016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅵ
その場にいた誰もが声の方に振り向くと、広場の中心にある村役所の見張り塔の上に体を乗り出す男の子の姿を見つけた。この村で一番背の高い建物は教会であるが、役所の見張り塔は次に高い。男の子は最上階の手すりに片手をつき、もう片方の手を空に伸ばしている。
皆がこの異様な光景に理解が追いつかず固まっている中、広場の出口にいたローズだけがいち早く異変に気が付き体を動かした。
「マテス、荷物を持ってちょうだい!」
そう言って彼女は両手いっぱいの荷物をマテスに押し渡し、急いで広場の中へと戻って行く。
「誰かぁ!! 誰かあの子を止めて!!!!」
男の子の母親であろう女性が役所の下で悲痛な叫び声を上げ始めると、市場で買い物をしていた人々も声を荒げて騒ぎ出す。
「坊主、早まるな!!」だの、
「中の役人は何をしてるんだ!!」だの、
「下に何か置いたほうがいいんじゃないのか?」
などと、慌てふためくが誰も行動を起こそうとはしない。今にも飛び降りて来そうな子供から目が離せられなくなってしまったのだ。
騒ぎを聞きつけた役所の人間がようやく塔の上まで登りきり、子供を建物の中に引き戻そうと慎重に腕を伸ばした。だが男の子は大人たちの腕をすり抜けて、「僕は鳥だ!」と楽し気に手すりの間をスキップする。そしてついに想像していた最悪な事態が起きてしまった。男の子は嬉しそうに高笑いすると、手すりを蹴って大空へと飛び立ってしまったのだ。
市場にいた誰もが悲鳴を上げる。そんな中ローズだけが諦めずに走り続け、男の子を受け止めようと両手を広げた。しかし彼女がいる場所から村役所までの距離はまだだいぶある。
その時ローズは誰にも聞こえないほどのか細い声で
「主よお赦しください」
と囁いた。
「そしてどうかこの愚かな娘を憐れんでください」
もう駄目だ。皆が諦めて目を逸らす中、遅れて走って来たマテスは自分の首筋から何かがすり抜ける気配を感じた。
「姫の茨たちよ! あの子を捕える網になって!!」
ローズの号令と共に地面から大量の白い茨が生え上がる。茨は木の幹のように太い一本の束になると男の子に向かって更に伸び上がった。
人が落ちるよりも異常な光景が繰り広げられるが、誰も驚きはしなかった。それどころか先程の騒ぎが嘘のように静まりかえっている。まるで市場の皆が時を止めてしまったかのように、立ったまま眠りについていたのだ。
茨はローズの言う様に男の子の背中に触れると網状に広がって彼を空中で受け止めた。そして駆けつけたローズの腕に優しく委ねると、茨は霞のように消えてしまった。
男の子の重みに合わせてローズはその場に膝をつく。途端に市場の人々が目を覚まして動き出すと、何が起きたのかと辺りを見回した。男の子が飛び降りた塔を見上げたままの人々も、急に目下に現れたローズと彼女の腕に抱かれた男の子を見て仰天し言葉を失った。
「大丈夫ですか?」
とローズは男の子に声をかけるが、子供はスヤスヤと眠っている。
村人たちをかき分けて「ああ坊や!!」と子供の母親がローズの腕から我が子を取り上げた。続いて村人たちも一斉に男の子の周りに駆け寄ると心配したと声を掛け合った。
何が起きたのか全くもって分からないマテスは、離れた場所から呆然とその光景を眺めている。そして塔から羽ばたいてゆく黒い小鳥の影に気が付くと、一人でぼーっとソレを見送った。
「無事みたいでよかったです」
群衆から押し出されたローズが静かに微笑みながらマテスの元へと帰ってくる。
「ローズ、今のは?」
「マテスにも見えるのね。さっき飛び立った黒い影は<童話>よ。そしてあの白い茨は<いばら姫>。私に取り憑いている<童話>」
マテスは驚いた目でローズを見るが、彼女は落ち着いた声で彼の疑問に答えた。
「大丈夫。彼女は私や貴方を護ってくれる優しい<童話>だから安心して。
<童話>の中には悪さをする子だけでなく、人間の味方をしてくれる子もいるの。実は貴方に取り憑いている<童話>がいつ目を覚ますのか、ずっとこの子に監視してもらっていたのよ。今まで黙っていてごめんなさい」
つまり、マテスが感じた首筋をすり抜ける何かの気配の正体はこの<いばら姫>だったのか。
「……今も私の後ろに?」
「今は私の所に戻っているわ。だけどマテスに取り憑いている<童話>が変な動きをすれば、また貴方の背後に戻るかもしれないわね」
ローズにしては珍しく悪戯っぽく笑うと、マテスは困ったように眉を下ろした。
「あの! グリムアルム様!!」
先程の母親の声が聞こえて来た。振り向けば市場の人々がこちらを見ている。
母親は眠る我が子を抱えたまま、溢れる涙を堪えることもせず
「あ……ありがとう……ございます」
と愛おしい声でローズにお礼を言った。
その言葉にローズは一瞬驚いた顔をしたのだが、母親の安心しきった涙に深く心を揺さぶられ、気恥ずかしそうに、しかし心底幸せそうな笑みを浮かべて小さく頷き彼女の言葉に応えた。のだが、
「まだグリムアルム紛いなことをしているのか、お前は」
と言う厳つい男の声に一瞬で表情を凍りつかせた。
声の方に振り向くと、黒い軍服を着た男の姿が見えた。
「……アントレアスお兄様?」