?!」
「もちろんだとも! 今夜だけのご馳走で、明日からは元の貧乏食さ」
「そうだと信じたいが……」
渋い顔をするアントレアスをよそに久しい家族団欒にスワルニダは上機嫌にぶどう酒をあおいだ。子供も美味しいとはしゃぎながら料理を頬張り、妻のエーリカもスワルニダに気に入った料理の作り方を聞いている。
そんな中、部外者のマテスも同じ食卓に付いてはいるが彼らの団欒には参加しなかった。初対面の人を相手にしいるのだから、それはまだ理解できる。それよりも気がかりなのは、家族であろうローズも彼らの会話に参加していないところであった。まあ、街で兄と再会した時から彼女は兄を恐れている様子を見せていたので、無理に加わることもないだろうが。
楽しい時間も盛り上がり、アントレアスもぶどう酒に酔いしれて声も、態度も大きくなる。
「近頃の戦地は何処も激化し、物資も足りないというのに、この村は危機感が無さすぎる!! 馬小屋にもまだ馬たちが居るじゃないか!! 軍馬として配属させるべきだ!!」
と声を荒げ、
「母さんはグリムアルムになるには常に人々を一番に考えて護れと言った! それは軍人も一緒だろ?! 俺は戦場で毎日、死にそうな思いをして皆んなを護ったのに、今度は兄さんたちが死んだ雪山に放り込まれるんだ!!」
と情に訴えかける。
己の未来に嘆き哀れむアントレアスに人々は同情したが、彼は更に興奮して拳を振るった。その荒々しさに子供は恐怖し、自分の母にしがみ付く。
「アントレアス! 飲み過ぎだ。落ち着きなさい」
「落ち着いていられるか!! 今日だってなぁ、俺はグリムアルムの家系だからと言って特別に外出の許可をもらったんだ! だけどなあ、仲間たちは今でも故郷に帰れず戦場でこき使われているんだ。なんて残酷なんだぁ……」
「お兄様、落ち着いて」
「うるさい黙れ! よそ者がっ!!」
ようやく声を出して咎めるローズに、アントレアスは鋭い一言を放ってしまった。その一言は先ほどまでの温かな空気を一瞬にして凍り尽くす。しかしアントレアスの口はそれからも良く回った。
「ローズ、お前は嬉しいのか? いっつもニコニコ、ニタニタと。薄気味悪い。この国が苦しんでいるのを見ていて楽しいんだろ? この国が負ければお前の祖国の仇が取れるんだからな!!」
「アントレアス、お止め!!!」
スワルニダの怒声が上がってもアントレアスは上機嫌にぶどう酒をあおりながらニタニタとローズを睨んでいた。ローズも目を見開いてじっと義兄を見つめ返すのだが、その時ばかりはいつもの笑顔はどこにもなく、何の感情も感じさせない何もない表情を向けていた。
「ローズ、すまないが自分の部屋で食事を続けてくれないか?」
「はい、義母様」
彼女は残り僅かな食事を持って席を立ち、
「御気分を害してしまい申し訳ございません。食後の片づけは私がやりますので、そのままにしておいてください」
と言いながら深々と会釈をした。
静かにその場を後にする彼女を心配し、マテスも急いで席を立って後を追う。階段を上る彼女らの後ろでは義母と義兄の激しい言い争いが聞こえだし、次には子供の泣き声も轟いてきたがローズは歩みを止めなかった。
「ローズ、待ってくれ!」
マテスの静止が聞こえないのか彼女は二階の廊下を歩き続ける。
「待ってくれ、ローズ! 一緒に食事をしよう!」
もう一度呼び止めようとしても彼女は立ち止まることも振り向くこともしない。そこでマテスはある一言を付け足した。
「一緒に食事をしないさい。と……そう奥様に……言われた……」
もちろんそれは嘘である。マテスが自分の意思で彼女の元へと駆け出した。だが彼女の足はその言葉でピタリと止まり、マテスの方に振り向くと無理した笑顔を貼り付けていつもの声で彼に応えた。
「ええ。一緒に食べましょう」