014 <青髭> ― Ⅱ
侘しく佇む黒い町に名残の雪が降り注ぐ。
街灯の明かりは何処にもあらず、粉雪の明かりに白い影が歩いていく。
―― ドン、ドン、ドンッ。
力強く叩かれる扉の音に亭主が警戒しながら小さく開ける。
「宿を……一晩だけ、泊めさせてはくれませんか?」
扉の外には真っ白い男がうなだれて立っていた。
腕には少年の様な子供が抱きかかえられており、二人は力なく壁にもたれている。
子供は呆けた顔をしながらゆっくりと亭主の顔を見上げるが、その瞳は血のように赤黒く、化け物の類だと亭主は思った。
「あいにく今日は満室でね、他をあたってくれ」
「吹雪の中、何日もかけてテュービンゲンの方から歩いてきたんだ。もう足が動かない。朝まで食堂の椅子を借りるだけでもいい。ちゃんとお代は払うから」
「ダメだ、ダメだ! うちは宿屋であって、椅子を貸しているわけじゃない!」
意地でも泊める気のない亭主の態度に男は深くため息をついた。
そのため息が一層亭主の機嫌を損ねてしまい、絶対にこの旅人たちを自分の宿には泊めまいと確固たる決意を結ばせた。
いい加減建物の中も冷やされて、これ以上熱を逃がしたくはない亭主は無情にも扉を閉めようとするのだが、そんな亭主の耳元へ、微かに聞こえる声で男は唇を震わせた。
「お願いします……。部屋を、どうか貸してください……」
先ほどから変わらぬお願いに何の期待もできぬだろう。
しかし閉ざされようとしていた扉はピタリと止まり、急に大きく開かれた。
「椅子じゃあ疲れが取れないだろう……。俺の部屋を使ってくれ……」
まるで人が変わったかの様に、亭主は旅人たちを歓迎する。
だが彼の顔には笑顔や慈しみの表情は浮かんでおらず、遠くの外を見据えていた。
旅人の男は何も言わずにさっさと敷居をまたいでしまうと、案内された部屋の中へと入っていく。そこそこ広い部屋ではあるが、作りが悪いのか冷気がツーンと張っていた。
男は部屋の隅にある丸椅子に子供を乱暴に置き捨てると、自分はベッドの上へとうつ伏せのままに飛び込んだ。雪でぐっしょりと重く濡れてしまったコートが男の全身をじんわりと、なぶるように押し潰し、胸に詰まっていた凍えた空気を外へと全て吐き出させた。そして浅い呼吸を繰り返し、指の一本も動かせずにそのまま黙りこくってしまった。
一人取り残されてしまった子供はちんまりと、椅子に座ったまま倒れた男を見つめている。特に何をするわけでもなく、ただじっと男を見つめていたのだが、この子も十分に疲れていたのだろう。同じ様に瞼を閉じると深い眠りの世界へと旅立った。
この年はどの町も厳しい冬が続いていた。
凍った雪に閉じ込められて憂鬱な日々を送っている。
誰もが春の訪れを願い、その思いが少しでも届いたのか、旅人たちが来た次の日の朝は、雪は降らずに薄い雲が空にのっぺりと張り付いていた。
二人の旅人は溜まりに溜まった疲労により、昼ごろまでじっと眠らされていたのだが、しびれを切らした宿屋の女将に、ぞんざいに起こされると狭い食堂へと追いやられる。
はたき起こされた二人は適当な席に座らされると朝食、もとい昼食を手荒に突き付けられて、さっさと食えとでも言うように女将が隣の机の掃除をし始めた。
目の前に出された料理はとっくの前に冷めきってしまい、ご自慢であろうクネーデル(イモの混ぜ団子)も表面が少しだけ乾燥していた。子供が辺りを見渡したところ、他にはお客も誰もいない。
食事をしようとする人の前で埃を立てるのはいかがなものかと思うのだが、子供はそんなことも気にせずにスプーンを不器用に握りしめると、料理を口へと掻き込んだ。男の方はフォークの持ち手を力なく摘み上げると、そのまま時が止まったように動かなくなる。
対照的な二人だが、女将さんは子供の食いっぷりに不機嫌だった事もすっかり忘れて、思わず声をかけてしまった。
「随分とまぁ……、この子は良く食べるねぇ。将来立派になるよ。お名前は?」
「……?」
女将さんの質問に子供は両頬を膨らませながらコテっと首を傾ける。
まるでその言葉の意味を分かっていないかのような反応に女将さんは渋い顔をした。
「クラウン……」
男がぼそりと、子供の代わりに囁いた。
「クラウン? ずいぶんとまぁ、変わった名前だねぇ」
「うん! お代わり」
クラウンと言う名前の子供が元気よく空っぽになったお皿を差し出すと、女将さんは困ったように「おかわりねぇ……」とより一層渋い顔をした。
困り果てっている女将さんをよそに、突如男は立ち上がると自分の部屋へと戻ろうとする。
「おい、待てお前さん、顔色が良くないが体調でも悪いのかい? 医者でも呼ぼうか?」
しかし男は無言のままで泊っている部屋へと帰って行く。
扉の閉まる音に女将さんは呆れたように腰に手を当て、一口も手をつけてない料理を勿体なさそうに見下ろした。そしてチラリとクラウンの方に目配せすると、汚れた手のままささっと彼女の前に料理を差し出す。
「一口も食べちゃあいないみたいだし、もったいないから食べちゃいな」
たくましい女将さんとはべつにクラウンは心配そうに扉を見つめていた。
先までの元気な笑顔もどこかへ消え去り、料理も目には入ってい無い様子。
連れの体調が悪ければ誰だって心配はするだろう。しかし女将さんは二人の奇妙な雰囲気に、薄気味悪さを感じていた。別に何がおかしいという訳はない。だけどもどうしても二人の存在が怖いのだ。
急いでその場から離れたくなった女将さんは、キッチンのカウンターに入ってゆき、夜の仕込みをしている亭主の耳を思いっきり引っ張っると小さく怒鳴った。
「愛想の無い客だよまったく。なんであんな客を入れたんだい!」
「そんなに責めてくれんなよ! 俺だって最初はきちんと断ったんだぞ!」
「ならばもっと強く断りなさいよ!!」
「そうしたかったんだけどよぉ、アイツと話してたら急に頭ん中がぼーっとしてきちまってよぉ、だんだんとアイツらが可哀想に思えてきちまったんだ。だって吹雪の中、何日もかけてテュービンゲンから歩いて来たって言うじゃないかよぉ! それに金さえ払えば俺たちの客だ! もう余計なことは考えんじゃねぇ!!」
五月蠅そうにあしらう亭主に女将は「お金なんかより……」とチラリとクラウンを盗み見する。いつの間にかクラウンは女将たちの方を向き、男の残したご飯を静かに平らげようとしていた。亭主も恐れていたあの赤黒い瞳に、女将も自然と震えあがっていたのであった。
兎に角このお客たちをどうにかして追い払おうと女将は悩み始めるが、それを邪魔するように玄関扉のベルが元気良く鳴り響いた。
「おはよーございまーーす! 今日の朝刊でーーす!」
呑気でありながらも明るい声で入って来た少年は、薄っぺらい新聞紙を大きく掲げて亭主の元へとスキップする。
ぶかぶかな風船帽に穴の開いた汚いジャケット。それよりも今の時刻は昼すぎなので朝刊にしては遅すぎるし、夕刊にしては早すぎる。それと彼の持つ新聞紙は普通の新聞紙よりも、くしゃっと寄れていて一度人の手に渡っていたものだと伺えられる。
亭主が定価の新聞よりも安い小銭を取り出すと、少年はサッとその手から小銭を奪い取り、代わりに古新聞を叩きつけた。
「まいど~!」
少年はさっさと小銭をカバンに詰めると、新たなお客を求めて玄関に向かう。しかしその途中、見知らぬ人が居ることに気がついた。
「へぇ~、お客がいるよ、珍しい。どこから来たの? まさか、春の市場を見にきたんじゃないよね? 残念! 今年は吹雪でそれどころじゃなかったんだ! せっかく来てくれたのに無駄足だったね。記念に新聞でも買ってくかい?」
一体何の記念なのかはさっぱり分からないが、随分と早口でまくしたててくる。
少年は新しく新聞紙を取り出して、クラウンの目の前にヒラヒラと左右に踊らせてみせた。
「あんたもいい加減そんなしょうもない仕事やってないで、定職に着いたらどうなんだい」
女将さんが呆れた声で少年に口出しするのだが、少年はのらりくらりとかわしてゆく。
「やーだよーだ。俺には夢があるんだよ」
「夢って言ったって、そっちの方が新聞売りよりもしょうもないもんだ。いい加減、現実を見て生きたらどうだい」
「そう簡単には辞められないよーだ」
しばらく新聞紙をクラウンの前で振ってみせたが、彼女は不思議そうに見つめるだけ。少年は諦めて商品をしまうと、クラウンの容姿を吟味する。
背丈こそは我々の知っている今のクラウンと変わりはないが、目つきも顔つきもだいぶ丸くて幾分幼く見えていた。髪型もザンバラ頭でぴょんと生えたくせ毛だけは健在で、服はダボダボのズボンをサスペンダーで止めるような、ある物だけでなんとかしのいでいる印象を受ける。
自分よりも年下だと考えた少年は、何か新しい企みを思い付いたのかニヤリと笑って彼女を誘った。
「お客さん、この後用事とかないんならさ、一緒に来てくれねぇか? 新聞買ってくれないなんだからさ、それぐらいは付き合ってくれよ!」
クラウンの腕を引っ張り宿屋を出ると、町の中心部にある広場へ向かう。
広場には残った雪をかき分ける大人が数人ばかりいるのだが、その隅には子供たちが小さな集まりを作っていた。
彼らは目の前の手作り感あふれる舞台を見つめているが、その下には【人形劇団復活の寄付金募集中】という垂れ幕が下がっている。
「よぉお前ら、お客さん連れてきたよ!」
少年はクラウンの腕を引いたまま舞台裏に顔を覗かせると、そこには彼と同い年くらいの少年が忙しそうに働いていた。
「遅せーよバロン、さっさと手伝えよ。お前の舞台だろ?」
「わかってるよ」
バロンと呼ばれた新聞配達の少年は文句を言った少年と入れ替わると、花壇の囲いに置いてあったトランクの中からある物を取り出し準備を始めた。
何をしているのか気になるクラウンは彼の手元を見ようとするが、文句を言っていた少年に腕を引かれて他の子供たちと同じようにきしむベンチに座らされる。
そして彼女を座らせた少年は舞台の中心に歩み寄ると、観客たちに挨拶をした。
「えー、紳士淑女の皆様、大変お待たせ致しました! 本日語りますは我らが故郷に伝わりし物語り。動物たちの楽しい宴、”ブレーメンの音楽隊”でございます~!!」
楽しく語る口述と共に、小さな幕が開かれる。少年はポケットからハーモニカ―を取り出すと、不器用ながらも愉快な音楽を吹きだした。