016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅳ
「それでは早速マテスの部屋を用意しましょう。申し訳ございませんか立てますか?」
「はい、なんとか……」
おぼつかない足取りで立ち上がるマテスを支えて三人は馬小屋から少し離れた母屋へと移動する。
ドイツの農村地によくある茅葺き屋根の古い家。しかし他の家よりも少し大きく立派な造りをしたお屋敷の、その内の二階にある階段を上ってすぐの部屋にマテスは通された。
部屋の壁には世界地図が貼られており、本棚には学校の教科書や少年たちの集合写真が飾られている。この家には母と娘しかいないと言っていたが、かつて息子もいたのだろうか。主人の居ない部屋の中は塵ひとつ積もってはいなかった。
「お母さまからこの部屋を使ってもよいと言われました。着替えもこちらのを使ってください」
そう言ってローズは彼女の兄弟の物であろう大きな寝巻きをマテスに渡す。
「今日はこのままお休みになってください。また明日、具合が良くなりましたらお仕事を教えますね」
青空広がる朝の窓にサッとカーテンを引いて光を遮断し、一通りの世話を終えるとローズは優しく微笑みながら「それでは、おやすみなさい」と言って静かに部屋を出ていった。
「……おやすみなさい」
マテスは遅れて閉じられた扉にひっそりと囁く。一人残されたマテスは薄明かりの中、ズキズキと痛み続ける頭に苦しみ、とりあえず言われた通りに休むかと渡された寝巻きに着替えて布団に横たわった。
一つ、ゆっくりと瞼を閉じるとあっという間に眠りにつく。
そのまま深い闇に潜り込み、次に目を開けるとそこもまた暗闇の中だった。
眠りについてどれくらいの時間が過ぎただろうか。マテスは一階から聞こえてくる物音で目を覚ます。外は黒い闇の中。しかし日の光が地平線を赤く縁取っているのも見えた。ひと眠りして体調が幾分良くなっていたマテスは家主を探しにひっそりと部屋を出て階段を降りていった。
階段を降りた先には台所があり、シンクの隣にある勝手口ではガタゴトと外に出る準備をしているローズの姿があった。
「あら、おはようございます。具合はいかがですか?」
「あ……、おはよう……ございます。頭痛はだいぶ良くなりました」
「それは良かった」
安心したような微笑みを見せるローズに一瞬ドキッとするマテスだが、彼女は挨拶も程々に忙しなく勝手口から外に出ると一直線に馬小屋へと向かった。マテスも遅れて彼女の後を着いていくが、彼が小屋の中に入った頃にはもうすでに彼女はピッチフォークを大きく振るって手際よく馬たちに朝食を配っていた。
「昨日、フェルベルト様に手紙を送りました。なんとかこちらに来て貰えるよう頼みましたので、早くても一週間後には貴方に取り憑いた<童話>を祓うことができるでしょう」
仕事をしながらマテスの今後を話すローズ。彼女は一度もマテスの方には振り返らず、黙々と作業をし続ける。そして作業が終わり、ようやく振り返ったかと思えば今度はバケツを持って外の井戸へと向かって行く。慌てて後を追うマテス。外はすっかり白い朝焼けに染まっていた。
「安心してください。必ず祓えますよ」
マテスの迷いある足音に、彼女は再び温かい言葉をかけてくれた。
次の仕事場に着いたローズは井戸に備え付けられている水汲みポンプの下にバケツを置くと、力一杯にハンドルを押し引きした。赤くかじかむ小さな腕で何度も繰り返しハンドルを動かすが、水はすぐには出てこない。全身を使って水を汲もうとする一生懸命な姿に、黙って立っていたマテスはローズの手からハンドルを奪い取ると代わりに素早く動かした。
「あ……ありがとうございます」
「私は下男としてこの家に雇われましたので」
そう言っている間に水は勢いよく汲み上げられ、あっという間にバケツを満杯にした。
「そうですね……、お母様もマテスにちゃんとお仕事を与えなさいと言っておりました。それではマテス、今日は私のお仕事の手伝いをしてくれませんか?」
「何なりと」
こうしてマテスはプフルーク家、もといローズの手伝いをすることになった。
朝は日が昇るよりも早くに目を覚まし、馬たちの世話をしに馬小屋へと向かう。馬に朝食を振る舞えば、息をつく間もなく自分達の朝食の準備をする。いつもならば屋敷の主人、ローズの母スワルニダが目を覚ます前にこれらの仕事を終わらせなくてはいけないのだが、この日はマテスに色々と説明をしていたのでもう既にスワルニダは目を覚まして台所でソーセージを湯がいていた。
「遅れてしまい申し訳ございません」
台所に入って早々にローズはお詫びを言いながら、戸棚に仕舞っておいた黒パンを皿の上に切り分ける。追加で目玉焼きを焼き上げると、パンと一緒に食卓に配膳した。仕上げに湯がいたソーセージを乗せると立派な朝食が出来上がる。
丸一日何も食べていないマテスはようやく食事にありつけると思い早速フォークを持つのだが、その前にローズが両手でお祈りのポーズをとったので慌てて彼も真似をした。
「天にまします我らの父よ。あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。――」
続けてローズは省略することも無く食事前のお祈りを丁寧に捧げると、最後に「アーメン」と言い済ませ、今度は遅れを取り戻すかのように急いで朝食を平らげた。
胃が小さくなっていたマテスはゆっくりと食事をとるのだが、ローズとスワルニダはさっさと食事を終わらせて食後のお祈りを唱え始めた。
「マテスはゆっくりでいいですよ。食べ終わったら食器をシンクに置いておいてください。後で片付けますので」
「おい、せっかく下男を雇ってるんだ。食後の片付けぐらいソイツにやらせろ」
スワルニダの言葉にハッと思い出したような顔をするローズ。彼は小間使いとしてこの家に居させてもらっているのだった。しかし人に頼むことに慣れていないのか、ローズは少し困ったように眉をひそめて
「申し訳ございませんが、食後の片づけを頼んでもよろしいでしょうか?」
と礼儀正しく下男に頼んだ。
マテスが「はい」と軽く返事をすると、ローズは申し訳なさそうに何度も「よろしくお願いします」と言って勝手口の外へと出て行った。
ついに言い渡された最初の仕事。遅れて食事を終わらせたマテスは食卓の片付けと、使った食器の洗い物を済ませる。といっても、料理の時に使っていた調理具はすでに片付けられていたので皿を三枚洗うだけだった。
最初の仕事はすぐに終わり、あっけないものだと思っているとスワルニダに「馬小屋に行ってローズの手伝いをしなさい」と新たな仕事を言い渡される。
マテスも勝手口から外に出ると、放牧地の水桶で水を飲む馬を見かけた。そのまま馬小屋に向かい入り口から「ローズ、手伝うよ」と声をかけると、ローズは小さな体を目一杯に動かして三つの馬房の中を掃除していた。しかも大方片付いていて手伝う余地がない。
「有り難うございます。それではもう一度、井戸の水を汲んでおいてもらえないでしょうか?」
朝と同じようにバケツに水を汲んでいると、ローズが洗濯物を積んだ桶を持ってやってくる。先ほどまで馬小屋にいたのに一体どこからその洗濯物を出したのか。ローズはマテスが汲んでくれた水を洗濯桶に移すとササっと洗濯物をし始めた。
手持ち無沙汰になってしまったマテスは「次は何をすれば」と新たな仕事を催促するも、ローズはマテスよりも早く仕事をこなしていく。
洗濯が終われば母屋の部屋を掃除する。母と娘二人だけが住む家だからと言って小さいわけではない。部屋数は六つと多く、使っていない部屋もいつでも来客を泊められるようにと清潔感を保ち続けなければならないと言う。
それらが終わると馬たちの体を洗い、馬房に戻すと自分たちも母の作った昼食をいただき、ローズは近所の人と共に世話をする畑仕事へと出かけて行った。
なんとも濃厚で目まぐるしい一日か。これで終わりかと思っても、畑から帰ってきたローズはまた馬の世話を文句ひとつ言わずにやり通すのだ。
少しづつマテスにやり方を教えても、彼女は新しい仕事を見つけては手をつけてしまうので全く楽などしていない。雨の日は雨の日で外の仕事が無くなる分、穴の空いた服やシーツのお針仕事に勤しんでいる。休みと言えるものは日曜日のお祈りの時間ぐらいで、午後も何だかんだと馬や畑の世話をしていた。
気がつけば手紙の返事もフェルベルト家の誰かが来るわけでもなく一週間が過ぎて行こうとしていた。
「そろそろお前さんが来て一週間か」
食後のコーヒーを嗜むスワルニダが、朝食の片付けをするマテスに問いかける。
「そう……ですね」
「仕事を覚える前には出て行くかと思ったが、これ以上居座られても割には合わんなぁ」
実際、彼はローズの仕事を手伝うと言っておきながら彼女の仕事の半分もできていなかった。手伝えているとしてもせいぜい二割ぐらいか。
気まずい沈黙が流れる。しかしそれと同時か玄関のチャイムが鳴りだした。スワルニダが立ち上がり、玄関扉を開けるとそこには土埃一つない小綺麗な婦人が立っていた。
彼女は灰色の制服をピシッと着こなしており、三角形の略帽にもシワひとつつけていない。スワルニダも初めて会う人なのか、異様なものを見る目で婦人を睨んでいる。
婦人はローズの母に素早く右手を上げて敬礼をすると、
「牧師のグリムアルム、フェルベルト様からプフルーク家のローザへ宛てた手紙を届けに参りました」
と言って左脇に抱えていた平べったい鞄から封筒を乱雑に取り出した。封筒にはローズではなく”ローザ・プフルークへ”と書かれている。
「……確かに受け取りました」
スワルニダがぶっきら棒に応えると、もう一度婦人は右手を上げて敬礼をする。その時に婦人は物陰からこちらの様子を伺うマテスに気が付き、一瞬だけ彼と視線を合わせるが素早く腕を下ろすと仲間が待つ車へ帰っていった。
マテスは婦人の服装に妙な胸騒ぎを覚えていた。記憶はまだ失ったままだが、あの服はあまり良いものではない。
嫌な予感に青ざめるマテスをよそに、フェルベルト本人が来ると思っていたスワルニダも最悪な状況を想像しながら手紙の封を切る。そして軽く中身を読み進めると、あからさまに落胆した声を出して言った。
「フェルベルトは来ない」
「え?」
「話があるからローズを呼んできなさい」
手紙の中身が知りたいマテスは急いでローズを呼びに行く。ローズもマテスに呼ばれて足速に母屋に戻って来ると、母の手からフェルベルトの手紙を受け取りマテスに聞かせるように手紙を読んだ。
「初めましてローザ嬢。貴女のことは、貴女の父君が生きていた頃に幾度となく聞いておりました。親友であるテオドールの娘の頼みであるから、今すぐにでも助けに参りたいのですが今は出来ません。
我々グリムアルムは今現在、█████によって手厚く保護されており安易に今いる街から移動することが出来ません。この手紙も読まれていることだと思いますので、グリムアルムでない君にこれ以上のことは話せません。
ですが心配しないでください。貴女からの手紙を読む限り、その人に取り憑いている<童話>は大人しく、信仰深いテオドールの娘である貴女が相手ならばきっと大丈夫でしょう。それにいざという時は”領主のグリムアルム”であるプフルーク家の<守護童話>が貴女達のことを護ってくれます。彼の実力と忠誠心は本物です。
グリムアルムでない君に大変な苦労を任せてしまうが、私も███████に掛け合て出来るだけ早く君のもとに行けるように努めます。もうしばらくお待ちください。そしてどうか君たちも気をつけて……。と……」
所々、黒く塗りつぶされているのはそのグリムアルムを“保護”している方々による検閲か。
しかしそれよりもこの夢を見ている桐子は最後の一文、ローズが読み上げなかった日付を目にして驚愕していた。そこに書かれた手紙の日付は、13/02/1943。そう、この夢は桐子たちの生きる時代よりも70年も前の話である。