013 <名付け親> ― Ⅳ
そこには一人の青年が街灯のように突っ立っていた。
赤髪くせ毛の黒い悪魔、シュヴィンデルである。彼は相変わらず目元を伸びた前髪で隠しており、表情がうまく読み取れない。
「ハンス様、大変長らくお待たせ致しました」
彼は律儀にお辞儀をするが、ハンスは嫌悪感丸出しな顔をして悪態を吐くように質問をする。
「何を企んでいるの?」
「全ての準備が整いました。こちらの本はお返し致します」
そう言って彼は自分の背中に腕を回すと、あの赤いグリム童話集を取り出した。
ハンスはそれを見るや目を見開いて、あからさまに驚く表情をするのだが、何か罠があるのではないかと警戒した目つきになってそのまま悪魔を睨み直した。しかし悪魔は本を差し出したまま動かない。
恐る恐ると近づきつつも素早く本をかっさらい、ハンスは急いで中身を確認した。
<雪白姫>や<若い大男>。他にも何枚か破れたページが残っているが、紛れもなくそれはグリムアルムの童話集である。
ハンスは長く続いた不安から解放されて、安堵感に浸かりながらその本を強く抱きしめた。それを見たシュヴィンデルは、特に何も表情を変えずに一歩後ろへ下がって行く。
「それでは失礼致しました」
彼はもう一度丁寧なお辞儀を済ませると、そのままバク転するように自分の体を折り曲げた。
体は手紙のように小さく折り畳まれて、これまた小さな化け物に変身する。
見た目こそはカナヘビのようではあるのだが、背中にコウモリの羽が生えており、頭には天使の白い輪っかの模様が入っている。だがこの化け物が何よりも不気味だと感じられる所は、顔と呼ばれる部分に大きな目玉が一つだけしかついていない所である。
黄金に輝く一つ目がぎょろりと天を仰ぐと、薄い羽を羽ばたかせて夜空の中へと昇って行った。
悪魔の飛んでいく後ろ姿を呑気に見送る桐子をよそに、ハンスは隣でとあるページをめくっていた。
求めていた<童話>がいることを確認すると、彼は本を持っていた腕を伸ばして呪文を唱え始めている。
「ホークス ポークス。私の呼びかけに応えたまえ!」
暗くて狭い広場の中を薄汚れた光が支配する。
輝いたページの中から光が歪な形を作り出しゴム風船のように膨れ上がった。風船は馬のシルエットに変わり始めると大きく仰け反り、本の中から出てこようと必死に前足をばたつかせている。
ハンスも<童話>の重みによろめきながら、彼が出てくるのを耐え続けていた。
馬の前足が地面につくと、あとは引き抜くように後ろ足までするりと本から飛び出した。
光は収まり、召喚された青黒い馬はハンスの方に振り向き直すと、深々と彼にお辞儀をする。
馬の鼻を撫でたハンスは慣れた動きで可憐に馬に飛び乗ると、手綱を引っ張って大通りに向かうように指示を出した。
「待ってください、ハンスさん! 私も! 私も一緒に行きます!」
彼らが向かう道の前に、両手を大きく広げた桐子が立ちはだかる。ハンスは冷めたく彼女を見下ろすのだが、桐子の方がより強い眼差で彼の瞳を見つめ返した。
今までこのお節介焼きで頑固な娘を何度止めようとして失敗したことか。ここで言い争っている暇もない。進まない顔をしながらも、ハンスはスッと桐子に腕をさし伸ばした。
「乗って。落ちないようにしっかりと掴まるのよ」
引き上げられた桐子はハンスの前に深く座ると、鞍にしっかりと掴まった。
初めて乗った馬の高さに少々怖気付いてしまうのだが、こんなところでビビっていては先が思いやられるというものだ。キリッと眉毛を釣り上げて、使命にかられるように前を向く。しかし前を見た桐子はとあることに気がついた。
図書館がある場所は小さな路地が入り込んだ袋小路の中。つまりは大通りへと続く道は全て細くて、狭くて馬が通れるような場所ではない。
そんな所から一体どうやって外に出るのかと思った瞬間、ハンスは勢いよく手綱を打って黒馬に走るようにと促した。
「うわっあ!!」
思わず間抜けな悲鳴をあげる桐子。走り出した馬は細い路地に向かって突進する。目の前は荒いレンガの建物だ。ぶつかるっ! と思わず瞼を固く瞑って全身を打つ衝撃に身構えるのだが、いつになってもその衝撃は襲ってこない。
風を裂く音に瞼を開けば、馬は壁の間をすり抜けて大通りの上を走っていた。
石畳に響く馬のヒズメは通りを歩く若者たちに誰一人として届いていない。
「他の人たちには……見えていないんですか?」
「二足歩行する猫や地面から飛び出す大蛇を指摘してきた人が今までいた? この子たちはとっても賢いから、私たちの姿も普通の人から隠してくれるのよ」
そう説明したハンスは辛そうに脂汗をかきながら、もう一度手綱を振るい打つ。
彼らは最も近いアウトバーンに飛び乗ると、夜空をも飛び越える勢いでどんな車よりも風よりも早く、目的の地へと駆け続けて行った。
* * *
「先ほど君は彼女に能力を使ったね。それを見てある事を思い出したよ。君はローズの家にいた下男にそっくりだ」
場面はハウストの屋敷の中に戻ってゆき、晩餐会場を映し出す。
裏庭では<童話>たちが圧倒的な数でクラウンに挑み続けているのだが、先生は気にせずハウストの方を向いていた。
「顔つきはすっかり別人になってしまったが、憑いている<童話>が同じだ。率直に聞かせてもらうが、君はあの時の下男本人で間違いないな?」
「あの時とは?」
「1943年、プフルーク家で保護されていた<童話>憑きの男だよ。アレは君で間違いないな?」
しばらくの沈黙が続いた後、諦めた。っというよりかは、この時が来るのを薄々と感づいていた。とでもいうように先生は力なく「あぁ、そうだよ」と認める言葉を吐きだした。
「どうりで君とあの子の記憶を探ろうとして悪魔を差し向けたのに読み取れなかったわけだ。つまりは君は、もうすでに<童話>になってしまったというわけだな」
「違う、僕は人間だ」
「何が違うだ。人間ならばお前は私以上に歳を取っていなければおかしいだろうが。誤魔化したって無駄だ。時間の流れには誰も逆らえられない」
確かにハウストの言う通り、彼らが1943年に一度会っていたというのならば、先生も歳を重ねていなくては辻褄が合わない。今の西暦は2012年。それなのに彼の外見はどう見繕っても三十半ばの青年だ。若作りにしては気味が悪すぎる。
「結局彼女は自分で祓うと大口を叩いていたのに、出来ず終いで死んでしまったというわけか」
「誰のせいだと思っている? お前やフェルベルトが見捨てさえしなければ、ローズは助かっていたかもしれないというのにッ」
「勘違いするな。私たちは決して彼らを見捨てたわけではない。駆けつけた時にはもうすでに遅かったのだ。
君も復讐に燃えるのはいいが、無関係な子供を巻き込むのはよくない。だって可哀想だろ? 手伝ってあげるから彼女を早くお家に返しなさい」
そこで先生はピクリと動きを止めて
「カール……、お前、まだ分かってないな?」
と不気味な笑顔を浮かべてみせた。
それはまるで隠し持っていたおもちゃを取り出して自慢するように。
だが警戒するような掠れた声で囁いた。
「アイツこそが本物の”化け物”だ」
「君はまだ何か、あの子に隠し事をしているようだね」
「何も。ただ、アレに本当の事を聞かせたくないだけだ。だってそれこそ可哀想だろ?」
「何が可哀想だ。自分の理想だけを押し付けて、まるでローズの二の舞……」
ローズの二の舞。
そう言った自分の発言にハウストはハッと瞼を小さくあげて
「そうか……、そういう事か……」
と何かに深く納得をしていた。
「だがそれで苦しんでいるのは君自身ではないのかい?」
先生はハウストの言いたいことがわからず黙ったまま。
しかしハウストの方は先生の本当の目的が分かったかのように、次々と疑問を投げかけてくる。
「君がやっている事はローズの意思に反しているのではないか? そんな事をして大丈夫なのかい?」
「アレはローズじゃない」
「いいや、あの子はローズで間違えない。なぜなら君がそうしているから」
まるで無理矢理自問自答をさせられているかのように、心の奥深くを抉り出す。
先生はハウストの言葉を聞き流しながらも、渋い顔をして窓の外へと視線を落としていた。
庭の中では今もなお、クラウンが沢山の<童話>たちとおどろおどろしい戦いを繰り広げている。
その姿にローズの姿が一瞬でも重なったのか、先生は眉をひそめながら静かに瞼を下していた。