015 <ブレーメンの音楽隊> ― Ⅲ
「本は好きなだけ読んでもいいから」
ハンスは笑顔を引き攣らせながら、雪崩を起こした本の山に腕を突っ込む。そして手提げ鞄を掘り起こして出かける準備をし始めた。
桐子も急いで朝食の残りを口に詰めて軽く机の上を片付ける。
「それじゃあ、行ってくるね」とクラウンに手を振り、桐子とハンスは用事を済ましに出掛けて行った。
一人取り残されたクラウンは図書館の中を彷徨い始めた。食事中は陰に隠れていたシャトンも静かに彼女の跡をついて行く。
図書館と言っても一軒家を改造した小さな本屋みたいなもの。それでも吹き抜けの天井いっぱいに伸びた本棚に囲まれた部屋は圧巻だ。最終段までグリム童話に関連する書物ばかりが収まっている。
知らない国の話だと思って取った本もどこかグリム童話で見たことのある話ばかりだ。
遠い東の国の民話も北国の口承をまとめた本も前に読んだ気がする。しかし、その土地ならではの悪魔や精霊が出てくると真新しく感じられて面白おかしく見ることが出来た。
そんな彼女の後ろ姿を冷ややかな目線で見つめる者がいた。ウィルヘルムだ。彼はクラウンを信用していないため、二階の手すりの陰から彼女の様子を監視している。
しばらくは大人しく本を読んでいたクラウンだが、飽きたのか台所へと向かった。一定の距離を保ちつつ後を追うウィルヘルム。
今度は台所の入り口からひっとりと中の様子を伺う。
クラウンはハンスの部屋には入らず台所の戸棚を開けたり閉めたりと何かを探しているようだった。さっき朝食を食べたばかりなのにもう腹を空かせているのか。しかし食べ物を探している様子ではない。その証拠に戸棚に隠してあった美味しそうな新作ケーキを見つけても、伸びそうな腕をグッとこらえて何事もなかったかのように戸棚を閉じている。
本当に退屈で何かをやるという目標もなく、時間を持て余している感じであった。
しまいには食卓に突っ伏して眠りこけてしまったようだ。
それからなんの変哲もない静かな時間が流れて行った。
食後の満腹感からくるような穏やかな時間。シンクの壁についた横に長い窓から傾いた日の日差しがクラウンの背中を温める。
音は壁掛け時計の秒針と、遠くの大通りから聞こえて来る子供たちの微かな話し声。
その楽しげな声が時間と共に増えてくるとクラウンはゆっくりと昼寝の時間から帰ってきた。
細く開けた目の先にはうっすらと埃をかぶったアップライトピアノがあった。
試しに鍵盤の蓋を開けてポーンと一つ鳴らしてみる。ピシッと張った弦が叩かれる音が静寂に響いて気持ちいい。
掃除はされていないが調律はちゃんとしているようだ。
ドレミを一通り確認し、人差し指だけで何か曲のようなものを弾いてみる。それを見ていたシャトンも椅子に座って低い音で返事を二つ。帰ってきた返事にクスッと優しくクラウンは笑い、鍵盤の上を跳ねるように弾き出した。
扉の陰で監視していたウィルヘルムもその音でうたた寝から目を覚ます。
思い出しながら弾いている曲はとても歪で、曲目を聞かなくては曲なのかすらもわからない。本人たちは気持ちよく弾いてても他の者には騒音でしかない。下手な音にウィルヘルムの苛立ちがつのり、ついには痺れを切らして彼女らの背後に現れた。
「下手くそ」
高圧的にかけられたその声にクラウンは振り返ることもできず「……悪い」とうつむきながら謝った。
楽しく跳ね踊っていた指も力なく鍵盤の上にへたり込む。
「まて、弾いてみろ。お前よりも上手に弾いてやる」
そう言うと突如ウィルヘルムはシャトンの場所を奪い取り、クラウンの隣に座って鍵盤に手をかけた。
「生意気なクソガキめ!」
「お前の合いの手、指が大きいから余分な音が入ってるんだよ」
「なんと! 不覚……」
ウィルヘルムとシャトンの会話に思わずクスッと笑うクラウン
「何笑ってんだ。さっさと弾けよ」
打ち解けられるかと思ったが、相変わらずぶっきらぼうなウィルヘルムの指示に急いでクラウンはピアノを弾き直した。
「レ、レレドシ、ド、レミ」
ウィルヘルムに教えるように口で言いながら鍵盤を押す。
「ドは半音上で……元の音に戻って、ミに来たらもう一度。レ、レレドシ、ド、レミ」
「いちいち説明するな」
クラウンがたどたどしく弾いた鍵盤をウィルヘルムは一発で引いて見せる。どうやら彼はピアノの経験者のようだ。さしずめ実家の教会で聖歌隊の手伝いをしていたのだろう。
初めて見たスムーズな指運びにクラウンは感動し、今度はリズムを口にして弾き始める。
「てん、てってれれれ、てん、てれんっ」
それに合わせて音が後を追って着いてくる。
まるで返事をするように反応する音が、嬉しくなって自然と口角が上がっていた。
「次、弾けよ」
「おう!」
次のワンフレーズを繋げて引くと、これまた後を追ってハーモニーを作り出す。荒削りではあるが聞こえなくもない。
「もう一回! 始めっから繰り返し!」
自分の立場も忘れたクラウンは、無邪気な笑顔をウィルヘルムに向けて始めっから引き直した。そして彼の引くピアノの後ろを記憶を辿って引いてみせる。
初めてできたセッションに感激し、何度も同じところばかりを引いていた。元気を取り戻したクラウンに、シャトンも浮き足立って鼻歌交じりに踊り出す。
「てん、てってれれれ、てん、てれんっ! てん、てってれれれ、てん、てれんっ! てれんてっ! てれんてっ! れてって、てれれ…………」
楽しそうに口ずさんでいたリズムが曲と同じように下がってゆく。どうしたのかとクラウンの顔をチラッと見てみると感動していた顔がどんどん暗くなっていき、静かにかの思い出を語り出す。
「この曲な、昔、音楽の<童話>に聞いたんだ」
「お前が? <童話>に?」
「ああ。オイラがおそらく赤ん坊ぐらいに小さい時に聞いた曲をな、思い出しながら歌ってみたらアイツらはすぐに演奏してくれたんだ。なんの曲なのかも分からない曲なのに、凄いよな」
「……その<童話>も無理矢理、封印したのか?」
「初めて殺した<童話>だ」
封印ではなく、殺すと言った。
「なぜ殺した? お前のために演奏してくれるようなやつを」
「先生に言われたんだ。<童話>は悪い奴らだって。人を悪い方に突き落とす悪魔のような奴らだって。そしてオイラの両親も……<童話>に殺されたんだって。
でもアイツらに初めて会った時はそんなことないかも。って思ったよ。聞いてたような悪い奴らじゃなかったんだ。でも違った。アイツらも人の物を奪って喜んでいたんだ。悲しかった……。あの劇場はバロンって言う男の子の大事な夢だったんだ。そしてオイラの憧れでもあった。だってあの劇場にはバロンとバロンの親父さんとの大切な思い出がいっぱい詰まってたんだよ!! そんな大事な夢を、憧れを…乱暴に奪ったんだ! だから斬った。何度も何度も斬って殴って、グチャグチャになるまで踏んづけて……、息の根を止めた」
いつの間にか消えていたクラウンの音色。彼女は自分の小さな手のひらを見つめていた。今は何もついていないが指先にはあの日の感触が、鼻の奥にはあの生臭い鉄の匂いがこびりついていて、いつでも鮮明に思い出す。
「それからもいろんな奴らに会った。良い奴も悪い奴も。でも悪い奴のほうが圧倒的に多かった。だから闇雲に切った。良い奴だってアイツらみたいに裏では笑っている」
両手を己の顔に当てて恐怖に震えてうずくまる。彼らの断末魔を思い出し、この世ではない何処かに消え去りたい気持ちに駆られていた。だけどもウィルヘルムの前ではそれだけはしてはいけないと、彼女は感覚的にそのことを分かっていた。だからこうして声に出して懺悔するのだ。
「残酷だよな。アイツらも命乞いしてたのに、オイラはアイツらを本の中に封印する以上の酷い事をしたんだ。
だけどもそれは悪いことじゃないって、今でもそう思ってる。アイツらは悪い<童話>だから、ミンチになってもしょうがないって。どんな奴も<童話>はみんな悪い奴らなんだ」
そうは言うが彼女はずっと辛い顔をしている。心のどこかでは未だに彼らとの時間が宝石のように輝いているのだ。その宝石の砕けた棘が、彼女の心に刺さったままで彼女の心を揺るがしている。
そんな煮え切らない彼女の心に、ウィルヘルムは一喝するように呆気からんとした声でおちょくった。
「バカだなぁお前。だから敵しかいないんだよ」
「え?」