015 <ブレーメンの音楽隊> ― Ⅰ
洞窟のように朽ちた廊下を進む中、暗闇に方向を惑わされぬよう桐子は石壁に両手を伝いながらある少女を探していた。
「クラウン……、一体どこにいるの?」
繰り返し呼んだ彼女の名前。影も形も見つからずに擦り傷ばかりが手のひらに増えてゆく。
この<青髭>の城に入ってからどれくらいの時間が経っただろうか。
たったの二、三分しか経っていなくとも、早く<童話>の糧食にされているクラウンを救い出して、外で<青髭>と戦い時間を稼いでくれているウィルヘルムやシャトンの負担を減らさなくては。
焦る気持ちに歩きの速度が早まるが、その分地面に散らばる鎖に足を取られて倒れてしまう。
こんなところで膝をついている暇はない。擦りむいた膝を確認する事もなく桐子は歯を喰いしばってもう一度、力強く立ち上がった。
そんな彼女の頬を生暖かく湿った風が吹き抜ける。先まではこんな風は吹いていなかったのに。今までにない新たな発見に、桐子は僅かな希望を抱きながら風が吹く方向へと足を向かわせた。
その頃<青髭>に捕まっているクラウンは、似合わぬ純白のドレスを着せられて血濡れた部屋の中、囚人のように両腕を吊るされ項垂れている。
「やっと見つけた……」
風下から聞こえてきた桐子の声は、ようやく見つけたクラウンの姿に安堵の色を浮かべていた。しかし安心するのはまだ早い。沢山の鎖が散乱する床の上を桐子は転ばないように慎重に歩いてクラウンの元へと近づかなければならない。
「待っててね、クラウン。今、助けるから」
先よりも生傷だらけになっている手足。桐子は痛がる素振りも見せずにがむしゃらにクラウンの元へと近づいた。
“クラウンを助ける”ただその一心だけでここまでやってきた。が、
「なんで来た?」
と俯くクラウンから酷く冷たい言葉が吐き出される。
「来るなって言ったじゃないか…………。もうオイラに関わるなって言ったじゃないか!!」
叫んだ弾みで腕を強く引っ張るが、鎖が嫌な音を鳴らして彼女の勢いを殺してしまう。桐子は言われた通りに近づかず、興奮するクラウンが落ち着くまで静かにその場に立ち止まった。
壁から滲み出る水滴の音と二つの小さな呼吸音。しばらく続く沈黙の後、堰を切ったかのようにクラウンが嗚咽混じりに語りだす。
「オイラは…………オイラは、なんてことをしちまったんだ……。誰も傷つかない、みんなが幸せな世界にしようって決めたのに。災いの元である<童話>を狩って、平和な世界にしようとしたのに、なのに! 人を!! 人を…………」
―― 殺してしまった
「何の躊躇もなく、虫ケラを潰すように、当たり前のように、ハウストをッ! …………そうさ、これがオイラだ。クラウンだ! もうお願いだから、誰もオイラに関わらないでくれ…………」
記憶の沼底に沈めたはずの少年の恐怖に染まった二つの眼が脳裏に焼き付き離れない。
今度こそ素直になろうと決めたのに、クラウンはまたもや桐子を拒絶する。そうして化け物である自分から彼女を引き離そうとしているのだ。
小刻みに震える小さな肩に、桐子は一歩だけ歩み寄る。
「クラウン……」
「来るなって言ってるだろ!! 早くここから出ていっ!!!!」
クラウンが話し終わるその前に、桐子は一気に彼女のそばまで駆け寄ると、力一杯にクラウンの頬を引っ叩いた。“力一杯”と言っても非力な女子高生の力なんて高が知れたもの。しかし予測もしていなかった彼女の行動に、クラウンは目をまん丸く見開いて桐子の顔を見上げていた。
「私はね、クラウン。私は、貴女のことを絶対に許さないんだから!! マリアの<童話>を奪ったり、ウィルを何度も傷つけて半殺しにしたり。他にも仲良くなった<童話>を倒して奪って…………。私、絶対に許さないんだから! 絶対に、絶対に許さないんだからぁ!!!!」
今にも泣き出しそうないつもの瞳。しかし顔は精一杯に怒った顔を作っている。
あの泣き虫桐子がここまで怒鳴りつけている。自ら切り捨てたにしても心にくるその言葉に、悲しみで顔が歪みそうになってしまうが、クラウンはなんとか堪えながら桐子の顔を睨み返した。だが桐子の言葉はまだ終わっていない。
「でも……でも一番許せないのは、理由も言わずに勝手に絶交して、悲しい顔してひとりぼっちになろうとする、その傲慢な態度なんだからぁ!! 嫌だよぉ! 来るなだなんて言わないでよぉ!! 寂しいよぉ。勝手にひとりぼっちになるだなんて許さないんだから! クラウンは私の友達なんだからぁ!!!!」
倒れる様にクラウンを強く抱きしめる。散々酷い事を言われて傷つけられたというのに、まだ桐子はこの化け物から離れたくないと言うのである。その行動はあまりにも理解不能で、残酷で、恐ろしい。
「桐子は……、こんなオイラをまだ友達だって言ってくれるのか?」
「当たり前じゃない! じゃなきゃ、私から友達になろうだなんて言わないわよ! 貴女みたいな危なっかしくって、純粋で、優しい子、ほっとけないんだから!! 今度は私がクラウンを助ける番だからっ!!」
突として桐子はクラウンの腕を繋ぐ鎖に掴みかかると、荒々しく引き千切ろうとする。力のない彼女が鎖を引き千切れるとは到底思えないが、運良く劣化が進んだ場所に負荷がかかったのか、赤錆びた鎖は鈍い音を立ててぼろぼろと床に崩れ落ちた。
勢い余った桐子はクラウンの上へと覆い被さる。まさか彼女が鎖を引き千切れるとは思ってもいなかったクラウンは、驚き、動揺するが、己を縛り付けていた鎖を砕いてくれた桐子に自然と腕を回そうとしていた。が、桐子の背後から大剣を持った男が近づいて来ているところを目にしてしまう。
「<青髭>…………」
初めて見た<青髭>は、今まで見てきたどの<童話>よりも禍々しくて恐ろしい。
クラウンは彼を倒すために多くの<童話>を狩ってきた。まさしく彼女の全てがこの<童話>から始まったと言っても過言ではない。だが、いざ仇を目の前にすると怖気付いてしまったのか足がガタガタと震え出す。
今までに感じたことのない自分の感情に、たじろぎ、混乱するクラウンは自分がどうしたいのか分からなくなっていた。迷いが生じ、息が詰まりそうになった時、桐子が彼女の手を強く握りしめる。無謀にも桐子は<青髭>を睨みつけ、何があってもクラウンを守ろうという強い意志を見せつけていた。
どんなに嫌な姿を見せても自分のことを想ってくれて、受け入れようとしている人がいる。化け物である自分を今もなお友と呼んでくれる人がいる。そんな彼女を手放すような嘘を、もう自分にはつきたくない。
クラウンは己の身を奮い立たせると、手元に落ちていたおもちゃの短剣を握りしめ、つたない足取りで立ち上がる。ふらふらと大きく揺れながら一歩づつ、確実に床を踏みしめながら<青髭>に向かい合った。
「<青髭>…………、覚悟ッ!!」
素早く短剣を突き出すクラウン。
「うわああああぁ!!」と雄叫びを上げながらたくましく突進するのだが、男も彼女から奪った大剣を持ち上げて抵抗しようとした。が、しかし大剣に何かが絡まり振り上げる動作すらもできずにいる。急いで剣先を確認すると、白い茨が絡み付いていた。
部屋の隅には座ったままの桐子が両手を突き出し<いばら姫>を発動させている。<青髭>を完全に止めることはできないが、一瞬の隙を与えるには十分な働きをしてくれていた。茨に気を取られている隙にクラウンが短剣を<青髭>の胸に突き立てる。
男は苦しみ悶え、しがみついているクラウンを引き剥がすと、地面に投げ捨て胸を押さえた。そして天を仰ぎ、力尽きて倒れてしまう。
男の体は次第に透け行き、血濡れた城も曇った夜空へと少しずつ崩れ落ちていった。瓦礫の中央で佇むクラウンも、空いた天井を見据えている。
「クラウン……」
ボロボロに傷つきながらもクラウンを案じて声をかける桐子。その声に振り向く彼女の瞳には大粒の涙が溢れていた。
「桐子ぉ……」
嗚咽混じりの下手くそな呼吸をし、近づいてくる桐子の胸に勢いよく飛びつく。まるで赤子のように泣きじゃくるクラウンを、桐子は強く抱きしめた。
長い、長い時と共に悪夢をついに打ち倒した。その姿を遠くから見ていたウィルヘルムは、驚きの目で彼女たちを凝視する。
「嘘だろ? あの二人……、<青髭>を倒したのか?!」
仰天しているウィルヘルムの横を、すっかり炎の勢いを無くして猫の姿に戻ってしまったシャトンが、感激のあまりに駆け抜ける。
「クラウン様ー!! よくぞ! よくぞご無事でっ!!」
庭の中央で抱きしめ合う三人を、雲の切れ目から月明かりが優しく照らしている。切れ目も次第に広がり千切れると、晴れた空には星たちが夜明け前の最後の輝きを放っていた。
輝きを受ける三人とは別に、月明かりを頼りにしてハンスが一人、ハウスト邸の二階に訪れる。二階の食堂からも三人の抱きしめ合う姿がよく見えたが、彼は瓦礫となった一室でとある老人を探していた。
見つけた老人は胸に大きな傷を負っており、床に仰向けで倒れている。その顔はどこか満足そうで、瞳は天井の遥か向こう側、星々が瞬く空の上を眺めているようだった。
ハンスはそっとハウスト老人の瞼を降ろすと、辺りを静かに見渡した。
「これがアナタの求めていた結末なのですか?」
彼の生きた痕跡は瓦礫の山と化している。年季の入った椅子も、机も、沢山の本や一枚の写真でさえも、この戦いで全てが壊れてしまった。
「アナタには後悔の無い人生だったのかもしれないけれど……、それにしてはあまりにも、勝手すぎる…………」