014 <青髭> ― Ⅵ
先生に言われるがままに宿を飛び出してしまったが、クラウンは彼の言う事が未だに信じ切れてはいなかった。
自分の両親が<童話>に殺されたと言う悲惨な過去も、記憶になければたった今仲良くなった<童話>の方を信じている。<童話>だからと言って皆んながみんなそんな酷い奴らではないはずだ。と、それを確かめるためにクラウンは、今一度<ブレーメンの音楽隊>に会って彼らの話を聞くことにした。
「ようクラウン! 開演にはまだちょっと時間があるけど、もう席に着くか?」
広場の近くにあるバロンの劇場前にはお客がまばらに集まって来ている。子供の劇場としては大繁盛だ。
息を切らしてやって来たクラウンに、バロンは劇が始まるのが待ち切れないのだと勘違いして嬉しそうに笑いかけてくる。
「バロン……、ロバを……ロバを見なかったか?」
「ロバぁ?」
しかし彼女の口から出てきた言葉は突拍子のないものだった。
「他にも犬と猫とオンドリ」
「なんだそりゃ? ブレーメンの音楽隊か? 残念だけど今日の演目はブレーメンじゃないんだ。でもきっと気にいるぞ!」
バロンの人形劇の前座に来るようにと言っておいた<ブレーメンの音楽隊>はまだ来ていない様子。開演の時間までまだ余裕はあるが、来ていないとなると町を出てしまったか。
正直、町を出てしまった方が彼らを先生から隠したいクラウンとしては好都合。だが彼らの臭いはまだこの辺りを漂っている。
もう一度町全体を探し回ろうと駆け出すクラウンにバロンが「ちょっと!」と慌てて呼び止めた。
「あと数分で劇が始まるぞ。どこに行くんだ?」
「バロン……あの……、ごめんな。他にやることができたんだ」
「他に? 他にって何だ? 人形劇を見てくれる約束は?」
「オイラ、行かなくっちゃ……」
「待ってよクラウン! それは友達との約束よりも大切なことなのか?!!」
“友達”
その言葉にクラウンは胸がしめつけられる。
自分だってバロンの夢が叶う瞬間を見ていたい。しかし<ブレーメンの音楽隊>もクラウンにとっては大切な友達。先生に<童話>を懲らしめる為の力が宿っていなくても、何か恐ろしい事が起こる気配は感じていた。彼らと先生が鉢合わせてしまったら、一体どんなおぞましい事が起こるのか。
バロンの夢を取るか、<童話>の命を取るか。天秤にかけられた友情はクラウンにとっては同じぐらいに重い。しかし彼女は何も言い返さずにバロンに背中を向けてしまった。
「クラウンッ!!」
確かに彼の夢も大切だが、こちらは<童話>の命がかかっている。
クラウンは彼の制止を振り切って、足早にその場を後にした。
青く冷たい夕暮れの中、走り去るクラウンの背中をバロンは手を振ることなく寂しく見つめ続けている。彼は長く付き合う友人たちではなく、一番に舞台を楽しんでいたクラウンに自分の夢を見届けて欲しかった。
* * *
「さっきよりも嫌な気配がするわ」
クラウンとは別の方向から劇場を目指していたロバが足を止めて辺りを見渡す。
「ふむ、ワシら以外の<童話>が近づいているのかもしれない」
そんな不吉な予感を表すように、オンドリの頭上を分厚い雲が渦巻いている。
「グリムアルムだったらどうしましょう。ねえ、劇場に行くのはやめて町を出ましょう」
「おいおい、クラウンとの約束はどうすんだよ」
「クラウン~!」
不安がるロバとは別に犬と猫は舞台に立つ気、満々だ。
「もう劇場の支配人にも俺たちのことを話しているぜ。クラウンに赤っ恥なんてかかせられねえ」
「そうじゃのう……そんなに心配なら、演奏を終えたらさっさと出てゆけば良いではないか」
楽観的な犬とオンドリにロバもしばらく悩んだ後、
「それもそうね、せっかく私たちの音楽を好きだと言ってくれる子が現れたんですもの。クラウンの為にも行きましょう」
と説得されてもう一度歩みを進めてしまう。そして彼らはクラウンとは行き違いに町の人々が集まるバロンの劇場へと向かってしまった。
一方クラウンは、いくら探しても見つからない<ブレーメンの音楽隊>に酷く焦りを覚えていた。確かに彼らの臭いはこの町からは出ていない。しかし本体どころか影すら見つからない現状に、彼らを助けられない時の不安が押し寄せて泣き出しそうになっていた。だがそんな不安に向かって劇場の方角から子供の影が走ってくる。
クラウンの肩にぶつかったその子供の影は、一緒に劇場を建て直した仲間のグスタフであった。
「グスタフ?! どうした? もう劇は始まってるんじゃ」 「バロンの劇場が!!」
涙で汚れた顔を上げてグスタフは、クラウンに向かって悲痛に叫ぶ。
「馬と犬と猫と鶏が、暴れ回って僕たちの劇場を壊したんだ!! せっかく直したのにぃっ! ずっと、ずっと頑張ってきたのにぃい!!」
醜いほどに歪んだ泣きっ面に彼の悔しさがにじみ出る。最悪な事態になってしまったと思ったクラウンは急いで劇場に戻って行った。
たどり着いた劇場の前には劇を見にきた町の人たちが、子供は恐怖して大人の足にしがみつき、大人たちは口々に「<童話>だ」 「<童話>の悪霊がこの町にも」とどよめき騒ついている。
誰もが劇場から聞こえてくる禍々しい雄叫びに怯えて足がすくむ中、宿屋の旦那と女将さんに押さえ付けられて「離せ!!」と暴れ叫ぶバロンの姿があった。
「<童話>がなんだってんだ?! そんなの子供騙しの嘘っぱちだ!! それよりも早くあの動物たちを追い出さなくっちゃ!!」
「バカ言うんじゃねえ!! 死にたくなきゃ、あいつらが出ていくのを待つんだ!!」
「そうだよ! 劇場なんて、命さえあればいくらでも建て直せるさ!!」
「違う! この劇場はそんな簡単なものじゃない!! これは親父の劇場なんだ! 親父が残してくれた大切な形見なんだ!!」
バロンの必死な訴えにクラウンは酷く打ちのめされる。
―― オイラのせいだ。オイラが余計なことを<童話>に言ってしまったばかりに。
劇を盛り上げるのに<童話>たちの歌声もちょうどいいと思ったが、どうやらクラウンの思った筋書き通りにはいかなかった様だ。
もう彼らを止められるのは自分しかいない。そう思ったクラウンは怒鳴りあうバロンたちを尻目に、開け放たれた玄関に飛び込んで陽気な演奏が聞こえてくる会場の扉を大きく開けた。
そこに広がっていた光景は、彼女やバロンたちが一生懸命に作り直した舞台があるはずなのにどこにも無い。幕はぞんざいに剥ぎ取られ、不器用ながらに釘を打った小道具やベンチはバラバラに破壊されて動物達がその上を楽しく跳ね回っていた。バロンが父との思い出を詰め込んで縫い直した人形たちも、手足を引き千切られ地面の上に突っ伏している。
話し合えばきっと分かり合える。
そう思っていたけど、結局は彼らも人間の不幸をすする<童話>の一つに過ぎなかった。
「おやおや、主役の登場だ」
オンドリが傾いた劇枠の上で悠々と歩き歌っている。
「クラウ~ン!」
猫が嬉しそうに椅子だったもので爪を研ぎながら笑っている。
「待たせやがって、舞台の準備は終わってるぜ!!」
犬が咥えていた垂れ幕を引きちぎり、英雄のマントの様にひるがえして格好をつけるのだが、
「あれ? ちょっと待って、何か様子が変よ」
とロバが彼女の異変に気が付いた。
「お前ら……<悪い童話>……」
「え?」
「お前らは、<悪い童話>だ!!!!」
クラウンの怒号に呼び起こされ、赤錆びた鎖が彼女の腕から現れる。
鎖は右手に握られたおもちゃの短剣に絡みつき、一瞬にして大きな剣へと変貌させた。
「ク、クラウン。どうしたの?! いったい……」
クラウンは間髪入れずにロバの頭を切り落とし、腐った果実が割れる様にその頭を容易く踏みつぶす。噴き出す血飛沫が彼女の真っ白な素肌に飛び散ると、近くで見ていた猫は潰れた悲鳴を吐き出した。
ことの重大さに瞬時に気が付いた犬はクラウンの首元に噛みつき抵抗するが、子供とは思えぬ力で引っぺ剥がされると地面に激しく叩きつけられる。
逃げようとする猫とオンドリにも彼女は容赦なく刃を向けて彼らを必要以上にいたぶった。
見るも無残な惨劇は、まだまだ終わりを見せようとはしない。普通の動物ならばこれで絶命するのだが、<童話>はただの攻撃では死ねない体になっている。素早い治癒によって彼らの体は元の形に戻ろうとする。しかし、怒りに我を忘れたクラウンによって彼らの体は何度も何度も斬り付けられた。治って斬られての繰り返し。その光景はまさしく地獄絵図。
<童話>の悲鳴が終わる頃、宿屋の亭主の腕を掻い潜ってバロンが演劇会場へと飛び込んだ。そこに待ち受けていた光景は、血生臭く赤に染まった父の大切な形見の姿。
舞台の上にはクラウンの後ろ姿が雄々しく君臨しており、その足元からは微かな声で「クラウン……クラウン……」と彼女の名前を呼ぶロバの声が聞こえてくる。
その姿はあまりにも恐ろしく、人ならざる物の姿をしていたから、バロンは思わず「ば……化け物……」と震える唇で言い放ち、血相をかいて逃げ出した。
破裂するように響いたその言葉に、クラウンは自分の正体を思い出す。
―― そうか、オイラは化け物なんだ。
苦しい、辛い、寂しい、そんな負の感情が彼女の心を支配する。
過ぎ去りし日々は深い沼の底に沈み、舞台の幕は閉められた。クラウンは今一度、夢のお城の中に佇んでいる。
「もしも誰かいるのなら、オイラのお願いを聞いてはくれないか?」
―― じゃなきゃ頭がおかしくなりそうだ。
あまりにも残酷な記憶にクラウンは嗚咽を漏らしてうなだれた。
友を殺した自分に誰も耳を傾けてはくれぬだろう。
しかし何の気まぐれか、最後まで決して開かなかった扉の向こう側からクラウンに話しかける声が聞こえてくる。
「小さな鍵……金ぴかの……、とっておきの小さな鍵を持ってはいないかね?」
突然の返事にクラウンは泣き腫れた眼で扉を見上げるが、声の言う鍵を彼女は持っていない。
寂しそうに頭を左右に振ると、それが見えているのか扉の主は「そうか」と残念そうに声を漏らした。
「それではその鍵を探してきてはくれないか? その鍵がなくてはこの扉は開かない。
お前がその鍵を持ち今一度心の底から苦しみ、助けを求める時が来たならば、私は必ずお前の願いを聞き入れよう」
誰かも分からぬその声に、クラウンは少しだけ勇気がもらえた気がした。
それからどれくらいの月日が流れただろうか。彼女は化け物としてずっと<童話>を狩り続けていた。先生の言う通り、人間と<童話>は相容れぬ存在。<童話>が人間を襲う光景を幾度と見、<童話>の魔の手から沢山の人を救い出した。しかし彼女の心は初めて見た人形劇の日から満たされることは決してない。
だがあの日の夕方、教会の上で嗅ぎつけた薔薇の香りにも似た<童話>の臭い。夕日で赤く染まった町中で日本という国からやって来た女の子と出会ってからは、自分が化け物である事を忘れてしまっていた。
花のように笑う女の子。太陽のように輝く子。しかし出会いは最悪であった。
何度も彼女を脅し、あまつさえ殺そうともした。それでも彼女は諦めずにクラウンにたくさん話しかけてくれたのだ。
彼女に出会わなければ、あの頃の気持ちは忘れたままだった。“友達”だという甘美な誘いに乗らなければ、こんな苦しい思いを再び味わうことも決してなかった。騙し騙しで得ていた幸福が、ちっぽけになってしまうほどに大きくなっていく彼女の存在が、憎くて憎くて仕方がなかった。
でも、だけど…………
もう一度だけ会いたいな、
散々酷いことを言って傷つけてしまったけれども、
オイラがどれだけお前の事を想っているのかを伝えたい
―― もしも……もしも願いが叶うなら、どうかもう一度だけ彼女に会わせてください
「クラウン!」
そう、あの声。
あの子はいつだってオイラの事をちゃんと名前で呼んでくれた。
ローズだなんて決して呼ばない。
ねえ桐子、助けて。ここはとても……
「寂しいよ……」
「クラウン……。待っててね、今助けるから」
聞き取ることが難しいほどに掠れた声に、息を切らしながらも明るい声が返ってくる。
クラウンがゆっくりと瞼を開けると、そこにはいるはずのない桐子の姿が立っていた。
最後に別れた日から続く悲しい顔はどこにもない。不安に染まる小さな少女を安心させるかの様に、優しい眼差しで微笑みかけていた。
<つづく>