012 <若い大男> ― Ⅱ
夏休みも終わりが近づき、新学期を控えた学生たちが休息の地から学生街へと戻ってくる。
彼らの顔には不安と期待の色が見え隠れしているが、桐子はいつもと変わらぬ足取りで童話図書館へと向かっていた。
夏休みの宿題をすっかり終わらせた彼女は、自由に舞う羽根のようにスーパーのレジ袋を振り回しながら路地裏へと入り込む。
薄暗くって不気味な一軒家が彼女を出迎えているわけだが、桐子は特に気にすることなく玄関扉を開けて挨拶をした。
「こんにちはー。美味しそうなお茶パック買ってきたんで、お湯借りても良いですかー?」
「ウチは喫茶店じゃねーぞ」
吹き抜けのエントランスには暇を持て余した少年と、服を着た大きな猫が机の上でとろけている。彼らはすっかり夏の暑さに負け、クーラーの誘惑にも負けてプライドもとっくに捨ててしまったようだった。いつもならそんな彼らをシャキッと立たせる人物がもう一人いるはずなのだが……。
「あれ、ハンスさんは?」
「ハンスならバイトに行ってる。最近、時間を伸ばしたんだ」
「へぇ~バイト……って! ハンスさん、バイトしているの?!」
「そりゃあ、そうだろ。グリムアルムは基本ボランティアだからな。ハンスなんかはグリムアルムの頭だから、<童話>優先で落ち着いた職につけないんだ。だから少しでも時間が開けば、外で仕事しているよ」
半年近くも世話になっているのに一度も気にしたことのなかった彼らの生活事情。
<童話>優先というのは、いつでも<童話>の事件現場に飛んで行けるようにと身軽にしている。という事か。
「そうだ。もう昼飯は食べたのか?」
突然のウィルヘルムの問いかけに、壁掛け時計を見ると十二時前。
桐子は頭を横に振りながらレジ袋を持ち上げた。
「ううん、お茶淹れさせてもらうついでに、スーパーで買ってきたサンドウィッチを食べようと思ってた」
「そんなボソボソなパンよりも、美味いもん食いに行こうぜ~!」
暇で死にかけていたウィルヘルムが無理やりに予定を作ると、元気よく飛び上がって出かける準備を始めだす。ようやく退屈から解放されたウィルヘルムの後ろ姿に、取り残されてしまったシャトンはワザとらしくため息を吐いた。
「ま~た私はお留守番係なのですか。
私もこの間の桐子様の大活躍、見てみたかったですなぁ~」
嫉しそうな声とジト目が二人を睨んで離さない。しかしフワフワな猫ちゃんが拗ねているだけにしか見えないので、まったくもって怖くはなかった。
だが彼の言うところ、先日の<雪白姫>の戦いの間、彼は一人で図書館のお留守番をしていたそうだ。<いばら姫>と親交のあるシャトンには、ぜひともその場に居てほしかったのだが「規則だからな」と言うウィルヘルムの言葉に全て片付けられてしまった。
「地方にいるグリムアルムから急な連絡が来ても大丈夫なように、誰か一人は留守番が必要なんだ。でも、正直古いしきたりだし、新しいグリムアルムを増やす気がないのなら要らないと思うけど、ハンスがそうしろって言うからなぁ……」
なんとも融通の利かないシステムである。古い考えを未だに守って、せっかくのチャンスを逃しているのであれば、すぐにでも改良が必要だ。
「私もシャトンには見ていてもらいたかったなぁ。
なんで<いばら姫>は急に目を覚まして、<雪白姫>を追い出す手伝いをしてくれたんだろう?」
抜け出た<雪白姫>を封印したのはウィルヘルムの栞だが、智菊から<雪白姫>を引きずり出したのは紛れもなく桐子と、彼女に取り憑いている<いばら姫>の力のお陰だ。
だがそれほどの力を隠し持っていたのであれば、ウィルヘルムが来る前に片をつけることもできただろうに。
「それは彼女がようやく、失っていた力を取り戻したからでしょう。
それと、<雪白姫>は人間に取り憑いて間もなかったようですしね。
取り憑きたての<童話>は宿り場所を自分好みにベッドメイキングする事で忙しいですから、起きたばかりの<いばら姫>程度の力でも、ちょっかいを出せばこのクリームサンドのように簡単に剥がれてしまうのですよ」
お皿に乗ったクリームサンドを、まん丸い指先でペリッと剥がす。
そして繋ぎのバニラクリームだけを舐めとると、彼の手には二枚のクッキーがだけが残っていた。残った二枚のクッキーは”人”と<童話>。だけどもシャトンはそのクッキーもぺろりと一口で食べてしまう。
「<いばら姫>も本来ならばその時に祓えたはずなのにな」
「彼女もまた、多くの戦いで傷ついた<童話>です。ベッドメイキングする暇も惜しいほどに早く力を取り戻したかったのでしょう。だいぶ前に桐子様に取り憑いた時は、まったくもって無反応でしたからね。
しっかし、<いばら姫>が目覚めた時に彼女と親交のあるこの私がいれば、何か話しを引き出せたでしょうにねぇ~。勿体ない事をしますねぇ~」
最後の言葉は嫌味ったらしく、ネチネチと言ってみせるが桐子は全くもって気付いていない。
だが彼の言いたいことは分かったので、彼女は申し訳ない気持ちにはなっていた。
「そうだねシャトン。でもごめんね、もう<いばら姫>のことはいいんだ」
「どういう事ですか?」
「ハンスさんに止められたの。思っていた以上に<いばら姫>が好戦的だったから、今後も使い続けると私の身が危ないって」
散々<童話>のことについて協力させておきながら、今更探索するなと言う。
誠に勝手な話だが、<いばら姫>が最も強い負の感情”憎しみ”に反応したというのであれば、そう言いわたすのも致し方あるまい。
グリムアルムに協力していた過去のある<いばら姫>に、彼らは信頼を置きすぎていたのだ。もっと彼女のことについて知っておくべきであった。
これ以上<いばら姫>に力を与えるという事は、桐子の精神が<いばら姫>に乗っ取られる可能性を上げるという事。この命令は彼女の身を案じての優しさだ。だから桐子も大人しくハンスの言うことに従おうとしているのである。
「ですが…………。本当の事を言いますと、<いばら姫>はローズ様に仕えていた<童話>でございます。彼女の目覚めはローズ様のこと、クラウン様のことを知るチャンスでもあるのですよ!」
切り札のように取り出されたシャトンの誘惑に、桐子の心臓は大きく高鳴って、興味が忙しく駆り立たされる。が、
「知りたいけれど……、クラウンはクラウンだよ? ローズじゃない」
見た目が似ているからといって、二人の共通点は今の所見つかってはいない。
そういう事を知りたがるのはハンスの方だろうが、彼もそこまで興味を示すことはないだろう。
桐子の言葉にシャトンは小さく頷くが、彼自身がローズを知るきっかけを失い、隠れて唇を噛みしめていた。