016 <長靴をはいた牡猫> ― Ⅱ
先ほどよりも少しだけ日が昇った頃、少女が初老の女を連れて慌てながら馬小屋へと戻って来た。
「お母様、こちらです! 馬たちにご飯をあげようとしたら、この方が倒れていました!!」
少女は血相を変えて倒れたままの男に近づくが、お母様と呼ばれた初老の女はじっくりと、小屋の入口から中の様子を伺った。
男の頭上に吊るされていた荒縄は何故だか外されていたのだが、それを知らなければいつもと変わらないオンボロ馬小屋のままである。
お母様は辺りを観察し続けながらゆっくりと男の前まで歩いて行く。男は未だに目を覚まさず干草の上で眠っていた。身体には少女のカーディガンがかけられているが、上半身を覆うには少しばかり小さい。
「馬泥棒かもしれないねぇ」
「そう言う訳ではなさそうですが……」
少女の言うように馬小屋の中は荒れておらず、馬たちも静かに男の様子を気にしている。
少女と母親があれこれと話していると男が「うっ」と掠れた声を吐き出した。それに気が付いた娘が急いで男の横顔に自分の顔を近づけると、何度も耳元で声をかける。
「もしもし、聞こえますか? ここが何処かわかりますか?」
男の反応は鈍く、薄く開かれた瞳が送る視線も屋根の向こう側を見つめているようだった。
喉が渇いて声が出ないのかと思った娘は水筒に入った冷たい水を勧めるが、やっぱり反応が返ってこない。
正気を感じない男の顔色を気味悪がる母親は、あからさまに嫌味な表情をして煙を払うように手を振った。
「こんな怪しいヤツさっさと追い出しちまえ」
「ですがお母様、困っている人は助けなくてはいけないのでしょう?」
娘は眉毛をひそめて母親に聞き返す。普段から困った人を助けるようにと教わっているのか、娘は今の母親の言葉と教えの矛盾に深く悩んでいるようだった。それともう一つ、彼女には気がかりなことがあった。
「それに微かにですが……、<童話>の臭いがします……」
――――<童話>。
その言葉に渋い顔をしていた母の目がギョッと大きく見開いた。
「それは本当か?」
「臭いだけでその……、多分憑いてもいるのですが、<童話>の声がまったく聞こえなくって………。こんなの初めてです。あの、この方を追い出す前に、せめてフェルベルト様にご連絡を入れさせてもらえませんか?」
「いいや、フェルベルト様の屋敷まではだいぶ離れている。手紙を送ったところでこちらに来ていただくには三日はかかるだろう。その間に<童話>が目を覚まして暴れられても面倒だ」
「そんな……」
歯切れの悪い娘の言葉に母はスッパリと答えを返す。
彼女たちは<童話>が何たるかを知っている人物ではあるが、その<童話>を祓うことは出来ないようだ。
だが<童話>に取り憑かれた人を野放しにするのも危険だということも知っているはず。男が死にかけている理由が分かっているのに助けられないもどかしさ。少女は小さく唇を噛みしめ男の額を静かに撫でた。
娘の憐れみ俯く姿に母親は妙案を思い付いたのか、呆気からんとした声を彼女に放った。
「それじゃあお前さんが祓ってやりなさい」
「?!! わ、私がですか?!」
「栞はあるし、<守護童話>もお前には懐いている。どうせこの家の跡を継げるのはお前さんしか残っていない。練習がてら祓ってやればいい」
思ってもいなかった言葉なのか、娘は何度も目をぱちくりさせて母親の顔色を伺った。母の言葉は本物らしい。娘は少しずつ不安で顔を曇らせると「わ…………わかりました……。出来るところまで、やらせて頂きます」と小さく言って頷いた。
「あの……ここは……?」
急に発せられた男の声に娘と母が驚き振り向く。男の口から出てきた言葉は異国の物で一瞬娘も戸惑うも、すぐに片言ではあるが彼の問いに優しく答えた。
「ここはドイツの南西部にある農村です。私はローズ・プフルーク」
「ドイツ……ローズ・プフルーク……」
ローズの言葉を復唱する男。ローズも焦ることなく「ええ。そうよ」と温かく受け応えた。
このような簡単な質問返答を繰り返す娘を他所に、母親は馬たちの手綱を持って外に出た。これから始める<童話>祓いの邪魔にならぬよう、すぐ隣にある放牧地へ馬たちを誘導しているのだ。だがその作業中に隣人のおばさんが慌てた様子で近づいてくる。
「スワルニダ! ちょうど良いところに。ローズちゃんはいるかしら? うちのジィ様がまーた酔いつぶれちゃって、村の入り口の道を塞いじゃってるの!」
「あいにくローズはお取り込み中だよ」
母親と馬が居なくなったことに気がついたローズが急いで馬小屋から飛び出した。
「お母様! 馬の世話なら私に任せて……ロタールさん?」
「ああ、ローズちゃん! またうちのジィ様が酔っ払って道を塞いじまったんだよ! あのまま放置してたら車に轢かれて、運転手が可哀想だ。あの人、ローズちゃんの言うことなら聞いてくれるから、起こしに来てちょうだい!」
「それは確かに運転手が可哀想だ。おいローズ」
「はい、お母様」
「ちょっと叩き起こしてきなさい」
「ですがお母様、彼は……」
「まだ頭ん中が起きるのに時間がかかるだろう。その間にさっさと片付けてくればいい。その代わり、お前の<童話>を一体、あの男の監視役につけてくれ。なぁに、私だってグリムアルムの家に嫁いだ身だ。お前よりもアイツらの扱いは分かっている」
コロコロ変わる母の発言にローズは渋々頷き従った。
「……わかりましたお母様。ご無理はなさらずに。急いで戻って参りますので」
そう言うとローズは急いで隣人と共に村の入り口へと駆けて行った。