015 <ブレーメンの音楽隊> ― Ⅱ
長い月日のように続いた夜はようやく日の光を迎い入れ、朝の訪れと共に桐子は図書館の玄関をノックした。
「ハンスさん、おはようございます!」
「あら桐子、おはよう」
ツンと冷えた空気で赤く染まった鼻をすする桐子を、これまた朝の水仕事で指先を赤く染めたハンスが扉を開けて向かい入れる。奥の台所から聞こえて来る鍋の煮立つ音で部屋の中はほんのりと温かい。
部屋の中に入った桐子はコートを脱ぐ暇もなく
「あの、クラウンは?」
と強くハンスに詰め寄った。
不安がる彼女の表情に、ハンスは眉を細めながらも優しく微笑んで二階へと続く細い階段へと目をやった。
「まだ寝ているみたい」
彼が目線を送る先、二階の奥にある子供部屋でクラウンは布団に包まり眠っていた。深くかぶった布団の隙間から覗かせる瞼はまだ涙で火照り腫れている。余ったベッドの隙間にはシャトンがすっぽりと収まって、これまたまん丸く丸まって眠っていた。
「あの後からずっと眠ったままよ。よく食べる子だって聞いていたから、夜食を持って様子を見に行ったりもしたのだけれども……、さすがに食べてはくれなかったわね」
”あの後“とは、ハウストの家で起きた<童話>たちとの大戦争ともいえるあの夜の出来事のことである。
あの夜、クラウンは大きな過ちを犯してしまい本物の化け物となってしまった。たとえ誰か一人でも彼女の過ちを赦したとしても、世界は彼女を赦してはくれないだろう。
そんなクラウンの行く末を桐子は心底心配した顔をして階段上を見やるのだが、それ以外に彼女が出来ることは何もなかった。
不安そうにしたまま固まる桐子を、今度はハンスが心配して何とか元気付けようと閃くように声をかけた。
「そうだ! クラウンがいつ起きてもいいようにご飯の準備を手伝ってくれないかしら?」
突然現れた名案に桐子もパッと明るい顔をした。それならばきっと自分にも出来るはずだ。
大きく頷いた桐子はハンスの後に着いて行き、楽しそうに台所へと入って行く。
「何がいいかしら? 具沢山のスープなんてどう?」
台所に入るとすぐ目の前に、大きな食卓の上を沢山の食材たちが色とりどりと待ち構えていた。人参やカブたちは各々に似合った切り方をされており、鍋の中に入るのを今か今かと待ちわびている。
美味しそうな食材たちに桐子の心もより一層踊り出し、再び加熱される鍋の中へと投下されていく野菜たちを見送ろうとハンスの手元を覗き込んだ。が、野菜たちが鍋の中へ入るよりも一拍早く、貯蔵庫である物置部屋の扉が勢いよく音を立てて開かれた。
バンッと叩き付けられる衝撃音に、驚き振り向く桐子とハンス。そこには腫れぼったい顔をしたウィルヘルムが、不機嫌そうな雰囲気を身に纏って堂々と突っ立ていた。
ウィルヘルムは桐子やハンスに目もくれずズカズカと台所を通り抜け、二階へと続く細い階段を上って行く。何か良からぬことが起きそうな気配に桐子も急いで後を追い、何度もウィルヘルムを呼び止めようとした。しかしウィルヘルムは桐子の静止を押し退けて、子供部屋の扉も壊しそうな勢いで開け放つ。
突然の乾いた騒音にぐっすりと眠っていた猫も跳ねるように飛び起きる。
「にゃにゃにゃっ! にゃんですか?!」
心臓をバクバクと五月蝿く脈打たせ、音の鳴った方へと振り向くと、そこには殺気立ったウィルヘルムがワザとらしく足音を立てながら彼女らクラウンの方へと向かおうとしている所であった。
「一発殴らせろ」
乱暴な言葉を浴びせられ、まだ起きていなかった脳みそを一気に起こすと威嚇のうねり声を上げさせる。
「殴るですと?!! そんなこと、この私が許しま……ぶにゃ!!」
威嚇の文句を言っている途中だが、飛び出す前にいとも容易く首根っこを掴まれてポイっと部屋の隅へと投げ飛ばされる。そしてウィルヘルムはくしゃくしゃにシワの寄った布団を引き剥がし、未だに眠り続けているクラウンの胸ぐらを荒々しく掴み上げると、思いっきり自分の顔の方へと引き寄せた。
「よお、起きろよ。良いご身分だな」
揺さぶられてようやく目を覚ましたクラウンは、眠気眼のままボーッとウィルヘルムの顔を見つめた。自分がどのような状況なのかも分からない。しかしウィルヘルムの静かな怒りに満ちた表情を確認すると、何となくだが良くない状況であることは理解できた。
「ウィル!!」 「桐子は黙ってろ!! 俺はずっとお前を殴りたくってウズウズしてたんだ。本当ならばその首をはねてやりたいぐらいだがな」
ウィルヘルムは妹のように接していた<童話>のマリアをクラウンによって無理やり封印された事を未だに赦してはいなかった。いくら自分のやった事の方が間違えであったとしても、クラウンの仕打ちまでもを赦しているわけではない。
怒りでどうにかなりそうな彼に、寝起きながらもしっかりと芯を持った声でクラウンは語りかけた。
「ウィルヘルム・フェルベルト。オイラはお前に散々酷いことをしてきた。その気持ちは無理もないこと。オイラを殴って気が晴れると言うのなら、いくらでも殴ってくれッ」
言い終わるや否やクラウンの左頬を無言のままに殴り通す。「ひっ!!」と引きつった悲鳴を桐子が上げたが、その後はしばらくの沈黙が辺りに流れた。正確にはウィルヘルムの興奮した浅い呼吸がおさまる間、誰も声を上げることができなかった。
次第に呼吸は落ち着きを取り戻し、深いため息をついた後、彼は先よりもスッキリとした声をして
「……すまん、もう一発殴らせてくれ」
と何故だか困ったような顔をしながらとんでもないことを要望した。
「ウィル!!!! 一発って言ったじゃない! 何がもう一発よ!!!!」
桐子は二人の間に割り込んで、ウィルヘルムからクラウンを引き剥がす。殴られた後の具合は大丈夫かと、不安気に彼女の左頬をじっくり見たがケロっとしたクラウンの表情にほっと肩を撫で下ろす。がしかし、遅れて一筋の血が口の端から流れ出すと、目を丸く見開いて絶叫した。
「なになになに?! どうしたの?!!」
今度は桐子の悲鳴に呼ばれてハンスも慌てて二階へと駆け上がる。するとそこにはウィルヘルムに噛み付くシャトンにヒステリックな声を上げながらクラウンを抱きしめる桐子。渦中のクラウンは驚き固まった表情をして扉の前に立つハンスを、助けを求めるような眼差しで見つめていた。
暗く辛い戦いの後、心身ともに傷ついていると思っていた彼らだが、朝から騒々しくも元気が溢れる子供たちにハンスは「あらあら」と思わず呆れ笑いを浮かべて優しく言った。
「とりあえずみんな起きたことだし、朝ご飯にしましょうか」
◆ ◆ ◆
朝の一悶着もハンスの一言により一時休戦。文句あり気に食卓につく子供たちの前に焼きたてのパンとソーセージが並べられる。
「はいどうぞ」
クラウンの前に具沢山のスープが、美味しそうに白い湯気を昇らせて寄越される。
ローズマリーの新鮮な若草の香りが彼女の鼻をくすぐり、ヨダレが出そうなほどに食力を促すのだが、
「折角のご馳走だけど、オイラ食力が……」
と言って渡されたスープを突き返した。
それを隣の席で見ていた桐子が
「遠慮しないで! ハンスさんが作ったご飯はどれもすっごく美味しいんだから!! 一口だけでも食べてみて!」
と強く勧めてくる。
先の戦いでもう自分には嘘をつかないと桐子に誓ったクラウンは、恐る恐るとスプーンを握りしめ、少しだけスープをよそうとズッと音を立てて飲み込んだ。
最初こそは嫌そうな顔をしていたが、スープが舌の上を撫でて喉元を降りてゆくと自然と表情が和らいだ。ふーっと思わずついたため息と共に「美味しい」と言う賛美の言葉も溢れ出す。
「まあ! すっごく嬉しいわ!! おかわりも沢山あるから遠慮しないで!!」
調子を戻したクラウンの食べっぷりにハンスは満面の笑みを咲かせていた。大量のスープが残る大鍋を食卓の上に置いておかわりの準備をするのだが、クラウンは空になったお皿をハンスに渡すことはせず、素早く彼の手から大鍋を奪い取り、行儀悪く鍋に口をつけるとグビグビっとスープをすっかり飲み干した。
「あら……まぁ……、作りがいのある子ね……」
空になった大鍋が軽い音を立てて食卓に戻る。想像以上の大食いにハンスの満面な笑みも引きつった笑顔に変わっていた。
しかしさっきまで辛そうにしていたクラウンの表情が、ケロッとした無邪気な子供のような顔に変わっているのを見ると、彼は苛立ちよりもどこか安心した気持ちになっていた。
「そういえば桐子は今日、学校じゃないの? こんな所に居て遅刻はしない?」
時計を見ればもうそんな時間。図書館と学校は正反対の場所にあるし、今すぐにでも向かわなくては遅刻してしまう。それでも桐子は呑気にパンを頬張ると、頬に手をそえて悩むそぶりを見せた。
「そうなんですよ。本当は休んでクラウンと一緒にいたいんですけど、さすがに新学期早々に休むのは如何なものかと思いますし…………。そうだ! クラウンも一緒に学校に来ない? 食堂ならば一般の人にも開放してあるし、智菊ならばクラウンも知ってるでしょ?」
「学校……」
その時クラウンの頭の中に瓶底眼鏡の金髪少女が思い浮かんだ。彼女は食堂で働く冴えない給仕に見えるのだが、眼鏡を外せば若草色の目を鋭く光らせる、わがままお嬢様のラッティの姿が現れた。
「学校は……いい……」
青髭事件の時は彼女は不参加であったが、未だに先生とは繋がりがあるかもしれない。今でもクラウンは先生のことを思ってはいるが、彼に見捨てられた事実がショックで未だに引きずっている。今はまだ再び会う気持ちが起きずにいた。
寂しそうに俯くクラウンに、桐子は優しく微笑んで、
「うん、まだ疲れてるもんね。今日はゆっくり休むといいよ」
と暖かな手で彼女の背中をさすった。
「ウィルヘルムはまだ怪我が酷いから学校に休みの連絡を入れとくわね。絶対安静にしなくっちゃいけないのだけれども……」
「何かあるのか?」
「いや、別に。ただ今日は私、ハウスト家の後始末を済ませなくっちゃいけないから、お留守番を頼みたくて……」
パンをちぎっていたクラウンの手が止まる。
「あのお爺さんでハウストの家は終わってしまったからね。いちを私の家とは遠い遠い親戚だし、役所で必要な事を聞いたり、葬式の準備とかしなくっちゃいけないのよ」
「すまん……オイラが……」
「あ、別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだから! どの道、いずれ来るはずだった手筈だから。気にしないっで、ね!」
そうは言ってもそのハウストを殺したのはクラウンだ。気にしないでと言われても気にしない方が難しい。それに……
「と言うわけで、お留守番お願いね」
「なんで俺が仇と一緒に留守番しなきゃなんねーんだ!!」
ウィルヘルムの妹(と言ってもその妹は<童話>が化けていたのだが)を倒したのもクラウンだ。仇と共に留守番をしなくてはいけないウィルヘルムの気持ちを思うと申し訳なくって仕方がない。
本来ならばクラウンが責められる立場にいるはずなのに。だからこそなのか、ハンスと桐子はクラウンに優しく、ウィルヘルムにはきつく
「仲良くね!」
「部屋を荒らしたら追い出すわよ!」
「また殴ってたりしてたら、許さないんだから!」
と声を捲し立てて追い詰めた。
不条理な事態にウィルヘルムは言葉を詰まらせて、目元をヒクヒクと引き攣らせる。そして
「俺の部屋には入るなよ!!」
とだけ大声でクラウンに当てつけると、食器も片付けずに二階の彼の本来の部屋である子供部屋に引きこもってしまった。
ウィルヘルムの背中を見送ったまま台所の入り口を見つめる三人。ハンスは気まずそうな作り笑いをしながら、
「あんまりお勧めできないけれど、眠たかったら私の部屋を使ってちょうだい」
と最後までクラウンに気を使った。
ハンスの親切にありがたみは感じるが……、朝、ウィルヘルムが出てきた部屋の扉を開けてみると、本と裁縫道具で埋め尽くされた物置部屋がそこにはあった。
料理も裁縫もプロ級で非の打ち所のない優男を装うハンスだが、図書館の間の荒れ具合といい、自分の部屋といい掃除だけは大の苦手のようだった。扉を開けた途端に積んでいた本が雪崩を起こして枕の上に落っこちる。それを見た桐子は危険を感じて
「ごめんねクラウン。できるだけ早く帰ってくるから!」
と彼女の身を案じて言った。