011 <雪白姫> ― Ⅳ
細くて白い茨が廊下の中を鳥かごのように取り囲む。
すると関係のない人々が、大きなあくびを一つかいて気絶するかのように眠りについた。
「<いばら姫>……、お久しぶりね」
雪白姫は目の前にたたずむ桐子に向かってそう言った。
「今はその子に取り憑いているの。面白い子。でも、すっかり弱ってるみたい。
普通の人間ならば寝ちゃうけれど、<童話>の私には全然効いていないわ!」
言い終わるや否や、雪白姫は手に持っていた斧を大きく振りかざして、桐子の頭上めがけて下ろしてきた。
斧を振り回す姿が大きいおかげで次の動きが読めるのだが、急に動き出してしまった<いばら姫>の事ばかり考えてしまって攻撃を避ける事で精一杯だ。
今までずっと黙り込んでいた<いばら姫>がなぜ今、動き出した?
思い当たる節はないのだが、彼女の発動した"睡眠の力"のおかげで暴れ回る智菊を他の人たちに見られる心配はなくなった。このまま桐子の有利になるように動いてくれれば大助かりなのだが、またもや彼女は口をつぐんでしまっている。
果たしてウィルヘルムたちが来るまでに、桐子一人で時間を稼ぐことができるのだろうか。
「ねぇ貴女。貴女って、雪白姫ちゃんは大人しくって優しいお姫様だと思っているような子なのでしょう?」
雪白姫の突然の問いに、桐子は<いばら姫>の事を考えるのをやめて彼女の顔をフッと見た。
すると彼女はつまらなそうに桐子のことを見ていたのだが、桐子が顔を上げた途端に苛立った顔に豹変する。
「ばっかじゃないの!! 本当のお母様に三度も殺されかけて仮死状態にされたのよ?! その挙句、王子様が助けに来たかと思えばただの変態。信じられない!!」
桐子の注目がこちらに向いたと気が付くと、雪白姫はまたもや攻撃を仕掛けてきた。攻撃の合間に彼女は自分の不幸を謳ったが、桐子にそんなものを聞く余裕は全くない。それでも雪白姫は謳い続けた。
「だから腹いせにね、お母様に焼けた靴を履かせてみたの。そしたら、これがとっても面白かったのよ。
見たこともないヘンテコダンスで、鳥たちよりも高い声で鳴きわめくの。あはっ!
それでね、突然パタリと動かなくなるの。しーんってね、あんなにも騒いでいたのに急になのよ! それが可笑しくって、面白くって、もう病みつきになっちゃった!
貴女は一体どんな声で鳴いてくれるのかしらね?」
話すことに集中して、手が止まっていた雪白姫の斧がまたもや大きく振りかざされる。
斧は弓の弦が元の位置に戻るかのようにしなって桐子の左腰に襲いかかった。
「ガッハッ!!」
「ほらほら可愛いく鳴いてみなさいよ! さあ早く! 貴女の声を聞かせるのよ!」
左腰を斬られたかと思って押さえてみたが、どこにも傷は付いていない。よく見れば彼女は斧のハンマーの部分で桐子の腰を叩いていた。
雪白姫の話から察するに、彼女の目的は人を殺すことではなく、あくまでも人の悲鳴を聞くことだった。
そのために殺傷能力の低そうな錆びたノコギリや刃の欠けた古い斧を振り回しているのだが、それでも鉄の塊がわき腹に叩きつけられるのだ。桐子は激しい痛みにもだえていた。
炎に焼かれたように腰が熱い。肺の中の空気が全て吐き出されてしまい、急いで次の空気を取り込もうとするのだが、血の味がする咳き込みばかりが何度も出る。嫌な汗がダラダラと溢れ出し、体は縮こまったゴムのように固まって伸び上がらない。しかし彼女は悲鳴らしい悲鳴だけは一度も声に出さなかった。
「強がってないで早く鳴きなさいよ」
足元に捨てられる古い斧。雪白姫は新たに大きなペンチを取り出した。
よく使い込まれているそのペンチは、ギィと不気味な音を奏でて桐子の不安を増幅させる。
廊下の端に倒れこんでいる桐子には、そのおぞましい道具から逃げる力はほとんど残っていなかった。一体何処を狙われるのかと、襲いかかる痛みの恐怖にあらがうように、彼女は両手と顔を隠してグッと息をのんだ。が、その瞬間、一羽のカラスが雪白姫の顔にぶつかった。
「なによ!」
とカラスを振り払う雪白姫。しかし今度は五羽のカラスが一斉に彼女の顔目掛けて襲ってきた。
「……! やめて!!」
桐子は廊下の隅に追いやられる雪白姫を見ながらそう叫んだ。
すると彼女の後ろから、ウィルヘルムとハンスが急いで階段を駆け上る。
「大丈夫、桐子? 上の階の人がこっちだって呼んでくれたのよ」
「やめろとは何だ! 折角、助け……」
助けてやった。と言い終わる前に、カラスを振り払う<童話>の顔を見たウィルヘルムは、みるみると己の顔を強張らせる。
「おい……、何の冗談だ? 全然面白くねーぞ」
ウィルヘルムの動揺に合わせるように、カラスたちも<童話>から少しだけ距離を取った。
カラスの攻撃が止んだことに気がつくと、<童話>は髪を乱したまま司令塔のウィルヘルムの方に振り向いた。
「ハンスさんお願いです! あの子を、智菊を助けてください! 私の大事な親友なんです!!
<童話>は<雪白姫>だって言っていました。<童話>も分かっているし、助かりますよねぇ? ねえ!!」
駆けつけたハンスの腕にしがみつく桐子。彼は一瞬だけ驚いたように体を震わせたが、彼女の顔を見ると氷のように固まった。
上の階から落ちた衝撃でか、彼女の右のひたいは大きく切れて大量の血液が滴っていた。
赤く染まった彼女の顔と両の手のひら。よく見れば足にも大小様々な痣が付いている。そして今もまだ、苦しそうに左の腰を曲げていた。
「…………何をしているの? ウィルヘルム。あの<童話>を早く仕留めなさい」
静かに囁やかれたハンスの声。
その命令にウィルヘルムは眉をひそめた。
「おいハンス、そんな無茶な……」
「早くしなさいウィルヘルム!! 彼女はもう手遅れよ! 彼女はもう、完全に<童話>に取り込まれてしまった! これ以上、被害を出す前に彼女を早く殺すのよ!!」
余りにも衝撃的な発言に、桐子の顔から血の気が一気に引いていく。
「殺せ」という命令を決して言わないと思っていたハンスの口から飛び出してきたその言葉。
その言葉が彼女の親友、智菊に激しく向けられる。
智菊は山奥の暮らしで同い年の友人を知らなかった桐子に初めてそれを教えてくれた。
競い合う楽しみや、悲しみを分かち合う大切さを学ばせてくれた大親友を、ハンスは易々と「殺せ」と言う。
これらの二つの衝撃は、あまりにも大きすぎて、今まで耐え続けていた桐子の限界を大きく崩壊させてしまった。
「そ、そんなぁ!! ハンスさんの……ハンスさんの馬鹿っ! そんな酷いこと言わないでよ!!
もういい。私一人で智菊を助ける! ウィルも、智菊を殺そうとするのなら絶対に許さないんだから!!」
啖呵を切ってもう一度、桐子はノコギリを片手に持ってフラフラとしながら立ち上がった。
左腰の痛みはまだ取れず、それでも雪白姫に向かって彼女は少しづつ歩み出す。
「おいハンス、一体どう言うつもりだ…………ハンス?」
先まで声を荒げながら恐ろしい事を口走っていたハンスは、今は入り混じる情報の中でブツブツと何かを一人呟いている。
「<雪白姫>がなぜここに? 彼女は最初の頃に封印された<童話>のはず。
むしろ自分から望んで戻ってきた大人しい子だと、そう記録に書いてあったのに、それなのになぜ今ここに? こっちの世界に………はっ!!」
その時、ハンスの脳裏に一人の男が思い浮かんだ。
麻くずのように白い前髪に霧かかった森の淀んだ瞳。エラの張った痩せこけた頬に丸い眼鏡の嫌味な老人。
「ハウスト……」
ハンスの顔が真っ青を通り越して真っ白くなった。
「しっかりしろよ! おいハンス!!」
ウィルヘルムの呼びかけに、ハッと目を覚ましたハンスは未だに錯乱状態となっている。
「ウィルヘルム……」
「なーに、考えもなしに口走ってんだよ! お前の仕事はただ俺たちに殺せ殺せと命令する事だけか?
助かるものも切り捨てて、<童話>だけを集めることなのか?!
お前の目指しているものは、平和的に<童話>を集める事じゃなかったのか?! 違うか?!!」
混乱していたハンスの頭が、ウィルヘルムの怒鳴り声に正される。
そしてようやく自分の言ってしまった言葉の恐ろしさに気がつくと、慌てた様子で我に返った。
「あ……あぁ、私はなんてことを……。
ウィルヘルム、お願い。もう一度、桐子をこっちに呼び戻して」
「よし、わかった」
ハンスのお願いを聞き入れたウィルヘルムは、雪白姫の方へと歩いて行く桐子に近づき、大きな声で怒鳴りつけた。
「おい桐子、いったん後ろの方に引け! 大丈夫だ。智菊を助ける方法を考える」
「本当に?! 本当に……智菊を助けられるの?!!」
「それを今から考えるんだよ!!
ほら雪白姫さんよ、しばらくカラスたちと遊んでな!」
そう言うとカラスたちは自由に辺りを飛び回って、桐子との特訓の時のように雪白姫にじゃれついた。
じゃれついた。と言う言葉を使うのは可愛いが、実際のところはあっちこっちを突っつかれたり、引っ張られたりするのでそこそこ痛い。
キャーキャーと騒ぐ雪白姫を一人残して、桐子たちは急いでハンスの元に戻って行った。
「桐子、ごめんなさい。あのっ、私。その……、今までこんなことなかったから」
「助かるの? 今はそれだけを教えて」
桐子の真剣な眼差しに、ハンスは緊張してゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの子の雰囲気が変わったなぁ……、って思ったのはいつ頃?」
「今日の朝。ですかね」
「それならまだ大丈夫かもしれない。
<童話>が取り憑くのは人間の弱った心の部分なのだけれども、人間の全精神を支配するにはそこそこ時間がかかるのよ。しかも弱っている心の部分が小さければその分だけ<童話>の侵略も遅くなる。
だから桐子、<童話>にではなく、取り憑かれている子の方に何か呼びかけて」
「何て呼びかければいいんですか?」
「何だっていいわよ。彼女の名前を呼ぶだけでも、一緒に遊んだお話でも、楽しかった思い出でも。とにかく彼女の心を元気付けるの。そして<童話>の住みづらい環境を作ってあげるのよ。
だけども<童話>を刺激するようなことだけは絶対に言わないでよね。より強い力を得るために、苗床への侵食を早めてしまうから。いいわね」
「はい!」
ハンスのアドバイスを聞いた桐子は三度立ち上がると、先とは違うはっきりとした覚悟を持って雪白姫の方を見た。そして頭の中では智菊との思い出を繰り返し再生し、グッと気合も込めていた。
「ウィルヘルム、彼女の援護をお願いね」
「はいはい、わかってるよ」
面倒臭いなぁ。とでも言うようにウィルヘルムは返事をしたのだが、その目はしっかりと使命のために輝いていた。
彼は久しぶりに己の体をマントに包むと、カラスの姿になって飛んで行く。
「桐子、ノコギリなんかじゃなくってこれを……」
ハンスはカバンからアンティークの美しい櫛を取り出した。
「相手の身を案じるのもいいけれど、自分のことも大事にして」
不安そうな彼の眼差しに、桐子は強く「行ってくる」と答えてそれを受け取った。