013 <名付け親> ― Ⅴ
その頃上空では誰よりも早く図書館を飛び立っていたウィルヘルムが、<童話>の力を使って屋敷の近くへと迫っていた。
天高く昇り立つ<童話>の悪臭に、カラスの姿をしたウィルヘルムも思わず顔をしかめてしまう。
「なんだ?! 獣くせぇ!! あの屋敷か!」
深い闇夜に沈んだ中でもクラウンの戦う姿がよく見える。
突進してきた山賊を受け流しつつも、別の茂みから飛び出してきた猛獣を振り上げた剣で突き刺した。
死体の肉に刃を奪われようとも、他の<童話>から奪った武器を器用に使いこなして次々と<童話>たちを傷つける。
どうやら青い炎の街灯は<童話>の力を増幅させる能力を発動しているようなのだが、その恩恵を最も受けていたのはハウストの<童話>たちではなく、クラウンに取り憑いている<童話>であった。
本来ならば苦労して倒すべき相手も、彼女は花を摘むようにいとも容易く斬り捨てゆく。
自分の何倍もある巨大なグライフが襲い掛かってきても、彼女は足元に潜り込んで鷲の前足を切り落とす。倒れてくるグライフの下敷きになる前に滑るようにして陰から飛び出すと、翼の根元を捕まえて軽々とハウストたちのいる二階の窓へと投げ飛ばした。
受け身を取る暇もなく壁に叩きつけられたグライフは、一部の壁と窓枠を突き破り、己の敗北を認めて紙の束へと戻り散った。
だいぶ老朽化の進んだ屋敷ではあるのだが、壁を突き破る程の力をただの人間が出せるとは到底思えない。
同じように<童話>たちは次々と斬り捨てられて、悲鳴をあげる間もなく紙と散る。
その動きには無駄がなく、すべてが次の動きに繋がっていた。さながら恐ろしくも美しい死の舞踏。
怖じ気付いて逃げ出す<童話>さえも彼女は決して見逃さない。地面に落ちていた弓矢を足で拾い上げると、瞬き一つせずに彼らの背中を射抜いてしまう。
そのあまりにも残虐すぎるおこないに、ウィルヘルムは怒りをあらわにした。
「クラウンーーーーッ!!!!」
空中で<カラス>の能力を解いたウィルヘルムは瞬時に<夏の庭>で木の剣を作り上げると、落下の勢いに任せてクラウンの頭上へ振り下ろす。
空から降って来る殺気に気が付いたクラウンは、虚ろな顔のまま自分の剣を抜き取ると、振り上げた剣でウィルヘルムの攻撃を迎え撃った。
二つの刃が交わり合い、剣戟の音が鳴り響く。
お互い一歩も譲らない怒涛のせめぎ合いに周りの誰もが震えあがった。
刃は激しい火花をまき散らし、二人の力を見せつける。
だがウィルヘルムの剣が先に悲鳴を上げてしまうと、木の剣は上下真っ二つに砕け散り、ウィルヘルム共々弾き飛ばされてしまった。
力のままに吹き飛ばされたウィルヘルム。彼は間髪入れずに姿勢を立て直すと地面に手をつき、<夏の庭>を発動させる。
固い土を突き破り、巨大な木の根が這い出てくる。木の根は一直線にクラウンの元へと向かってゆくと、彼女の体を締め上げた。そして逃がさまいと何重にも重なり合い彼女の体を押し潰す。
随分と荒業になってしまったが、これぐらいのことをしなければ彼女の動きを封じることができなかった。
しかしその拘束も一瞬にして氷の中に閉じ込められると、弾丸を受けたように砕け散って、中から無傷なクラウンが現れる。今度はクラウンが冷気を操って辺りを氷漬けにしてしまったのだ。
庭は氷の地獄と化してしまい、地を這う<童話>たちは足を捕らわれて痛々しく赤い血を流している。
「……ッ!! やめろーーッ! 俺の<童話>をそんな乱暴に使うなっ!!」
思入れ深い<冬の庭>で非道な事をするのは心が痛む。
だがクラウンの元にはウィルヘルムの声は届いていない。彼女は屋敷に空けた穴に向かって氷柱を階段のように並べると、<童話>たちにも目もくれず一心不乱に駆け上って行った。
ウィルヘルムも追おうとするのだが、彼の足も氷に捕まってしまい動けない。
マントの内ポケットから六枚の黒い羽根を取り出すと、クラウンに目掛けて鋭く投げた。
羽根はたちまち六羽のカラスに変形すると、彼女を止めようと追いかける。しかし彼女からあふれ出す冷気によってカラスたちはクラウンに触れることなく氷漬けにされて落とされてしまった。
そしてついに氷の階段を上り切ったクラウンは、グライフで開けた大窓から再度部屋の中へと舞い戻る。
クラウンの戦いを見守っていたハウストは、優しいお爺さんの顔を取り戻し、柔らかい言葉使いで彼女に聞き直した。
「どうした? 帰ったんじゃないのか? それとも先の質問に答えてくれる気になったのかい?」
ハウストの質問にクラウンは無言を貫いている。
それどころか食卓に飛び降りていたクラウンは、足元のご馳走をぞんざいに蹴散らしてハウストの前まで歩いてきた。
「私は何も難しいことを聞いているわけではない。君の口から君の言葉を聞きたいだけなんだ。その空っぽなお頭で考え抜いた精一杯の本心を」
次第に低くなっていく老人の声が彼女の心を揺さぶろうと責め立ててる。
しかしそれでもクラウンは口を開かない。
ハウストの後ろに戻ってきた三人目の悪魔がクラウンの動きを睨んでいるが、ハウストは左手を小さくあげて彼らに手出し無用と合図する。
「そうか、君はその程度の人間だったのか。がっかりだよ。君は一生ローズのままでいるのだな」
ローズのまま。
そのハウストの言葉にクラウンの動きがピタリと止まった。
彼女は自分がローズだと呼ばれるのが心底嫌いな子であった。
それなのに今の自分をハウストはローズのままだと言っている。
「オ……、オイラは……」
小さく震える唇から、彼女の声が微かに零れた。
動きを止めるクラウンの背後に先生の視線が冷たく刺さる。
丁度その時、屋敷の入り口の方では桐子とハンスが遅れて屋敷にたどり着いていた。
長い時間<童話>に触れて我慢の限界が来てしまったのだろう。ハンスは目的地に着いた途端、<童話>の力を解いてしまう。
二人はぬかるんだ地面に転がり落ちるが、桐子は急いで起き上がった。
「ハンスさんっ!」 「早く行きなさい!!」
相当無理をしていたのかハンスは泥の中で起き上がることもできずに、顔だけを桐子に向けて声を荒げてきた。開ききった瞳孔が桐子を凝視し、怒鳴り声でなんとか彼女の背中を押そうとしている。
桐子も彼の努力を無駄にはしたくない。
後ろ髪を引かれる思いをしながらも、ハンスを置いて一人屋敷の玄関へと駆けて行く。
その途中、庭の入り口で固まっているシャトンの後姿を見つけた桐子は、クラウンがいるのかと彼のそばに駆け寄った。しかしシャトンはある一点を見つめるだけで、恐怖のあまりに固まっている。なんとそれは彼だけでない。庭にいる全てのモノが、恐怖を目に宿してある一点に集中していた。
何も知らない桐子は一緒になって屋敷の二階へと目線を合わせる。
するとそこには老人に向かって剣を振り上げるクラウンの姿が、桐子の瞳に映ってしまった。
「クラウンッ!!」
反射的にクラウンの名前を叫んでしまった桐子。彼女の声もクラウンの元には届いていない。
シャトンを退いて何度も叫びながら凍てつく庭へと飛び込むが、老人を傷つけようとする彼女を止めるにはいささか遠すぎる。
何度も何度も下から叫ばれる桐子の声に、ハウストは面白そうに小さく笑っていた。
そして曇ったクラウンの瞳を見つめて何かを語りかけるように目を細める。
まるで桐子とクラウンの関係を知っているかのように優しい瞳で。
しかしその行動がクラウンをさらに追い詰める。
まるでローズの呪縛から逃れられない自分をアザケ笑うかのような瞳で。
相反する思い違いに顔を歪め始めるクラウンは、もう我慢の限界だとでも言うように腕を小刻みに震わせ始めた。
「オイラは…………ローズじゃないッ」
からくり人形の伸びたバネが元の位置に戻るように、クラウンの腕が振り下ろされる。
早くこの騒音を収めたい。
しかしハウストは左手にあったランタンの杖をとっさに構えると、最後の力を振り絞って彼女の剣を止めようとした。
すぐにでも消えそうなほどに弱々しく燃えていた青い炎が力強く燃え盛り、クラウンの目の前を一瞬にして青い炎の海へと沈めてしまう。だが悲しいかな、老い過ぎたグリムアルムの力では彼女の力を受け止めることはできなかった。
クラウンの振り下ろされた大剣があっさりとランタンの杖を叩き割ると、そのまま老人の身体にも容赦なく斬り付けられる。
土砂降りの雨のように撒き散る鮮血。
最後まで灰色かかった瞳には、操られたクラウンの哀しい姿が映っていた。
だが彼は満足そうにうっすらと微笑みを浮かべて倒れてゆく。
壁際に並べられた大量のロウソクのうち、短いロウソクだけが風もなくふっと静かに消えてしまった。静まり返った部屋の中、先生は安心したように瞼を下ろしてゆく。
一体何が起きたのだ。
目の前の出来事に理解が追いつかない桐子やウィルヘルムたちはただ呆然と立ち尽くしていた。
そんな中、ようやくシャトンが「クラウン様……」と、か細い声で憐れむように呟いた。
ハウストを殺すという使命を終えて顔を上げたクラウンは、何も考えていない、感じていない、真っ新な無表情を貼りつけている。
夜の森のように暗い髪にビスクドールの透き通った白い肌。
そして血のように赤黒い瞳からは一筋の血の涙が溶け出して、彼女の大切な、桐子からもらった金の鍵のネックレスに滴り落ちる。
すると突如、鍵が冷たく鋭い輝きを解き放ち、クラウンの影を細く長く伸ばし上げていく。
伸びた影は壁にぶつかり屈折すると、大きな扉に変形した。
お城の門のように重々しい木製の扉が低い音を立てながら開かれると、そこには何もない、墨で塗りつぶしたような真っ黒い空間が広がっている。
だがその空間から赤錆びた鎖が勢いよく飛び出すと、クラウンの首に絡まりついた。
無抵抗のままのクラウンを、鎖は力任せに扉の奥へと引きずり込んだ。
何か嫌な予感がする。ザワザワと全身の毛を逆撫でられる狂気に触れられて、その場にいる誰もが悔恨と畏怖の念に襲われてしまった。
そしてその扉の正体にいち早く気がついたウィルヘルムが、思わず声を引きつらせて言う。
「おい……、おい、おい、おい! これは一体なんなんだ?!! なんてもんを取り憑かせているんだっ! クラウンッ!!」
人々が注目する扉の奥、深い闇の底から太い腕が生え出てきたかと思うと、今度は青い髭を蓄えた血臭い男が現れた。
<つづく>