016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅴ
ローズはとても残念そうに手紙を下ろす。
―― 彼に取り憑いた〈童話〉を今すぐには祓うことができない。
この手紙の調子では他のグリムアルムに頼んでも同じ応えが返ってきそうだ。
「どうしましょう、お母様……。フェルベルト様が来るまでの間とのお約束でしたが」
「薄々こうなるとは思っていたが、仕方がない。おいマテス」
自分の事なのにぼーっと突っ立っていたマテスは呼ばれたことにビクッと肩を震わせ、急いでスワルニダの方へと振り向く。
「はい、なんでしょうか?」
「特に急いでいるわけではないのだろう? もうしばらくこの家で下男として働きなさい」
その言葉にローズは驚いた顔をしてみせたが、一番驚いていたのはマテスであった。彼はつい先ほどまで制服姿の婦人の事を思い出しており、自分がなぜローズの母に煙たがられているのかを理解していた。だが彼女はマテスを匿うことを選んだ。その勇気に彼は戸惑いながらも深く感謝のお辞儀をした。
しかし自体は思ったよりも早く来るようで、暫くもしないうちに新たな訪問者が現れた。
その日もローズとマテスは使ってもいない部屋の掃除を隅々までほどこし、下の階ではスワルニダが昼食の準備をしていた。誰もが己の仕事に精を出していると、激しく玄関を叩く音が響いた。ローズが慌てて階段を駆け下りるが、スワルニダが先にコンロの火を止めて玄関の方へと出向いて行く。
今なお激しく鳴る玄関扉を重々しく開けてみると、そこにはローズと同じぐらいの年齢の青年が、かの婦人よりも明らかに分かりやすい茶色がかった黄色の親衛隊の服を着て堂々とたたずんでいた。彼は右手を上げて敬礼をすると、
「不審な男をかくまっているとの情報を聞いたのですが、心当たりはありませんか?」
と捲し立てるように聞いてきた。
遅れてマテスも階段を下りてくるのだが、途中でローズに止められる。今は下りてこない方がよさそうだ。
スワルニダはすぐに少年の質問には答えずに玄関の外をゆっくり見渡す。すると少し離れた木の陰に彼と同い年の少年が三人ほど、こちらの様子をうかがいながらニタニタと笑っている姿を見つけた。
「ああ。〈童話〉に取り憑かれて記憶をなくした男が一人いますよ。用が済めばさっさと追い出しますから」
目も合わせず、右手を上げた敬礼もせずに適当にあしらうスワルニダの態度に、少年は不満そうな顔をする。
「本当に記憶をなくしているのか? 敵国のスパイなんじゃないのか?」
「そんな事をするようなタマには見えないねぇ。それよりも、どうやら御上はグリムアルムを保護することにしたそうじゃないか。今はグリムアルムの居ない一族だとしても、”封印の栞”を管理するこの家は保護の対象になるのじゃないのか? だとしたら、私たちの仕事を妨害するような行為は御上も黙っちゃくれないだろうね」
御上の名前を挙げられちゃあ、出来ることもできなくなる。少年は酷く顔をしかめると、恨み節を囁いた。
「ただでさえローズが煩わしいのに……。おい、これ以上この村に揉め事を持ち込むなよ」
「はいはい。随分と大口が叩けるようになったようで。アンタのおしめを取り替えてやった頃が恋しいよ」
「っ!! このクソババア!!」
煽られた少年はローズの母に掴みかかりそうになるのだが、木の陰に隠れていたお仲間が急いで彼を止めに来る。そしてそのまま挨拶もせずに少年を抑え込みながら、彼らは巣窟へと帰って行った。
その様子を最後まで階段の陰から見守っていたローズは、恐る恐ると母に近づく。
「だ……大丈夫ですか、お母様……」
「ああ。全く、ガキどもが揃って何をしようとしたのかね。この間来た婦人警察に唆されて探りにでも来たのかね」
汚い物を払うかのようにエプロンの裾を叩くスワルニダだが、その顔はどこか物悲しげである。
昼食の準備に戻ろうとする母に、不安を拭いきれないローズが震える声で彼女に聞いた。
「マテスは……連れて行かれてしまうのでしょうか?」
「そうさねえ、<童話>を祓えば連れて行かれるかもしれない」
「そんな……」
「しかし、この家にいる間は平気だろう。フェルベルト様の言った通り、どうやら御国はグリムアルムを利用したいらしい。物好きめ」
どうやらこの時代のグリムアルムは広く知られた存在であり、身近なモノであるようだ。とりあえずそのグリムアルムの家にいる限り、マテスが何処かへ連れていかれる事はなさそうだが、今だにローズは小刻みに震えており、顔色まで段々と青く染めていく。
「どうしましょう……今日はマテスを連れて市場へ行こうと思っていたのですが、辞めた方でいいでしょうか?」
「いや、良いんじゃないか。もう村の皆んなにもバレているし、下手に隠している方が怪しまれる。積極的に外へ出しなさい」
反対されると思っていた外出の許可にローズは思わず目を丸くした。不安は残るが、信頼する母が良いと言ってくれたのだ。ローズは覚悟を決めたように小さく頷くと、
「それではマテス、今日は村の市場へ行って買い物のやり方を教えます」
とぎこちない笑顔を作ってみせた。
* * *
マテスはこの村に来て一週間ちょっとの時間を過ごしたが、村の中心部に入るのはこの日が初めてであった。目的地は村で一番の賑わいを見せる青空市場。なのだが、人口が千人ちょっとの小さな村なので商売をするテントの数も他の街と比べるといくらか少ない。ローズとマテスは村人の好奇心に溢れた視線に当てられながら、お目当ての食材を探し回った。
「買い物は一週間に一度、この市場で売られているものを買います。お野菜などは皆さんと管理している畑から収穫したものを使いますので、主にチーズやソーセージなどの加工品を買いそろえます」
そうローズが説明しているうちに、みるみるとマテスの両腕が買ったもので埋まっていく。普段はローズ一人で持てる量だけを買い込むのだが、今日はマテスも居るので少々張り切ってしまったようだ。
「ごめんなさい。本当は貴方が家の中ばかりで退屈していると思って、気晴らしに外へ連れて来たというのに手伝ってもらちゃって……」
「いいえ、お気になさらず。元々荷物持ちとして来ているので」
お互いに謝罪を繰り返し、かしこまっていると何がおかしかったのかクスリとローズは可愛らしく笑った。
「ごめんなさい。初めて会った時もこんな風に謝り合った事を思い出して……でもあの時よりも元気になった様でよかったです」
確かにあの時は具合も悪く、頭の中も朧げであった。しかし今は頭の中もちゃんと起きている。ローズに言われてマテスは自分の視界が少しだけ広がったような気がした。
せっかく外に出たのだからもっとこの村の雰囲気を楽しもうと、辺りを見渡せば村の杞憂な目も初めよりは減っていた。
目玉商品を売り込む市場のオヤジの声やおばさんたちの井戸端会議。「僕は鳥だ!」とはしゃぎ回る子供を優しい眼差しで見守る村の老人たち。先ほど帰ったはずの少年隊の四人が建物の陰からこちらを監視しているのが少々気になるが、それ以外は何処にでもあるような日常が広がっていた。
「とても素敵な市場でしょ?」
人々を見渡すマテスにローズは照れながらも誇らしげな表情をして聞いてくる。
「はい。素敵な場所ですね。連れて来てくれてありがとうございます」
表情は相変わらず無愛想だが、今までに聞いたことの無い柔らかな声にローズは安心したように微笑んだ。
「買う予定の物も全て買えましたし、今日は早めに帰りましょうか」
本当はもっといろんな場所を見せたかったが、ローズも少年たちの視線が気になるようだ。腕から落ちそうになっていた荷物をもう一度持ち直し、マテスは「はい」といつもの調子で返事をする。
そして二人は市場を離れようと帰り道に足を向けたのだが、その時市場の中心から「僕は鳥だ!!」と言う甲高い子供の声が降ってきた。