012 <若い大男> ― Ⅴ
音に驚いて顔を上げる二人の先には冷めた目つきでパウルを見下ろすハンスが静かに立っていた。元から二メートル近くある高身長なのに、座っている桐子たちにはそれ以上に大きく見えてしまう。無駄にあふれ出す威圧感は並半端なものではない。
「ちょっと、俺の友人に何しているの?」
「電話番号を聞いてただけだよ」
引きつった笑顔で誤魔化そうとするパウルだが、笑顔のスペシャリストであるハンスに通用するはずもない。と言うかハンスは一ミリも笑ってはいなかった。
「彼女、旅行者だからそういうのは迷惑なんだよね」
声も一オクターブ下がっていて、今まで見て来たどのハンスよりも冷たく恐ろい印象を受けてしまう。しかしピンチなところを助けられた桐子には、いつも以上に頼もしく雄々しく見えてしまったので、思わず惚けてしまっていた。
すっかり自分の居場所が無くなったと気が付いたパウルは、やれやれといった感じに肩をすくめる。
「それは悪い事をしたね。オレの友人はまだ来そうにもないから、自分から迎えに行くとするよ」
そして立ち上がろうと屈んだ瞬間、桐子の耳元に近づいて「またね」とくすぐるように囁いた。
軽快に去って行くパウルの後ろ姿を、桐子は頬を赤めて見送った。
今までの彼女の人生において異性に「またね」と耳もとで囁かれる事があっただろうか。育ちの村はダムに沈み、学び舎は女子校ばかりを渡り歩いていた。そんな田舎娘の初のナンパ体験である。だがそんな浮ついた話にも気が付かないのが桐子である。
「桐子! アナタってば人がよすぎ!! 見ていてハラハラしちゃったじゃない!」
すっかり元のハンスさんに戻ってしまったハンスに怒鳴られて、あっという間に我に返る桐子。彼は腰に手を当てて、ぷりぷりと漫画のように怒っていた。
「え? ああいうのって、よくあることなんですよねぇ?」
「世間話ならまだあるけども、電話番号まではいかないわよ。もっと警戒心を持ってよね!」
心底心配してくれていたと思われる彼の発言に、心打たれた桐子はあんなにも薔薇色いっぱいな経験をしたというのに、パウルのことなんてすっぽりと忘れてしまった。
「はーい、ごめんなさい。ハンスさん、もう今日はお仕事終わりですか?」
「ええ。本当はまだ時間があったんだっけど、これじゃあね……」
客席を見渡す彼に合わせて桐子も後ろに振り向いた。気付けばテラス席のご婦人たちも帰ってしまい、お客は自分一人しかいない。
「明日の分の仕込みも全部終わっちゃって、早めに帰ってくれって言われたの。桐子はもう少し残ってる?」
「いいえ、ハンスさんが帰るなら私も帰ります。ハンスさんを待っていたところもありますし……」
「え?! 私、待ってなんて言ったかしら?」
「いやぁ、私が勝手に待ってただけです。迷惑でしたか?」
思いもよらない桐子の好意に、彼は感激したように目を潤ませて「いいえ、ただ驚き」と本当に嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、すぐに着替えて来るわね」
従業員室に入ったハンスはすぐに客席ホールへと戻ってくる。普段着は相も変わらず黒いロングドレスのままなので、普段からシェフの時のカッコイイ姿にしとけばいいのにと、桐子は少し残念そうに思ってしまった。
「これから今日のおやつを買いに行こうとしていたのだけれども、桐子も一緒にどう? お気に入りのパン屋さんで新作の夏ケーキが発売されたのよ。是非とも桐子にも食べてもらいたいわ!」
よほど桐子の食いっぷりが気に入ったのか、早速食べ物の話をする。桐子の腹の中にはまだアイスバインやデザートたちが居座っているはずなのだが、そんな事は無かったとでも言うように桐子の顔は明るくなった。
「わあ、いいですね! 私も美味しそうなお茶っぱを買ったんで一緒に飲みましょう。何のお菓子に合うのか分からなくって、ハンスさんの意見が聞きたいです」
新作のケーキがどうのとか、紅茶の種類が何なのかとか、まるで女友達との会話である。しかもそれが不自然に思えないのだからおかしな話。橋を渡って飲食街に入ってもなお、彼らの女子トークは終わらなかった。
「その種類ならば柑橘系のお菓子がぴったりじゃあないかしら。あ、でも確か猫って柑橘系の食べ物がダメなのよね?」
「シャトンですか? 勝手なイメージですが、シャトンなら大丈夫そうに思ってました。やっぱり<童話>でもそういうところは気にしたりするんですか?」
「さぁ、どうかしら? でも彼って随分とグルメだから、毎日ご飯のメニューを考えるのが大変なのよ」
その後に聞くメニューはまさしく先ほどのレストランで食べるようなご馳走ばかりで、普通のご家庭で作るとしたら食費だけでなく電気代やガス代もバカにならなそう。
シャトンなど、クラウンに関係するものは全て自分に責任があると思い込んでいる桐子は、ハンスにかかっている負担のことを考えて罪悪感で押しつぶされそうになっていた。
「まさか、バイトの時間を増やしたのってシャトンがグルメで食費とか色々費用が?!」
「いいえ、全然! <童話>が一体増えたぐらいじゃあなんともないわ! むしろウィルヘルムが夏休みだからって一日中家にいて、電気代やら食費が……」
今現在の状況を再確認しようとするハンスの頭の中でとある一日が再生される。その事実はだんだんと彼の頭を締め付けあげて、苦しい状況なのを思い出させてしまう。
「もちろんウィルヘルムのお父様からは生活費を毎月いただいているのだけれども、人がいると必要以上にご飯を作っちゃうのよねぇ、私。一人だけならば作らないで済むのに」
終いには自分の欠点に頭を抱えこんでいる。だいぶ主婦根性が染み付いている彼自身にも問題があるようだ。
落ち込んだ気分を回復すべく、目的のパン屋さんで早速ケーキを購入する。残念なら限定物はレモンパイだったのでシャトンにはミルクケーキを買ってやった。しかしケースの中に並んでいるケーキはどれもこれも気品ある佇まいをしており、残念がる必要はないだろう。
「あら旅行者さん? 紙で包んでいるだけだから気をつけてね」
レジ打ちの店員さんが気さくに注意をするように、ケーキは薄い包装紙に包まれて桐子の両手に渡された。ドイツでは普通の梱包のようだが、当て紙と言えるものは紙皿ぐらいでケーキを包むにしては簡易すぎる。ちょっとした衝撃ですぐに中身は崩れるだろう。
ハンスもこればっかりは運ぶのが苦手だと言って早速諦めの雰囲気を出している。思わぬところからかけられたプレッシャーに、桐子は必要以上に慎重になって店を出なくてはいけなくなった。
温もりのある木製のバルコニーを緊張しながら歩いていく。柔らかな風が吹き抜けば、ビクついてその場に固まってしまった。わずかな段数しかない階段にさえ屁っ放り腰で下りて行く。
本人はいたって真面目にケーキと向き合っているのだが、その姿はあまりにも可笑しくって愛おしささえも感じてしまう。何事にも真剣に取り組んでくれる彼女をそのまま表しているようだ。だが同時にそれは彼女の危うさも表していた。
桐子のフラフラとした動きを微笑みながら見守っていたハンスが階段の上に立つと、突如強張った顔つきで彼女を見下ろした。
「桐子、アナタがどんなイメージでこっちの人たちを見ているのかは知らないけれど、知らない人に声をかけられても深く関わりを持たないようにしてね」
まるで幼子に知らない人には着いて行くなと注意をするように、ハンスはキツイ口調でそう言った。どうやら先のレストランでの出来事を未だに気にしているようだ。
「子供じゃないんですから分かってますよ。それに、世間話ならハンスさんだってしてるでしょ?」
「常連さんとか、店先で困っている人を助けるのなら別にいいのよ。でも用がなければ話しかけないわ。そう、用がなければ……」
さっぱり彼の言う事が分からない桐子はついに最後の階段を下りきって、ふーっと安堵のため息をつく。ずっとケーキばかりと睨めっこをしていてハンスの顔すら見上げる余裕のなかった桐子はここでようやく彼の顔を見た。しかしそこにあったのは、石像のように冷たく、軽蔑するような目つきで桐子を見下ろすハンスの姿。サッと頭から血の気が引くが、彼が睨んでいる先にいるのは桐子ではない。彼の目線に合わせて桐子は自分の背後に振り向いた。するとそこにいたのは先のレストランで彼女を口説いていたパウルであった。彼は涼しい顔をして立っている。
「やあ、さっきはどうも」
桐子としては急に現れたパウルだが、ハンスは階段の上に立ったときから彼の存在に気づいていた。ハンスは嫌味ったらしい声色でパウルに話を投げかける。
「あら随分と早かったわね。お友達には会えたのかしら」
彼はパウルの正体に気付いているようだが、桐子はまだ分かっていない。だが初めて会った時以上に胡散臭さが増しているパウルからは親しさを感じることはもう出来なくなっていた。得体の知れない不安に桐子は怖気づいてしまう。
「友達には会えたよ。彼女の<童話>は僕のものにしてもいいと言ってくれた。だから、ねぇ頂戴よ。キミには勿体無い。使い方も知らないで<童話>が可哀想だ」
どうやら彼の本当の目的は桐子ではなくって、彼女に取り憑いている<いばら姫>の方だった。明るい時間帯には似つかわしい気味の悪い雰囲気を染み出させながら、パウルは一歩桐子に近づく。
「<童話>に用があるのなら、私を通してくれないかしら?」
静かに階段を下りてきたハンスも桐子を守るため、さり気なく彼女の隣に着いた。しかしパウルにとってハンスは部外者以外の何者でもない。
「お前には関係ない」
せっかく声をかけてやったのに、冷たくあしらわれたハンスは残念そうに腕を組む。
「<童話>崇拝者なら知っててもおかしくはないと思ったのだけれども」
あえて煽るような態度をしてみせると、苛立ちが溜まっていたのかパウルはレストランでのお返しとでも言うように拳を勢いよく振りかざした。
「うるせぇ! さっさと<童話>をこっちによこせぇ!!」
「桐子、危ないっ!」
急いで桐子を突き飛ばしたハンスは坂の下へと逃げ込んだ。
飛びかかってきたパウルの拳はハンスや桐子にかすることなく、そのまま階段にぶつかった。
彼の拳は腰の引けた素人の殴り方そのもので、当たっても痛くはなさそうに思えるが、そんなことは決してなかった。突き出した拳から巻き上がる疾風に、階段は木くずをまき散らして派手に吹っ飛んだ。その威力はまるで漫画の世界のようである。
「うゎ凄い! これをオレがやったのか?! あははっ! 凄い……、凄いぞ!!」
自分の拳で破壊した階段の砕け散る快感にパウルは興奮した様子で高笑いする。
「今のうちに逃げるわよ!」
「あーっ! ケーキがあっ!!」
ハンスの機転によりパウルの攻撃から逃れることができたというのに、桐子は現実逃避でもするように、自分の大きな胸に押し潰されてしまったケーキを哀れみ嘆き悲しんだ。
「そんなのいいから、早くこっちへ!!」
ケーキに執着し続ける桐子の袖を引っ張り、ハンスは坂を下って飲食街へと戻っていった。