012 <若い大男> ― Ⅲ
シャトンにお留守番を頼んで町へと繰り出した桐子とウィルヘルム。旧市街を下りてゆき、颯爽と飲食街へ向かって行く。
終わりが近づいていると言っても、まだまだ夏休みは続いている。あちらこちらには観光客が溢れかえっており、町一の素敵なカフェはすでに満員となっていた。評判があまりよろしくないレストランにもお客が押し寄せて、見たことがないほどに繁盛している。
しかし桐子たちは賑わうレストランを通り過ぎ、飲食街から外へと出て行ってしまった。
おすすめのレストランに招待する。そう言ったウィルヘルムに着いて行くだけの桐子は、目的の地が飲食街の中ではないことを知ってハラハラと辺りを見渡していた。
町の中心地から離れてゆく二人は、学び舎がある川の向こう側へと移動する。
橋を渡り終えたその先には旧市街とは雰囲気の違う、何の面白味もない新市街地が広がっていた。
伝統的な木骨組みの家は少なく、似たような家ばかりが並んでいる。凹凸のリズムある家々もここでは規則正しく造られていた。
綺麗に舗装された川沿いの道を向かい風にあおられながら、会話もなく黙々と真っ直ぐに歩いて行った。
しばらくすると真っ白くってのっぺりとした建物が見えてくる。建って間もないと思われるピッカピカな家に吊るされた看板には”レストラン・川のほとり”と書いてあった。どうやらここが目的の地のようだ。
マンションの一室を間借りしたような小さな店であったが、内装は白と黒のモダンなデザインでずいぶんと洒落こんでいる。テラス席には近所の奥様方がパラソルの下でのんびりとお茶を楽しんでいた。
観光客らしい人は桐子ぐらいしかいない。開け放したままのガラス扉を通り抜け、ウィルヘルムは慣れた様子で中央の席に腰をかけた。
桐子も慌てて彼と同じ席のソファーに座ると、机の上に立ててあるメニューに手をかけた。
「注文、お願いしまーす」
「えっ?! 待ってウィル、私まだ決めてない!!」
急いでメニューに目を通すのだが、全ての料理がドイツ語で書かれている。観光地から離れたこの店には英語の説明文は一切なく、料理の写真も貼っていない。まだ読む力が乏しい桐子には解読するのに時間がかかってしまう。しかし呼ばれたウェイトレスは待つこともできずにさっさとカウンターから現れた。
「いらっしゃませ」
メニューに釘付けとなっている桐子に「飲み物はなんですか?」と彼は気軽に聞いてくる。その軽い声にどうにか答えようとして顔を上げるのだが、目の前にいるウェイトレスの顔を見ると、桐子は答えよりも先に驚いた表情を彼に見せつけてしまった。
「ハ、ハンスさん?!」
そこには注文票を持ったハンスが、ニッコリと笑って立っていた。
赤いエプロンのコックコートを着こなして、長い髪を帽子の中にしまっている。両手にも調理用のゴム手袋をはめており、まるでこのお店の従業員のように振る舞っていた。
「水を二つ」
何事もなく注文するウィルヘルムに、彼はサラサラっとミミズのような文字で注文票に書き込んだ。
「ここ……ハンスさんの勤め先ですか?」
「ええそうよ。小さなお店だけど、すっごくオシャレでしょ? お水は炭酸入りだけど大丈夫?」
「あと”狩人のシュニッツェル”と、ポテトは大盛りで。勘定はつけといて」
「アナタは良い加減、遠慮を覚えなさい!」
通い慣れているウィルヘルムはさっさと注文をすませるが、桐子は知り合いの新たな一面を見た衝撃で未だに両目をパチクリとさせている。
「桐子は何にしますか?」
「えっ! えっと……」
もう一度メニュー表を見直すが、まともに単語が入ってこない。
急かされているわけではないのだが、焦ってしまって余計に読めなくなってくる。
「ハンスさんの……、オススメのものをお願いします……」
苦し間際に言ったオーダーは、とてつもなく難しいものだった。さすがのハンスも苦い顔をするのだが、すぐに優しく微笑んで
「分かったわ。任せといて」
と、上機嫌にカウンターへと帰っていった。
彼はすぐさま水を注いで運ぶと、今度はキッチンに入ってゆく。
料理長と思われる人との会話が聞こえた後は、鍋やコンロがぶつかり合う金属音だけが聞こえてきた。
なんとなく状況を理解し始めた桐子は、ようやく店の中を見回した。
休日の昼間だというのに店の中はガラガラで、テラス席の奥様方と入り口付近で本を読む青年、そして自分たち位しかお客がいないことに気がついた。従業員もハンスと料理長以外はいないらしい。
料理街の賑わいを見た後だと、こちらにもお客を分けてもらいたいぐらいの落差だが、この店は賑わいすぎるのもよくないことを教えてくれているような気がした。
川のせせらぎと申し訳程度に流れる音楽。日当たりは良好だが、パラソルが優しい日陰を作ってくれている。次第に甘い肉汁の香りが漂い始めて、桐子たちの鼻先をくすぐった。パチパチと軽快な音を立てる揚げ物もいいアクセントとなっている。普通の忙しい観光ならば得ることのできない贅沢な時間がそこにはあった。
「お待たせしました。”狩人のシュニッツェル”、ポテト大盛りと、特別メニューの”アイスバイン”よ。たっぷりと召し上がれ」
両手いっぱいに運ばれてきたご馳走はどれも美味しそうな香りと色ツヤをしているが、一皿だけフライドポテトが山となっている。ウィルヘルムの注文した料理は両方とも揚げ物で、見ただけで胸焼けを起こしてしまいそうだ。
”シュニッツェル”というのは、平たく言えばカツレツだ。薄く切った肉を更に叩いて薄くして、バターでしっかりと揚げた郷土料理。その上にスライスレモンやトマトソースなどの調味料をかけるのだが、ウィルヘルムの選んだ狩人のシュニッツェルというのは、キノコがたっぷり絡んだ濃厚パンソースで味付けされている。だがそれよりも注目を集めたのは、桐子の前に通された大きな肉の塊であった。
アイスという名前通り、氷のように真っ白い豚肉からはふわりと蒸気が立ち昇る。
これはしっかりと煮込んだ証拠の湯気なのだが、凍った水蒸気が出てきたようにも見えて口の中がひんやりと冷えこんだ。
肉の下にはザワークラウトがびっしりと引き詰められており、これがまた食べる前から酸味を舌に広げてゆく。これには思わずウィルヘルムも前屈みになって覗いてきた。
「裏メニューか?」
「秋の新メニューよ。この間とっても上品な豚のスネ肉が手に入ったから、試しに作ってみたの。そしたらこれが店長にも気に入ってもらえちゃって、大出世しちゃったのよ」
なるほど、つまりこれは今のハンスが出せる最高のおもてなし料理だということか。
その新作の第一号として実食できるのはとても名誉なことなのだが、
「こ……こんなに大きいの、食べきれるかなぁ」
と言うように、桐子の握りこぶし以上に大きい肉の塊は、食べきるのに一苦労も二苦労もしそうである。ランチにしては多すぎだ。
「大丈夫よ。見た目よりも軽いから、サクサクッと食べきれちゃうわ」
「あまるようなら俺のと交換しねーか? アイタッ!」
伸ばした腕を注文票で弾かれる。ウィルヘルムはそさくさと腕を引っ込めて、うらめしそうに桐子のお皿を見つめていた。
食べきる自信のない桐子はウィルヘルムにも少しばかり手伝ってもらおうと思っていたのだが、彼の前に置かれている山盛りポテトを見ていると、その希望も叶わないことだと諦めた。
意を決してナイフとフォークを握りしめると、未知なる料理"アイスバイン"に渾身の一手を刺しこんだ。
豚のスネ肉は、思ってもいなかっほどにホロホロと、面白おかしくほぐれていった。
口に一口運んでみると、程よい柔らかさで崩れてゆく。味は塩胡椒だけかと思ったが、ローリエなどの複数のハーブが口いっぱいに広がった。
付け合わせのザワークラウトをちょいっと乗せて頬張ると、ザワークラウトのきつい酸味をお肉の甘味が包みこみ、ザワークラウトの酸味もお肉のしつこい脂を和らげて食べやすいようにしてくれる。
少しだけ味に飽きたとしても、ハニーマスタードの甘辛が新たな味を作り出した。
しつこいだけじゃない脂身もコラーゲンをたっぷり蓄えて、美味しく食べられるのを待っている。フォークに刺すとぷるりと震え、舌に乗せた途端にはふわりと溶けて染み渡った。
「はぁ〜」と美味しさにため息をつけば、口の中にとどまっていたハーブの香りが、鼻奥から外へと通り過ぎ、爽やかな風がそよぐ草原に寝そべっているような錯覚さえもした。
ハンスの言った通り、見た目ほどには重くない。それどころか全くクドくないのでどんどんとフォークが進んでゆく。
「すっっっごく美味しい! こんな料理初めてです!!」
目をらんらんと輝かせながら頬袋いっぱいに頬張る桐子に、ハンスは満足そうに笑っていた。
「気に入ってもらえて嬉しいわ。長時間煮込まなきゃいけないから、限定個数を決めようとしてたのだけれども……、このままメインのメニューに昇格してもらおうかしら」
ほぼ初となるハンスの野望を聞いた桐子は、彼のことをすっごく応援したくなっていた。
細かい衣がサックサクジューシーなシュニッツェルを食べているウィルヘルムも
「今度は俺もそれにしよう」
と決意を固めるほどに、彼の料理は魅力的で眩しく光り輝いていた。
すっかり料理を食べきってお腹を丸くした二人の前に、デザートのバニラアイスがやってくる。添えおきのサクランボと少しだけ温めたフランボワーズソースが甘酸っぱい誘惑を仕掛けてきた。
弾きれんばかりに膨らんだ腹の中にはアイスすら入る余裕がない。しかしスプーンを一つつかんでみれば、たちまち魔法にかかったかのようにアイスをかっこみ始めるのである。
アイスはお手製なのかミルクの味にコクがあった。
温かいソースがほどよく表面を溶かして舌触りをとてもまろやかにしてくれる。しかもパフェグラスの底には甘くないクリームに包まれたチョコレートスポンジが隠れており、一緒に食べるとケーキを食べているようなお得感で満たされた。
ドイツ留学を初めてから半年の間に、これほど完璧な料理を食べたことがあっただろうか。いや、ない。
残すと思われていたメインのお皿も完食。デザートも休むことなく食べ続けて桐子の胃袋はすっかりハンスの料理に夢中となっていた。言うなれば鷲掴みである。
この贅沢な時間をいつまでも継続させていたい。半分以下となってしまったデザートを今更ながら味わうようにゆっくり食べる。しかし目の前で食べ続けていたウィルヘルムは、スピードを緩めるどころか急いでアイスをかっこみはじめた。
「せっかくのデザートをそんなに急いで……、もったいないよ」
「二時からテレビあんの忘れてた! 俺、先に帰るわ!」
デザートをしっかり食べきると、食い逃げ犯のようにあっという間に店を出て行った。
ウィルヘルムの腹の中もぎゅうぎゅう詰になっているだろうに、よくもまぁすぐに走れるものだ。
彼が席からいなくなった所を見ていたハンスは、ウィルヘルムの後ろ姿を呆れた様子で見送っていた。
「今日からウィルヘルムが大好きなサスペンス映画がね、一挙放送するんですって」
「サスペンス映画?」
桐子の頭の中に切り立った崖の映像が流れ出す。
崖の上には追い詰められた犯人と刑事。下には荒々しい白波が押しては引いてを繰り返す。
張り詰めた空気の中、その現場には似つかわし中年の女性が現れて、優しく犯人を悟らせる。
しかしその実態は……、
「5、60年代のアメリカで作られたスリラー映画よ」
答え合わせを聞いたとたん、頭の中の崖は一瞬にして崩れ去り、ストールを頭に巻いた若い女性が、パキパキとした色合いで映し出された。彼女はオープンカーの助席に鳥かごを置いて海沿いの道を走っている。
「あぁ……。それでウィルは……カラスを使っているわけ?」
「さあ? 私、あの映画のおかげで鳥の大群が怖くて仕方が無いのよねぇ」
電話ボックスに逃げ込んだ女性に向かって、鳥の大群が押し寄せる。そんな映画の一場面を思い出していた二人の頭の中は、確実にシンクロし合っていた。