013 <名付け親> ― Ⅱ
グリムアルムの本拠地である図書館から北東に離れた遠くの土地に廃れた村がかろうじてあった。
雲行きは怪しく、どこよりも早い夜が訪れる。星の輝きはどこにも見えず、月も隠れた完璧な闇が広がっていた。
そんな暗闇の村を二つの影が歩いてゆく。ぬかるんだ道が彼らの足にまとわりつき、腐って崩れかけた橋が行く手を拒んでいるのだが、彼らは立ち止まることなくその足を動かし続けていた。
橋を渡り終わればもう一度、歩きづらい道が彼らを止めようと鬱陶しく伸びている。
しかしその道も終われば目の前に古いお屋敷が現れた。
屋敷を取り囲む砂利道には一本も雑草は生えておらず、背後に並ぶ雑木林も隅々まで手入れが施されている。それでも古いお屋敷はおどろおどろしい雰囲気を垂れ流していて、廃墟だと言われれば誰もが信じて疑わない風貌をしていた。
白いコートを着た男がポケットから招待状を取り出すと、印が入った地図と周りの地理を確認する。どうやら目的の地はここで合っているようだ。
埃はないが古めかしい玄関先に立って呼び鈴を鳴らそうと腕を伸ばす。しかしその前にガチャリと大きな音を立て扉がゆっくりと開かれた。
「お待ちしておりました。クラウン様」
そこには赤髪くせ毛の悪魔、エアケルテットが無表情のままに立っていた。
彼はマニュアル通りの律儀なお辞儀を済ませると、壁沿いの階段を上り出す。
慣れない雰囲気に足がすくんでしまったクラウンは、隣に立っている先生に助けを求めるように目配せする。だが彼はただ真っ直ぐに、目の前に伸びる廊下だけを見つめていた。
まるで、それぐらい人に聞かずとも分かるだろうとでも言うように。
突き放されたクラウンは、のどに詰まった固い息を呑み込むと、覚悟を決めてエアケルテットの後について行った。
二階の奥から蓄音機のガサついた音が聞こえてくる。だけどもどんな曲なのかはまだわからない。
エアケルテットのピンヒールが階段を上るたびに高い音を立てている。まるで囚人の隣を歩む処刑人のように。
二つの音が沈黙の中で交わると、クラウンの恐怖心を無闇に掻き毟る。
しかし怖くても先に進まなくてはいけない。と、彼女は懸命に自分を奮い立たせていた。
力を込めてもう一段、止まりかけていた足を無理やりに階段にかけてやる。
すると何処からともなくクスクスっと、話しかけるような声が聞こえてきた。
驚き、後ろを振り向くが、そこには先生だけが立っている。帽子越しで表情は見えないが、クラウンが立ち止まったことに苛立ちを覚えているようだった。
彼には何も聞こえていないのか。疑問が頭につくのだが、先を行くエアケルテットに取り残されてはいけないと、急いでもう一段、更にもう一段と二階に向かって足を運ばせた。
『ようこそいらっしゃい』
『こんにちは、こんにちは』
次第に幻聴は鼓膜に張り付くようにはっきりと聞こえだし、ますます彼女を追い詰める。
階段の隅には人の頭や指先が転がっているような気がしたのだが、それらはカブや箒などの何の変哲もない物でもあるかのような気さえした。
上の段から滴り落ちる水からは鉄の温かい香りが漂ってきたかと思っていれば、水なんてものは全く零れていなかった。
幻覚さえも酷く見えてきたクラウンは、どうにかなってしまいそうだと気持ちが大分滅入っていた。
早く終わってほしいと強く願い、両瞼を瞑りながら俯き、足早に階段を上って行くと、あるところでぱたりと音が、蓄音機以外聞こえなくなっていた。
恐る恐ると瞼を開ければ、階段を全て上り切っていた。
目の前には一階同様どこまでも続いていそうな長い廊下が伸びている。
エアケルテットがその廊下の三番目の扉を重々しく開いてみせると、蝋燭の温かい光が溢れてきた。
「やぁどうも、遠いところからご苦労さま。あぁ、保護者もついて来たのか」
大きな部屋に通されたクラウンは、目の前に並ぶご馳走の量に思わず吐息を漏らしてしまう。
そのご馳走が並ぶ食卓の奥には白髪の老人が座っていた。
老人の左手には街灯のようなランタンの杖が立てかけられており、ランタンの中には青い炎が小さくゆらゆらとなびいている。
老人の背後、部屋の奥に置かれた蓄音機から愉快なクラシック音楽が流れ落ち、
クラウンたちが入ってきた扉とは別の扉から、青いシャツを着た赤髪くせ毛のシュットルフロストが、配膳台を押して部屋の中へと入ってきた。
彼は新しいご馳走を手に取ると、食卓の上に置いてより華やかな晩餐会を演出する。
「この子は今、謹慎中なんでね。勤務外は私の同行が必要なんだ」
クラウンの後ろについていた先生が彼女の肩に手を乗せて、嫌みたらしく老人に言う。
しかし老人はどうでも良さそうに食卓の上で腕を組むと、クラウンだけを見つめていた。
「まぁよい。ようこそクラウン。私が医師のグリムアルム、ハウストの名を継ぐ者だ。今日は堅苦しいことなく、楽しく食事でもしようじゃないか」
どうやら彼らはクラウンたちと争う気はなく、愉快な晩餐会を楽しみたいだけのようだ。
ご主人様の言葉を合図に、エアケルテットがゴブレットグラスに水を注いで客人たちに振る舞った。
今は大人しい青年たちだが、その正体が<童話>の悪魔だと言うのだからハウストの力は侮れない。言葉通り悪魔を顎で使うだなんて、並なグリムアルムでもできない事。良い顔をしていても、裏で何か企んでいるのではないかと嫌でも疑ってしまう。
ハウストは左手でグラスを持つと、乾杯するように小さく掲る。しかし先生は何も手をつけず、ハウストの微笑みだけを鋭く睨んでいた。
「単刀直入に言う。<童話>を返せ」
「返せ? 君はいったい何を言っているんだ。この<童話>は元々私たちのものだよ。
それに、今日招待したのは君ではなく、そこのお嬢さんだけのはずなんだか。君にとやかく言われる筋合いはない」
先生の言葉を聞く耳持たずといったハウストの傲慢な態度に、たじろいでいたクラウンが腹を立てて噛みついた。
「! コイツッ!!」
「いいだろう。クラウン、お前からも頼みなさい」
「でも!!」
「いいから……」
先生に強く押されたクラウンは納得していない表情を浮かべながらも、ふてぶてしくハウストの方へと向き直す。ハウストも持っていたグラスを口もつけずに元に戻すと、嬉しそうに彼女の言葉を待った。
「オイラが集めた<童話>を返してくれ」
「ふふっ、いい子だ。始めからそうしていれば良かったのだよ」
そう言うとハウストは膝の上から一冊の赤い本を取り出した。
「君たちの集めた<童話>はそっくりそのまま返してあげよう。しかもこの赤い本と一緒にな」
「!!」
その本は紛れもなく、ハンスが大切に抱えていたグリムアルムの赤い本であった。
グリムアルムが何百年もの時をかけて一生懸命集めてきた<童話>たちを、ハウストは乱暴に取り皿の上へと投げ捨てる。
「ただし、これから君には幾つかの質問に答えてもらおう。それに嘘偽りなく、きちんと答えてくれたらの話だがね」
思ってもいなかった事態にクラウンは振り向き、先生の了解を取ろうとするのだが、彼も少しだけ考え事をして、ハウストの顔を見ながら頷いた。
「いいだろう。しかし貴方の求める答えが出なくても、その本は渡してもらいますよ」
自信満々の態度に不服なのか、ハウストは「ふんっ」とつまらなそうに鼻で笑う。しかしクラウンの方へと顔を下ろすと、老人特有の優しい顔つきになって穏やかな声で問いかけた。
「では初めに、君の名前はなんと言うのかい? フルネームで頼むよ」
「クラウン。クラウン・プフルーク」
プフルーク。その名前を聞いた途端、彼の眠たそうにしていた瞼が少しだけ上がった。
霞がかかった森のグレーの瞳。霞は晴れずとも、懐かしむようにその瞳は輝いていた。
「おぉ、プフルーク家の子供だったのか。あそことは喧嘩別れしたようなものでね、今日は仲直りができるといいのだが……。ではクラウン、次に君が好きなものを教えてくれないか。花でも童話でも、何でもいいよ」
「好きなもの…………、食べ物全般」
クラウンの視線が下に落ち、食卓のご馳走に注がれる。その姿を見たハウストはまた可笑しそうにクククッと笑い声を漏らすのだが、クラウンは顔を赤くしながらムッとハウストを睨みつけた。
「素直でよろしい。そんなに畏まらずとも、たんとお食べなさい。大丈夫、毒なんて盛ったりはしてないよ」
そう言って目の前の料理に手を広げて勧めるが、「はい、いただきます」と素直に食べれるわけがない。
しかし、パリパリに焼き上がったローストチキンが蝋燭の明かりを照り返し、採れたて新鮮な果物たちが艶っぽくクラウンを誘惑してくる。嫌でも目に付くご馳走たちに、どうにか視線を落とさないようクラウンは必死になってハウストの顔だけを睨み続けていた。
餌にすぐ飛びつくような教養のなっていない子でないと知ったハウストも満足そうにほくそ笑む。
彼はクラウンの一言一句、行動すべてに目を光らせているのであった。
それから続く会話の内容は特におかしな話題もなく、他愛ないお喋りばかりが続いてく。
休日は何をしているか。お気に入りの場所はどこなのか。空模様は晴れがいいか、雨がいいか。
まるで幼子に質問するかのように、ハウストは温もりのある語り口で聞いてくる。
あまりの心地よさにクラウンも警戒しきっていた心を解いてしまい、自分が答えられるだけの答えを彼の為にと一生懸命に返していた。
先生の方はまるで期待外れだと言うように、ハウストから視線を外すと部屋の隅々を見澄ましている。
この調子なら何事もなく赤い本は自分のものになるだろう。と、そう思っての行動だろう。そんな余裕すら生んでしまうほどにハウストの質問は無害であったのだ。
「それでは何故<童話>を集めているのかい?」
本題が入り始めているのだが、その影に二人は全くもって気づいていない。
「先生が集めるようにって言うんだよ」
「何故?」
「先生が、<童話>を集めたら世界は平和になるんだって。世界中の人たちの不幸は、<童話>のせいなんだろ?」
「なるほど。でもそれは先生の意見だ。君自身はどう思っている?」
「オイラ? オイラもそう思うよ。<童話>が人を襲うところも沢山見てきたし」
「君は随分と<童話>たちとは戦ってきたみたいだが、君にとって<童話>とは悪者でしかないのかい?」
「そうだよ? 奴らはオイラと先生の大切な人たちを沢山殺してきた大悪党なんだ!」
「そうか…………、君にはそんな過去が……。すまなかったね」
クラウンの思わぬ悲しい過去に、ハウストは同情したような言い回しをするのだが、それは上っ面だけのセリフであって感情というものは読み取れない。
「それでは話を変えようか。先ほどから君の言う先生とは……、彼は一体何者なんだい? 彼は君の何なんだい?」
「せ、先生は……」
急に頬を赤めたクラウンは、先生の顔をチラリと見る。彼は自分のことについて話しているのだと気がついて、警戒した目つきでハウストを睨んだ。そんな彼の凛々しい視線に、クラウンは恥ずかしそうに俯いた。
「先生は……オイラに、<童話>を教えてくれた先生だ。そしてオイラは先生の事を、おっ…………お父さん、みたいなもんだと思っている。<童話>を捕まえてくれば褒めてくれるし、美味しいご飯だって沢山くれる」
「彼の事が好きなのかい?」
「スッ!! スッ、スッ、スッ、好きだけどぉお~、そ、尊敬の好きだよぉおおお~?」
慌てふためくクラウンに、ハウストは「そうか」と冷たく囁いた。
先生の方は相も変わらずハウストの動きを睨んでいる。
「まぁ、彼については後でじっくり本人から聞くとしよう。せっかく来ているのだからね。
それではクラウン、これからが大切なお話だ。よろしいね」
「うっ……うん」
すっかりリズムを取り乱してしまったクラウンは、火照った顔のまま頷いた。
ハウストは今までの温厚そうな老人をどこか遠くへ葬り去り、悪魔の親分にでもなったかのような目つきでクラウンの瞳を見つめ返す。眼鏡越しからでも感じられるその威圧的な雰囲気に、クラウンも思わず怯んでしまった。
「ローズ……、っと言う名前の女性を知っているかね?」
今度は先生の方がピクリと眉を動かした。
「し……知らないよぉ。むしろオイラの方が知りたいよ」
「そうか。実はね、先に話した喧嘩別れの相手がプフルーク家のローズ嬢の事なんだ。君はあまりにも彼女に似ているから、彼女自身なのかと思ってしまったよ」
「……? どういうことだ?」
「プフルーク家のグリムアルムはローズの代で終わっている。プフルーク家自体も数年前に途絶えてしまった」
「何が言いたいんだ?」
「彼女には血の繋がりのない兄が三人いたのだが、みんな先の戦争で亡くなってしまった。
三男坊には一人息子がいたのだが、それも数年前に亡くなってしまったよ。天涯孤独だったと聞く。
つまり私が言いたいのはね、クラウン。プフルーク家の名を名乗る君が、今ここにいる事が不思議で、不思議でしょうがないんだ」
「……! ローズって人がオイラのお母さんなのかも?!」
「それはない。彼女は十八で亡くなるまで、常に継母の監視下の元で暮らしていた。当時の彼女を知る者ならば誰もが知っている常識さ。
それでは聞こうか、クラウン。君はいったい何者なんだい? 何故ローズの姿をしている?」
「そんなのオイラだって知らないよぉ」
「生まれた年はいつだ? 国籍は? 名前も本当にクラウンと言うのかい?」
「そんなにいっぺんに聞かれても……」
「なぜ戸惑う? 本当の両親はどこにいる? 何故、プフルーク家の名前を名乗っている? 君の先生は何も教えてくれないのかい? もう一度聞くよ。君はいったい何者なんだい?」
「オイラは………………」
その時、彼女の視界が真っ白な吹雪に覆われた。
伸ばした腕の先が全く見えないほどに吹雪いた草原の中、目の前を歩む先生の後ろ姿だけを、彼女は必死になって追いかけていた。
あと少ししたら彼もこの吹雪の中に溶けていなくなってしまいそう。
父もいない。母もいない。そんな彼女を拾った唯一の人。
「先生…………」
ぼーっと白くなった頭の中から目をそらし、頼り続けていた人にすがりつく。
「先生、オイラは一体……何者なんだ?」
小さな叫びは大いなる助けを求めている。自分の形を教えてほしい。何かしら自分を証明する、確固たる自信を授けてほしい。「大丈夫だよ」っと、一言だけでも支えを与えてほしかった。
だけども彼は表情を変えずにハウストをジッと睨むだけ。だがついに睨み疲れたのか先生は、静かに瞼を下ろしてか細いため息を吐き出した。そして彼女に言うのである。
「クラウン……、アイツを殺せ」
「……えっ?」