002<靴屋の小人> ― Ⅰ
ドイツにある学園都市。沈みかけた日の光が、町を赤くも柔らかな日差しで包み込む。
しかし町の隅にある旧市街の狭い路地裏までにはその光は届いていなかった。暗い影を落とした路地裏の小さな広場。そこに佇む一軒の古い家屋。別にこの辺では珍しくもない、普通の何の変哲もない木骨の家屋なのだが、気味の悪い空気を漂わせて、小さく扉を開けていた。まるで、我々のことを歓迎しているかのように。
「特別な……<童話>……?」
女性の疑問の声が、本棚で埋め尽くされた家屋の玄関先の部屋から聞こえてきた。
彼女は遠く離れた東の島国から語学留学にやってきた現役女子高生、菅 桐子。留学してまだ三、四日しかたっておらず、ドイツ語もままならない。旅行ガイドブックに載っている日常会話がいくらか上手く話せるぐらいだ。
そんな彼女は現在、現地の住民三人に囲まれて、椅子にちょこんと座り込みながら、貰った水を一気飲みし、あの第一声を発したところなのであった。彼女の疑問に家の主である男性、ハンスが微笑みを浮かべて軽く頷く。
彼は自身の黒いロングドレスを可憐にひるがえして、彼女の前に座ると二階から持ってきたとある一冊の本を取り出した。そして、その場にいる誰もが見える様にと、本をゆっくり見開く。他の二人、フェルベルト兄妹のウィルヘルムとマリアもその本に注目した。
「この本は……今、世界中で読まれているグリム童話の元となったお話を、一冊にまとめて束ねた本よ」
それは昼頃に、桐子が見つけて開いた本。真っ赤な表紙のあの本だった。彼がペラペラとページをめくると、大量の文字に埋め尽くされたページが何枚も続いていた。かと思うと、今度はまっさらなページが何ページも続く。それが交互に繰り返されて、最後のページが終わるとハンスは静かに本を閉じた。
「グリム兄弟は……知っているわよね」
もちろんだ。と言うように桐子は大きく頭を縦に振る。何せ桐子は、グリム童話のためにドイツに来たと言ってもいいほどに、グリム童話が大好きなのだ。
「兄ヤーコプと弟ヴィルヘルムのグリム兄弟が、ドイツに伝わる民族伝説を集めてまとめた二冊の本ですよね?」
桐子が自信たっぷりに言い切ると、その得意げな顔が可笑しかったのかハンスは「ふふっ」と小さく声を漏らして笑った。
「そうよ。兄のヤーコプ・グリムと弟のヴィルヘルム・グリム。彼ら二人が故郷のためにと集めた童話集。
当時この国は、隣国に占領されいたわ。自分たちの祖国への誇りと希望を失いつつあったこの国の人たちを活気着けなくては、本当の意味で国が無くなってしまう。そう思った学問の偉人さんたちが、ドイツの民謡や民話を集めては自分たちがいかに素晴らしく、誇りある民族であるかを人々に訴えかける運動を始めていたの。グリム兄弟達も、この運動の流れに乗って国中の民話を集めたりしたわ。そして完成したのがグリム童話集。
……と言ってもね、別に彼らは国中をあっちこっち周ってもいなければ、農家のお婆さんからお話を聞いて、書き留めたりしたわけでもないのよ」
ハンスは照れ臭そうに笑う。それとは対照的に、桐子は残念そうな、寂しそうな表情を浮かべていた。彼の話しは彼女も知っている真実。グリム童話好きならよく知る有名な話しだ。
「確かにその話は聞いたことがあります。上級貴族の娘さんたちから話を集めていた……って言うやつですよね」
「流石、詳しいわね。金欠だったから、印税欲しさのために本を出版していたって事も知っていそうね」
真実として発表されている事とはいえ、桐子としては認めたくはなかった事実であった。
彼女のイメージのグリム兄弟は、仲の良い兄弟二人が旅をして、楽しく集めたおとぎ話を子供たちに読み聞かせるという、心温まるエピソードが付いているものなのだと、信じて疑いたくはなかったのだ。
みるみるうちにしょんぼりしていく桐子に、ハンスは呆れ混じりではあるが優しい声で「こんなことで残念がってちゃだめよ」と更に彼女を追い込んだ。
微笑み続けていたハンスの表情が、すっと寂しそうな表情に変わる。子供に優しく語りかけるような彼の柔らかい声色も、思いつめたように冷たく、しかし懐かしそうに、ゆっくりはっきりとした口ぶりで、一言一句丁寧に語りだした。
「兄弟たちが民話を集めるよりも遥か昔から、この地には辛くて苦しい時代が続いていた。戦争に飢饉、疫病や人身売買。国が国民を裏切り、生きるか死ぬかの騙し合い。沢山の人の血を吸ったこの土地は、まさにこの世の地獄と言ってもいいもので、誰も彼もが生きる意味を失っていたと聞くわ。
だけどそんな地獄の中、幸運にもグリム兄弟は裕福な家庭に生まれて、何不自由のない子供時代を送ることが出来たというの。彼らのお父様が早くして病気で亡くなり、一族が貧しくなってしまっても、周りの手厚い援助のお陰で二人は大学にも行くことが出来た。
恵まれた環境に居続けたからこそ、彼らにはよほど暗く映って見えたのかもしれないわね。
幸福で暖かな光に包まれていると信じていた愛する彼らの祖国は、本当は暗くて深い闇の中、恨み妬まれ、もがき苦しんでいるんだと。
その姿は、二人にとってはあまりにも衝撃的なものだった。
どうにかして祖国を救いたい。
そう思い悩んだ兄弟たちは、ある一つの決断を下したわ。素晴らしい歴史を守るために、悪い歴史を集めよう……って。
本来ならば、素晴らしい歴史を集めるべきだと思い付くわよね。可笑しいと思うだろうけど、このまま聞いて頂戴。
彼らは親しい友人たちから、この土地に伝わる悪い噂話を聞いては次々と紙に綴ってまとめたの。自分たちに与えられた使命のようにね。すると不思議な事に、長い事続いていた戦争や疫病などが少しずつ……本当に少しずつだけれども収まっていったのよ。一見、何も関係ないもの同士に思えるのだけれどもね、実は、彼らには不思議な力が宿っていたの。他の兄弟たちには持ちえなかった秘密の力。
それは、人の心や土地などに住み着く恐ろしい妖怪や精霊、悪霊などの悪しきモノたちを本に封じ込める、封印の力だったのよ。土地の悪い運気はこの<悪霊>たちの仕業だと知った兄弟二人は、協力し合って次々に<悪霊>たちを封印していったわ。その姿、彼らの通う大学の教授からは大変勉強熱心な兄弟たちに映っていたみたい。
ある日、彼らの恩師が兄弟たちの知恵と熱意に目を付けて、とある人物を彼らに紹介したわ。
それは兄弟たちと同様に、民話を集める仕事をしていた彼の義弟さん。<悪霊>を封印するだけを目的としていた兄弟たちとは民話を集める理由が違うけれど、祖国の明るい未来を取り戻すという志は一緒。 彼の強い勧めや、貧乏生活から抜け出したいという思いもあって、集めた噂話を口語体から文語体に清書し、一冊の本にまとめて出版する事に決めたのよ。
そうして刷り上がった童話集第一版はクリスマス前に売り出されたお陰か、たちまち色んな人の目に止まったわ。けれども、評価はとても良かったものだとは言い切れないの。悪い話だけでなく夢を与える話も入れてほしいとか、必要のない童話を無くせとか……本来の兄弟たちの目的には全く必要のない注文ばかり。けれども、彼らはその注文を潔く受け入れたわ。何故なら二人には新しい目的が出来てしまったから。
新しい目的。それは彼らも、恩師の義弟さんや他の偉人たちと同じように、愛する祖国の過去と今を未来に伝えよう。そのための童話集を作ろうと、そう思い付いたのよ。民衆受けの童話集を作ろうだなんて、兄弟としては大きな変化だわ。過去の過ちから沢山の事を学び、二度と同じ事を繰り返さぬようにと、子供からお年寄りまで皆に好かれるような本になるようにと、彼らは今まで見過ごしてきていた楽しいお話も集め始めたわ。ちゃんと本来の目的も忘れずにね。その努力の甲斐あって、どんどんグリム兄弟の評価は上がっていったわ。彼らの童話集も、貴女も知るような皆に好かれる物となった。
……けれども当たり前の話、童話を集めれば集めるほど〈悪霊〉の力も膨大になっていった。
兄弟たちの力は確かに強かったのだけれども、何度も〈悪霊〉の力に押し負かされそうになったわ。だから兄弟たちは、あの手この手で〈悪霊〉たちを強引に封印していったのよ。
例えば、童話集と一緒に<児童の読む聖者物語>という〈悪霊〉が嫌う聖人の話をまとめたり、兄のヤーコプは乗り気じゃ無かったみたいだけれども、童話の一つ一つを加筆修正したりして、必要以上に複雑な童話の改変を施したわ。本来の自分のおとぎ話とは違う物語の迷路。その中に閉じ込められた〈悪霊〉たちが外に出るのは至難の業。結果、ほぼ原型を留めていない童話がいくつも出来てしまったのだけれども、おかげで世界中に愛される童話集が完成した。それが〈子供たちと家庭の童話〉……〈グリム童話〉っというわけよ」
長い歴史の説明が一通り終わると、ハンスは俯きながら優しく赤い本の表紙を撫でる。
「〈悪霊〉の……封印……」
桐子の知らない……それどころかグリム兄弟を研究し続けている人たち、誰一人として知らない物語。それを彼女は今、目の前にいる男の口から知らされてしまったわけなのだが、そんな非現実的なお話し、彼女の脳がすぐに受け入れるなんてことをする訳が無かった。グリム兄弟は実は霊能力者で、悪霊退治の為に童話を集めていた? ファンタジーの世界じゃあるまいし。
しかし、魔法のように大きな剣を取り出した青年や、突如現れた巨大な怪鳥との戦いを見た後だと、案外本当にある事なんじゃないかと桐子はすぐに思い込んでしまった。
だとすると、戦争のきっかけを作った悪霊もヨーロッパ全土を襲った疫病も、ハンスが今、大切そうに持っている赤い本の中に全部封印されている……ということなのか。桐子の背中をゾッと寒気が撫でていく。なぜこんな大事な話を専門家ではなく、一般人どころか外国人である桐子に話したのか。〈悪霊〉は全て封印されました。めでたし、めでたし。で、とっくの昔に終わったはず。それでも彼はまだ何か言いたげな顔をしているし、彼女にもまだ幾つかの疑問が残っていた。
「あのぉ、その話ですと、悪霊や悪い精霊たちは無事にグリム兄弟たちによって封印されたんですよね? その赤い本のグリム童話集に」
でも、何で空白のページがあるのですか? っと問おうとした時、ハンスはその哀愁溢れる顔を上げて、不自然な微笑みを桐子に向かって浮かべて見せた。何か不気味なざわめきが、桐子の心を逆なでする。
「逃げ出したわ。その……〈童話〉たち」
逃げ出した。今まで聞いてきたどの”逃げる”という言葉よりも、桐子の心に深く突き刺さった。そんなまさか、冗談だと笑って否定したかったのだが、ハンスの真っ赤な瞳がその言葉だけは言わせまいと桐子の瞳をじっと見つめた。
「確かに兄弟たちは〈童話〉を封じ込める為に、複雑な術式を本の内側から沢山むすんでいったわ。けれどもそれは内側からだけの話。表側っからは簡単に開けられちゃったの」
「つまりそれって……」
「……本を開けただけ。それだけでこの封印は解けてしまったわ」
一瞬、桐子は自分の心臓がキュッと締め付けられるような感覚を味わった。まさか、自分が封印を解いてしまったのか?! 恐ろしい災いの火種を、知らなかったとはいえ解いてしまったのか。桐子の顔色は見る見ると青ざめていき、冷汗が頬を伝い呼吸が乱れて苦しくなる。
「ご……ごめんなさい……あのぉ! ごめんなさいで済むことじゃないんですけど……その、さっき、私……その本、開けて……しまい……ました。ごめんなさい」
素直に白状する桐子の言葉にウィルヘルムとマリアは驚き、互いの顔を見合わせた。
己のやったことに恐怖し、小刻みに震える桐子の瞳はみるみると潤んでいった。今すぐにでもわんわんと泣き出しそうだ。しかしそれを見たハンスは慌てて「違うの、ごめんなさい!」と彼女の勘違いを解こうとした。
「封印はね、だいぶ前に解かれてしまったのよ。しかもヤーコプ・グリムが亡くなってから十数年も経たないうちに」
「え?」
桐子にとっては予想外な言葉。自分はその赤い本を開けてしまい、封印を解いてしまったから責任を取らされるためにこうして捕まったのだと、そう思っていた。しかしハンスはそうじゃないと言う。
「一番初めだけはね、誰でもこの本を開けただけで封印を解くことができたの。それだけ〈悪霊〉がぎゅうぎゅうに詰め込まれていたんだわ。だけど今は大丈夫。昔よりも強力な術式で、外からも内からも彼らを封じ込めているわ。もうグリムアルムである私たちにしか、封印を解くことはできない」
「それじゃあ、私が開けても……」
「ええ、大丈夫よ。だけどビックリしたわ。アナタがこの本を読んでいるんだもの。あの机だって〈童話〉の術式が埋め込まれていたんだから。
まぁ、あの時はとにかくアナタを追い出さなきゃって気持ちで一杯だったから、そのまま追い出しちゃったのだけれども、思い返してみたら気になちゃってね……それでこの子たちに呼んできてもらったの。本当、驚かせちゃってごめんなさいね」
怒られることを覚悟していたのだが、先の深刻そうな表情とは違い、ハンスは申し訳なさそうに微笑んでいた。
「いえ、いえ! 私が悪いんです。看板もまともに読まずにその、勝手に入ちゃって……」
桐子は大きく手を振り、慌てふためいた。
確かにあの時、桐子は迷子の心細さで勝手にこの建物の中に入ってしまった。立ち入り禁止とかかっている看板にも気づかずに。それは桐子の不注意によるもので、その事に関してはハンスが謝る理由はない。だから桐子は、不法侵入したことに対しての謝罪の気持ちとして、彼の思った疑問に答えようと、初めてこの図書館に来た時のことを懸命に思い出そうとした。
「その、私もあの机の引き出しをどうやって開けたのか分からないんです。軽く触ったらポンッと開いてしまって……触るだけで開く仕組みだったんですか?」
「そんなことないわよ。私のこの鍵がなきゃ開かないはずだから……」
そう言ってハンスは、頭の後ろにつけていた髪留めのリボンをとって彼女に見せた。
リボンの上には金ピカに輝くフクロウのブローチが付いており、そのフクロウのかぎ爪には、これまた小さな金の鍵が掴まれている。
「わぁ、かわいいブローチ」
「うふふ、ありがとう。でも不思議ね。ウィルヘルムにだってこの机を開ける事は出来なかったのに。それに、初めてアナタに会った時は何も感じなかったのに、この図書館から追い出した後、すぐに〈童話〉の気配を感じたの」
「え? やっぱり、本を開けたからじゃ……」「違うよ」
不安げな表情を浮かべる桐子に、可愛らしい少女の声が優しく語りかけてきた。
少女マリアが桐子に向かってにっこり笑顔を作り、桐子の不安を和らげる。
「今、ハンスちゃんが本をパラパラした時にね、見直したんだけれども〈童話〉さんたちの数はそのままだったよ。それに……」
「それに?」
マリアがウィルヘルムのそばから小さく駆け出すと、ハンスと桐子の間に割って入る。桐子の手を優しく掴み、じっと彼女の顔を見つめるマリアは、先のように鼻をスンとも鳴らさずにムッとした難しそうな表情を浮かべてみせた。
「あのね、初めて会った時よりもバラの香りが強くなっている。こんなに強いバラの香り……」「マリア!」
マリアがまだ話している途中だというのに、彼女の兄ウィルヘルムが怒鳴ってマリアの言葉をさえぎった。マリアは呼ばれた通りに彼の元に駆け寄ると、ウィルヘルムは彼女の姿を自身の背後に隠してしまう。何事かと見つめていた桐子に、彼の瞳はジッとキツく睨み返す。その眼差しは敵意そのもの。たとえ相手が自分よりも小さな男の子であっても、桐子はその青く燃える瞳に怖気づいてしまった。
「彼らは一体?」
「あぁ。彼もグリムアルムの一人よ。"牧師の一族、フェルベルト"」
「グリムアルム……」
会話の途中に度々現れる聞きなれない名詞。グリムという単語は”恐ろしい”とか”厳格”とかと訳せると思うのだが、この場合は"グリム兄弟の腕"って意味で合っているのだろうか。”誰かの右腕”という意味なら別にドイツ語があるというのに、わざわざ”腕”と言っているのには何か別の意味が含まれているのだろうか。桐子はそんな疑問を抱えつつ、ハンスが語るグリムアルムについての物語に耳を傾けた。