014 <青髭> ― Ⅰ
扉の奥に広がるは闇。光などはどこにもない。
そんな深い闇の底から屈強な腕が生え出ると、ドア枠を掴んで一人の男がのっそりと現れた。
顔の皮膚は年老いた幹のように険しく固まり、口や顎の周りには黒い髭を無造作に伸ばしている。
身なりは古い貴族のような格好をしているのだが、その右手に握られた大剣にはいくつもの戦場を渡り歩いてきた証拠が無数にも刻み込まれていた。
男は四、五キロばかりはしそうなその大剣をわざとらしく引きずると、部屋の中を横断する。
そしてクラウンが投げ捨てられた窓に近づくと、迷うことなく窓枠に足をかけて二階の高さから飛び降りた。
未だに庭の中に居座る<童話>たちは目の前の出来事に驚き呆けて、足をガタガタと震わせている。
彼らの足を縛っていた氷は解け始めており、いつでも自由に歩き出せる状態であった。
しかし彼らは一歩も動くことができなかった。今度はピアノ線のように張り詰められた空気の糸に首を絡み取られてしまったようだ。
男が一歩、一歩と<童話>たちの方へと近づいて行く。
このままではいけないと思った一人の勇敢な<童話>が、雄叫びを上げて男に勢いよく飛びかかった。
つられてもう一体、もう二体とヤケクソにも似た叫び声を上げて男に立ち向かって行くのだが、男は少ない動きで彼らの攻撃を避けてしまうと、大剣を一振り持ち上げて彼らの四肢をバラバラに切り刻んでしまった。
おもちゃの部品のように転がる手足。
勇敢な雄叫びも無様な悲鳴に変わり果て、己の実力をよく知る<童話>たちはその光景に考える暇もなく顔を真っ青に染めながらさっさとその場から逃げ出してしまった。
「あははっ! 何てことだ! どうしてアイツがあの鍵を持っている?! 確かに捨てたはずなのに!! しかしカールの奴め……、最悪だよ。何が教えてくれだ。これこそアイツの悲劇じゃないか!」
屋敷の上で白いコートをひるがえし、口数多くハウストを罵る先生がいる。
彼やハウストの悪魔たちは男が現れるやすぐに屋敷の屋根へと飛び乗ると、この惨劇をスポットライトの届かぬ客席から優雅に鑑賞しているのであった。
「あの男は最後まで彼女を救う気でおりました」
「しかし彼もまた、弱き人間の一人でしかない」
「それなのになぜ彼は死の間際に笑っていたのでしょうか」
「何故?」
三人の悪魔の疑問が重なりあい、互いに確認しようとするのだが、
「私達には分からない」
「あの男、カール・ディートマー・ハウストが笑っていたその意味を」
「私達は見守らなくてはならない」
「彼女の結末、その先を」
そう言うと三人は庭で暴れ回っている大男を好奇心ある目つきで見下ろしていた。
「僕にはその価値がわからないなぁ。アレを観察したところで何になる? 僕はお先においとまするよ」
先生は新たな目的を見出している悪魔たちを馬鹿にして、軽くつま先を打ち鳴らすとフワリと宙に浮き上がった。
そして飛び去る前にもう一度、庭の中の男を仇視して、一人夜風吹く不穏な曇り空の中へと消え去ってしまった。
先生の姿がすっかりと夜闇の中へと溶け込む頃、庭の入り口ではクラウンの悲惨な姿を見て固まっていたシャトンが、屈強な男を見るなり全身の毛を逆立てていた。
「あ……<青髭>ッーーーー!!!!」
牙をむき出し、おぞましいうなり声をあげて飛びかかる。
するとシャトンの身体を真っ青な炎が包み込み、その中から赤く燃え盛る炎のドラゴンが現れた。
庭に張られていた“黒馬の檻”がわずかに残っていたおかげで、シャトンは己の力を最大限に引き出すことができたのだ。
切り裂いた青い炎を踏み消して、炎のドラゴンとなったシャトンは怒りのままに<青髭>の腕に噛みついた。だが彼も他の<童話>たちと同様に、ズボンについた埃のように軽々と払い落される。
地面に叩きつけられたシャトンはすぐさま体勢を立て直し、もう一度<青髭>に向かって牙をむく。
何度も立ち上がるシャトンの他に<青髭>に楯突こうと思うものは誰もいない。
それはグリムアルムであるウィルヘルムも例外ではなかった。
「<青髭>……」
その忌み名を囁くだけで喉に息がつまりそう。
<青髭>が扉の中から現れた時からウィルヘルムは冷や汗をかくだけで、足を動かすこともできずに立ち止まってしまっていた。
だが事の重大さに気がついていない桐子が彼の元へと駆けつけて、深刻そうな顔をして聞いてくる。
「ウィル! クラウンがどこに行ったか見ていない?!」
彼女の必死な問いかけに、ウィルヘルムは声も出せずに怯えた目つきで応えを返した。
彼の無言の応えが信じられない桐子は小さく頭を左右に振ると、彼を置いて更に前、シャトンと<青髭>だけが戦い続けている戦場へと足を踏み入れようとした。
「よせ桐子! お前が行ったところで何になる?!! クラウンは<青髭>に取り込まれたんだっ! だから奴はもうっ!」 「嘘よ!!」
叫ぶように否定する桐子。それに合わせるように彼らの元へと弾き飛ばされたシャトンも怒鳴ってウィルヘルムの言葉を否定した。
「そうですとも! クラウン様があんなヤツに取り憑かれるわけがない! そんなこと……、そんなことがあってたまるものですかぁあ!!」
叫びながら<青髭>に飛びかかって行くシャトンの炎は、ボロボロに崩れて見るに堪えない姿となっている。それでも彼は何度でも、主であるクラウンを助けるために必死に戦い続けていた。
桐子もその姿に耐え切れず前に出ようとするのだが、ウィルヘルムがとっさに彼女の腕を引き戻す。
「やめろって言ってんだろ! お前があそこに行ったって、<青髭>に殺されてお終いだっ!」
「だとしてもクラウンを助けるには、あそこに行くしかないじゃない!!」
「……ッ! お前はどうして、そうまでしてあんな奴のために危険を冒そうとするんだよっ!」
「だってクラウンは私の友達だもの!! 友達がピンチの時に助ける理由って必要なの?!!」
強い意志を持った彼女の瞳が、ウィルヘルムの瞳を見つめ返す。
そのゆるぎない真っ直ぐな視線にウィルヘルムは掴んでいた彼女の腕を少しだけ緩めてしまった。それは彼女の心の声を彼自身がよく理解してしまったから。
しかし彼女がこれから相手にしようとしているモノは、史上最低の<童話>と呼ばれている<青髭>である。
ウィルヘルムも幼少の頃から<青髭>の恐ろしさを散々大人たちから聞かされてきた。そう簡単に彼女の腕を離すつもりは微塵もない。
「そんなこと、簡単に言うけどよぉ、<青髭>を封印しようとしたグリムアムルは三人、それもみんな失敗して死んだんだっ! その相手を主人がいない<守護童話>と、<童話>に取り憑かれただけのお前がどうやって倒すっていうんだよ、おい!!」
「それは……」
「いいからここは一旦引くぞ、来い!」
もう一度桐子の腕を強く掴み直し、ハンスのいる庭の外へと引っ張り出そうとする。
先まで頑なに拒んでいた桐子の足も“グリムアルムを三人も殺した<青髭>”の事を知ると、少しだけぐらつき始めていた。
本心こそはクラウンを救おうと熱くたぎっているはずなのに、素人目から見ても歴然であるシャトンと<青髭>との力の差に迷いが出始めてしまったのだ。
飽きずに挑み続けているシャトンに向かって<青髭>の剣が振るわれる。
シャトンの赤い炎がまた一片、男の刃に斬り落とされるが、彼は怯むことなく<青髭>の喉元を狙って大きく口を開いて飛びかかった。
しかし彼らの間に重厚な扉が地面から生え出てると、シャトンの猛撃を喰い止める。
その扉は<青髭>の影から召喚されたもので、盾のように男を守っていた。
扉にぶつかり、勢いあまって弾き返されたシャトンの反対側で男は扉から新たな剣を取り出した。
そして扉の陰から素早く飛び出し、不意打ちを喰らって目を回しているシャトンの首目掛けて新たな剣を振り下ろす。
なんとか回していた目で<青髭>の姿を捉えたシャトンは、急いで転がり逃げ切る。が、彼がもう一度立ち上がった時、そこには両手に武器を構える<青髭>の姿が映っていた。
絶望的な状況である。今から桐子たちがハンスのところに戻って策を練ったとしても、解決の糸口が見つかる気がしない。
自分はこのまま何もせず、クラウンを見捨てる事しかできないのか。
自分を信じて助けを求めにきてくれたシャトンを裏切る事しかできないのか。
辛い、悔しい、苦しい。と、自分の不甲斐なさに何度も苛立ちを覚えてきたが、これほどにももどかしい気持ちになったことはきっとない。
血が出そうなほどにきつく唇を噛み締めて、桐子本人も気付かないうちに恨んだ瞳で<青髭>のことを睨んでいた。
何かが彼女の背中を押せば、きっとすぐにでも駆け出す準備はできていた。
それが分かっているとでも言う様に、立ち止まったままぐらついている彼女の足に白いイバラが絡みつく。
なんと<いばら姫>が彼女の背中を押したのだ。
本当は桐子の<青髭>に対する憎しみに反応しただけにすぎないのだが、それが彼女の心に火をつけた。
「智菊の時みたいにさ…………、クラウンだけを引き剥がすことは、できるんじゃないのかな?」
そんな突拍子もない提案に、ウィルヘルムは驚きの声を上げてしまう。
「!! お前、なんて馬鹿なことをっ!!」
「<青髭>が祓えないのなら、そうするしかないじゃない! 早いほうがいいのでしょう? だっだら今すぐにでもやらなくっちゃあ!!」
再び闘士の意志を燃やした桐子は、ウィルヘルムの腕を振りほどき、急いで<青髭>の元へと駆けて行く。
幸い<青髭>はシャトンの相手をするのに忙しく、桐子のようなひ弱な存在に気付いてはいない。
激しい戦闘の衝撃で、飛び散る瓦礫が彼女の手足に突き刺さる。痛みに何度か声が上がりそうになるのだが、クラウンの苦しみを思えばなんともない。
更に戦場へと近づけば、より一層激しくなる衝撃波に何度も足をくじきそうにもなっていた。今も彼女のすぐそばで、弾き飛ばされた瓦礫が吸い付く様に襲ってくる。
だがもう彼女が恐れる心配はどこにもない。なぜなら彼女の視界いっぱいに黒いマントが広がって、優しく桐子の身を守ってくれたから。
「っ、くっそー!! おい猫! お前は桐子のサポートをしろ! <青髭>の相手は俺がする! おい桐子! あのバカをさっさとつれて帰ってこい!!」
桐子にとって最も頼れる少年が、彼女の盾となって立っている。
彼だって十分怖いだろうに、これ以上にない希望となって輝いていた。
「う、うん!」
更なる強い意志を受け取って、桐子はウィルヘルムの横をすり抜ける。そしてついに<青髭>の立つ戦場へとその小さな足を踏み入れた。
ようやく桐子の存在に気がついた<青髭>が、風を仰ぐ様に剣を振って彼女を打ち負かそうとする。のだが、その一瞬の判断の隙にシャトンがスルリと<青髭>の背中によじ登る。
長くて鋭いシャトンの爪が深々と男の肩に喰い込んだ。慌てた様子で<青髭>は右手の武器を手放すと、シャトンの翼を手荒く掴んで乱暴に剥がすと荒れた地面に叩きつけた。
滲み出す怒りの眼光で見失った桐子を探そうとする<青髭>だが、今度は何処からか現れた猛獣に重たい一撃を喰らわされそうになっていた。
ウィルヘルムも“黒馬の檻”を利用して<夏の庭>を発動させたのだ。
手放した剣を器用に足で弾き上げ、背後から襲いかかってきた猛獣の拳を受け流し、両手に構えた二本の剣を猛獣の背中に突き刺した。
だがすでに猛獣の姿はどこにもおらず、かわりに空っぽのマントを裂いている。
驚く<青髭>の目の先には、大剣の陰に隠れた少年ウィルヘルムの姿だけが存在していた。
しかし彼の目には<青髭>なんぞは映っておらず、視線の先にはまっすぐに走り続けている桐子の後ろ姿だけが映っていた。
そこで彼らの目的に気がついた<青髭>は、急いである物の方へと体をひるがえす。
そこには<青髭>が盾として召喚した重厚な扉が建っていた。
桐子と扉の距離はあとわずか。
急いで扉に閉まるようにと命令を送る<青髭>だが、それよりも早くウィルヘルムが這わせた細長いツタが閉まる扉に絡みつき、無理やりに扉をこじ開けた。
「今だーーっ! 入れーーーーっ!!!!」
ウィルヘルムの声に押されて桐子は扉の中へと飛び込んだ。
その後すぐにツタの千切れる音がいくつも鳴ると、破裂する様な音をたてて扉が固く閉ざされた。
自分の城からどうにか異物を取り出したい<青髭>は、肩を怒らせながら静かに扉へと近づいて行く。しかし今度は扉の前に太い幹の木が生え出てきて、完全に<青髭>の侵入を拒んでしまった。
<青髭>の後ろにはグリムアルムのウィルヘルムと、手負いではあるが<消された童話>のシャトンが睨みを効かせて立っている。
自分の邪魔をする小さな侵略者に<青髭>は無言のまま彼らの方へと振り向いた。
両手には醜い大剣が握られたまま。そして静かに剣を構え直すと、<青髭>は正式に彼らに決闘を申し込んだ。
* * *
その頃<青髭>の城へと転がり込んでいた桐子はそのまま、地面にばったりと倒れていた。しかし鼻を刺す惨たらしい鉄の臭いに顔をしかめて起き上がる。
目の前には赤錆びた大砲が何台も口を揃えて並ばされており、壁には用途によって使い分けられている沢山の斧や剣が飾られていた。
小さな窓からは淡い光が射し込んでいるのだが、武器庫の中は薄暗くて気味が悪い。
「クラウーン!」
立ち上がって辺りを見渡す桐子。石造りの小さな部屋に彼女の声が反響する。
この扉もクラウンを閉じ込めた扉と同じ能力ならば、きっと彼女もここにいるはずだ。そう思っての浅はかな賭けだったが、こだまする桐子の声が部屋の隅に吸われていくのを耳にした。
そこには暗くて湿った通路が待っていた。
どこまで続いているのか分からないこの通路の先にクラウンがいるという保証はどこにもない。それでも外で戦っているウィルヘルムやシャトンのためにも桐子は壁に手を当てて、深い闇の中へと潜って行った。
……
………………
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水の滴る音が聞こえている。
鍾乳洞のように湿った部屋に錆びついて使い物にならない鎖の山がいくつも小さく積まれている。天井からも何本か錆びた鎖が吊るされており、水滴を一定の感覚で滴り落としていた。
周りには誰の気配も感じない。
しかし部屋の片隅に白いドレスを着たクラウンが、両手を吊るされた状態で鎖の山の上に座らされていた。
鎖の下には赤い水が浸かっており、ドレスの裾を花びらのように染めている。
[ここはいったいどこだろう。くらい、くらい、闇の中。そうだ、これはきっと夢の中だ。オイラは夢を見てたんだ]
途端に一筋の光が差し込んで、スポットライトのように彼女の夢を映し出す。
吊るされたクラウンの目の前を、ざんばら頭の幼いクラウンが横切った。
背丈こそは今と変わりないが、目つきも顔つきもだいぶ丸くて幾分幼く見えるだけなのかもしれない。
襟足の切り揃えは最悪だが、ぴょんと生えたくせ毛は健在だ。
ダボダボのズボンをサスペンダーで止めてなんとかしのいでいる。
とにかく彼女は石壁に囲われていたと思っていた部屋の中から、いくつもの扉を見つけ出しぐるぐると歩き回っている。
そのうちひとつの扉に近づいて、様子を見るように少しだけ扉を開いてみせた。
扉はため息をつくように、生ぬるいそよ風を吹きかけて、彼女の前髪を撫でてゆく。
[これはいつだか見た石のお城の夢で、オイラはまだ何にも知らないお子ちゃまだ。お城に光を入れようと沢山の扉を開けたっけ]
一つ二つと扉が開き、真っ暗闇だったお城の中は薄明るい光で満たされた。
最後に残った扉を開ければ、きっとお城の中は暖かな光に溢れるだろう。
だけどもこの扉は最後まで開くことは決してなかった。
―― トン、トン、トン。
「誰かいますか?」
返事はない。しかし扉の奥に大きな気配が感じられる。
―― トン、トン、トン。
「誰かいますか?」
鍵穴を覗いたり、耳をすましたり、口をつけて質問するが、返事は一向に返ってこない。
あと少しで全ての扉が開くのに。
クラウンは諦めずに扉に手を添えると、捻くれた声で囁やいた。
「もしも誰かいるのなら、オイラのお話、聞いてはくれないか?」
◆ ◆ ◆
殴りつけるような猛吹雪の中、歩き続ける男に抱きかかえられてクラウンはうっすらと目を覚ます。
これは初めて見る世界ではない。
これはハウストが最後の力で発動させた”黒馬の檻“の記憶の中だ。
まだ誰かも知れぬ人に抱えられたクラウンは、男の顔を確認するためにぎこちなく顔を上げてみせる。
太陽の巻き毛に黒曜石の瞳。
白いコートを着たあなたは誰?
そうだ、確かこういう人の事をこう呼ぶんだ。
「天使……さま……?」
その声は風の音でかき消され、男の耳には届かない。
彼は静かにフラフラと歩みを進めるだけだった。