012 <若い大男> ― Ⅳ
「それはそうと桐子は今日、学校の用事とかはないのかしら?」
「はい~。夏休みの宿題も全部終わって、予定ゼロのまったりデーです」
残り少ないデザートを大きな口で出迎える。溶けたアイスをたっぷりと吸い込んだスポンジが、甘い蜜を口いっぱいに浸してくれた。そんな彼らともあとわずかでお別れが来てしまう。それでも恍惚とした笑顔を浮かべ続ける桐子にハンスは、ウィルヘルムの食器だけを片付けて
「それじゃあ、好きなだけこのお店でまったりしていってね。お客さんが少なくって寂しいのよ」
と珍しく、いたずらっ子のような笑顔で微笑み返してきた。
厨房に戻って行く彼を見送り、何時間でも居て良いと許可された桐子は早速鞄から本を取り出した。川の流れに耳を傾け、趣味の読書を楽しもうという目論見だ。
留学してから早半年。今までなんやかんやと忙しく、一人の時間を設けたのはおそらくこれが初めてだ。まぁ、実際は留学早々に一人の時間を一瞬だけ与えられたこともあったが、あの時の時間と今の時間とは全くもっての別物だ。
あの時は来たばかりの異国で迷子になり、凍えるような心細さに震えていた。しかし今の彼女は幸いなことにこの異国の地で沢山の出会いを経験したし、迷路だと思われていた町の中も今や庭みたいなものとなっている。たとえ一人取り残されるようなことがあったとしても、こうして日向の中でまどろむことさえできるのだ。
[クラウンもどこかで元気にしてるかな……]
虚ろう意識の中で水を滴らせるクラウンの姿を思い浮かべる。あの日もこんな暖かな日であったが、彼女は寂しそうな顔をして桐子の事を見つめていた。
今は一体どこで何をしてるのか。彼女の<守護童話>だと言い張るシャトンでさえ、彼女の居場所はつかめずにいる。一人で寂しい思いはしていないかと、すぐにでも飛んで行きたい気持ちではあるのだが、暖かな日差しについウトウトとまぶたが落ちてきた。もどかしい思いをしていても、場所が分からなければ飛んで行けないもの。しかしその時、隣から「ねぇ……」と桐子を呼ぶ声が聞こえてきた。
[まさか……クラウン?]
眠りかけていた意識を揺さぶり起こし、声の方へと振り向いた。覚醒しきれぬ脳がクラウンの像を映し出すのだが、その像はあっという間に消え去って、かわりに似ても似つかぬ青年の顔が桐子の前に現れた。
「ねぇキミ、本が落ちたよ」
声をかけてきた青年は、桐子の手からずり落ちてしまった本を拾い上げて彼女の前に差し出した。
「あ…………、ありがとうございます」
まだはっきりしとない脳で気の抜けた返事をすると彼はにっこりと優しく微笑んだ。
眠りに入るところを見られてしまった恥ずかしさに、桐子は渡された本を机に置くと誤魔化すように前髪をいじりだした。しかし青年の眼差しは机の上に置かれた本の上に注がれており、桐子の誤魔化しには気付いていない。表紙の絵を見てその本に興味があるようだ。
「ねぇその本、何の本?」
「これですか? グリム童話集です」
もう一度青年の手に本が渡されると、彼はペラペラとページをめくって中身を見た。挿絵は見慣れたものがいくつもあるようだが、文字は日本語なので「全く読めないや」とおかしそうに笑い声を出している。
見た目こそは中途半端に染めた金髪プリン頭に開けたばかりのピアス穴。気になるところに目がついてしまうのだが、変な方向に都会デビューしてしまった感が歪めない腰の低さにちょっとした親近感が湧いてしまう。彼の手荷物から顔を覗かせる分厚い本も桐子の好感度を上げていた。
「ありがとう。オレはパウル。友人が来るのを待っているんだけど、まだ来なくって。ちょっとの間、オレの話し相手になってくれないかな?」
急なお願いに少々桐子は困ったが、落とした本を拾ってくれるような優しい人なので特に警戒する必要もないだろうと軽く思った。それに海外旅行のハウツー本で、―― 向こうの人は日本人と違って見知らぬ人でも気軽に話しかけてきます。そういう時は変に構えず、楽しく会話をしてみましょう。 ――と書いてあった。自分の語学力を確かめるにはいい機会だろう。
「いいですよ」
「よかった。暇つぶしで持ってきた本はもう読み切っちゃって、どうしようかと困っていたんだ。ねえキミ、グリム童話が好きなのかい? なんのお話が一番好き?」
「どれも好きですけど、うーん……”ラプンツェル”かな?」
「ああ! それでそんなにも髪の毛が長いのかい?」
そういう訳でもないのだが、説明するにも長い話だ。
「いいえ、ただ髪を切るタイミングを逃してしまっただけです。でも、今度からはそう言ってみようかな?」
「あはは、面白い子だね」
桐子なりのおどけにちゃんと反応が返ってくる。学んだ語学が自分のものになっていると自覚できる快感に桐子はもっとお話しがしたいと意気込んだ。
「オレは昔から”若い大男”って話が好きなんだな~」
「なんでですか?」
「だってかっこいいじゃないか! 元は力を持たないひ弱な子供だったのに、巨人の力を手に入れて何でもできるようになったんだ!」
<若い大男>
親指ほどしかない一人息子を持った男性が、畑仕事をしていると山の向こうから巨人が現れた。巨人は親指小僧を捕まえて、大男になるまでその子を育てるのだが、大男になって帰ってきたその子を実の両親は自分の子供だと認めなかった。
両親からは自分が望む物が手に入らないと知った息子も家を出ていき、村の鍛冶屋で職人になるのだが……。
その後の大男の振る舞いが、桐子はあまり好きではなかった。
ケチな親方についた大男は、給料を貰わない代わりに給料日に親方を思いっきり殴らせてくれと奇妙なお願いをする。お話の内容自体は愉快で子供受けが良さそうな作りになっているのだが、正義感などでなく純粋に暴力を振るいたがる主人公に感情移入できないのだ。
楽しそうにどの部分が素晴らしいかと語り続けるパウルに失礼だが、桐子は「へぇ」と軽く合図気を打つ。しかしそれが自分の話に興味を持ったというサインだと勘違いしたパウルは調子に乗って、桐子とハンスが話していた映画についても話し出す。
「そう言えばさっき、映画の話とかしてたよね。ホラーとかサスペンス映画が好きなのかい?」
「ホラーはちょっと……。サスペンスは親の付き合いで数本観ているぐらいです」
「それじゃあ、あの映画は知ってるかな? お金を盗んだ女が途中に寄ったモーテルで殺されちゃう話し。有名なシャワー室の……」 「あのっ!! 私…、怖いのは、本当に苦手なんで」
身の危険を察知して思わず大声を出して会話を打ち切る。
かつて彼女はフランス旅行を計画していた際に、お化け屋敷を予定の中に組み込んでいた。しかしあれはお化けや死体の人形を見て驚く為に行くのではなく、お化け屋敷の雰囲気がゴシック調で美しいと話題だから、苦手でも見に行こうと予定に組み込んでいたのだ。そう、美しさとは罪である。
「あの、もっと明るい映画でオススメとかはありませんか?」
なんとかして明るい話題にすり替えようと頑張るが、どうしても怖い話に戻ってしまう。いっそのこと立ち上がって逃げてしまおうかとも思ったが、振り切れる自信がないほどにパウルの喰いつきは凄まじかった。
万策尽きたと困りはてて意識を厨房の方に送ってみる。ハンスがひょっこりと現れて、助けてくれることを期待したのだ。すると厨房の奥からヒソヒソと話し声が聞こえてくる。どうやら今日はもう上がりのようだ。
「あ……あの、待ってた人が来そうなので私もそろそろ帰ります」
「そうなの? それじゃあ、今日はありがとう。とっても楽しかったよ。良かったら電話番号を教えてくれないかな?」
「え?!」
ハウツー本にも載っていない質問に、桐子は思わずたじろいた。この場合は何が正解なのだろう。
「また一緒にお話ししたいな」
できれば教えたくないのだが、キッパリ断っても駄々をこねられそうだ。それに、自分の話にも付き合ってくれた礼があるので嫌だと言い切るのも気が引ける。
「……、寮の番号ですけど、いいですか?」
気持ちが悪いぐらいに爽やかに頷く彼に、桐子はカバンからペンとノートを取り出した。これで解放されるのであれば安いもの。机にノートを開いて寮の電話番号を書き起こそうとした。のだが、彼女の動作を妨害するように、細くもしっかりとした男の腕が彼女らの机を力強く叩いた。