011 <雪白姫> ― Ⅱ
「もしもしハンスさん? 桐子です」
「あっ、桐子? 夜遅くにごめんなさいね。実はさっき、クラウンの<守護童話>がやって来て」
「! シャトンが?! 今すぐそっちに行きま……」
「待って! 今日はもう大丈夫よ。余計な心配をかけてしまって本当にごめんなさいね。こうしてアナタに連絡を入れなくては、すぐに飛び出してしまいそうだったから……、この子」
そう言ってハンスはチラリと後ろを見る。
そこにはウィルヘルムに羽交い締めにされたシャトンが、ニャンにゃかニャーと鼻息荒く興奮していた。
「シャトンがアナタとお話ししたいと言うのだけれども、明日大丈夫かしら?」
「行きます。学校の宿題をほっぽり出してでも行きます!」
「予定があるのならそっちを優先して。それを終わらせた後でも大丈夫だから……。
焦る気持ちもわかるけど、とりあえずお互い落ち着きましょう」
ハンスの言う通り、桐子も鼻息荒く電話機に向かって何度もお辞儀を繰り返していた。
急に恥ずかしくなった桐子は大きく深呼吸をして、気持ちをしっかりリセットする。
そしていつもと変わらぬトーンで、照れ隠しをするかのように別の話題をふりだしたのであった。
「ところハンスさん。ハンスさんって、"ニール"って言う名前なんですね。初めて知りました」
「え? あぁ、ふふっ。そうなのよ。父も同じハンスだからね、電話の時はなるべく略さないで言ってるの。逆に驚かせちゃったかしら」
気さくな感じで話しているが、先よりもだいぶ声が沈んでいる。
その差は気にしていなくては気づかないほどに些細な変化であるのだが、もう半年も彼と話をしている桐子にとって、その変化はすぐに分かってしまった。
もしかしたら触れてもらいたくない話題に触れてしまったのかもしれない。
自分から話し出しといたにもかかわらず「あっ、はい」と素っ気ない返事をして、別れの挨拶もほどほどに、桐子は受話器を静かに置いた。
余計なことを言いすぎたと、己の振る舞いを反省し、暗い廊下を戻ってゆく。
三階の角にある自分たちの部屋に戻ってみると、すでに電気は消えていた。
眩しい月明かりのおかげで、部屋の中が片付けられていることが分かった。
智菊は二段ベッドの下でスヤスヤと寝息を立てている。
起こさぬように、「片付けといてくれてありがと」と小声で友人の後頭部にささやくと、桐子も寝支度を済ませて布団の中へと潜り込んだ。
シャトンが童話図書館にやって来た。
彼はいつもクラウンのそばにいるのになぜ?
その以外な事実が桐子の目を覚まし続けていたのだが、いつの間にか彼女も眠りの世界へと旅立っていた。
* * *
薄く開いたまぶたの向こう。夏の日差しと流れる水の音を聞いて桐子はのっそり起き上がる。昨夜はあまりよく眠れた気がしない。
大きなあくびを一つかき、ゆっくりベッドのはしごを下りてゆく。
下には先に起きていた智菊が、鏡に向かって一生懸命に出かける準備をしていた。
時間は朝の七時半。と言っても、今は夏休み期間中なので遅刻というものは存在しない。
「智菊、おはよう。今日は早いね」
「まあね」
「あ、昨日は片付け任せちゃってごめんね」
「別に」
いつもならもう二、三言多く話すはずなのに、やけに短く終わらせる。
彼女は今も鏡に向かってじっくりと化粧を決めていた。にしても、もうちょっとお喋りだったはずなのに……。
機嫌でも悪いのか。そう思って智菊の顔を覗き込んで見てみると文字通り、顔が真っ白になるほどに化粧に化粧を重ねていた。鼻歌混じりであるからに、とってもとっても上機嫌である。
智菊の厚化粧は中学三年生以来の現象で、桐子は思わず引いてしまった。
彼女の厚化粧を真面目に指摘したことがある桐子には、彼女がこの後どうなるかも予想できた。
ここでまた誰かが彼女の顔を厚化粧だと文句を言えば、智菊はムスッと怒って一日中不機嫌になるだろう。だからここは黙って無視しておこう。
賢明な判断を下した桐子はいつもと変わらぬ笑顔を作って、いつもと変わらぬ明るい声で、智菊に変わりなく話しかけるのであった。
「ま……まさかドイツまで来ておいて、宿題が出てくるとは思わなかったよね……」
「そうね」
「今日は十一時から大学の図書館に行くんだよね……。さっさと宿題終わらせようね」
「ええ」
話せば話すほどに気味が悪い。まるで赤の他人と話しているみたいだ。
昨日の夕食は一体何を食べたのだろうか。と、体調の心配もしてみたが、悪くはなさそうだったので予定通りに出かけることにした。
夏休みだというのに図書館の中はガラガラで、みんなあっちこっちへ旅行しに行ったとうかがえられる。図書館が開いているのが不思議なぐらいだ。
しかし読書スペースの真ん中を陣取る女生徒たちもそこにはいる。
彼女たちを見つけた桐子はうるさくない程度にはしゃぎ出した。
「あ、小澤さんたちがいるよ!」
「菅さんと智菊だー。おっひさ……って智菊、何それ? 何かのコント?」
ついに智菊の厚化粧を指摘する者が現れた。小澤ともう一人の女の子はギョッとした目をして智菊の顔をガン見した。
これで今日はもう、帰るまでずっと不機嫌な智菊になってしまう。
やってしまったと焦る桐子だが、智菊の反応は彼女の思っていたようなものではなかった。
「下地が悪くてね。感覚も忘れていたし、キツく塗りすぎてしまったわ」
「感覚って……、毎日やってんじゃん。あんたのナチュナルメイク、めちゃくちゃ上手いと思ってたのにぃ」
「あら、そうだったかしら? でも、貴女たちよりかは大分マシだと思うのだけれども」
悪ノリしてきても嫌味は言わない智菊を知っている三人は、自分たちの耳を疑い、より一層彼女から距離をとった。
「ちょっと! 今日の智菊、感じ悪くない?」
「何かあったんですか? まさか喧嘩でも……」
「ううん。喧嘩なんてしてないよ。昨日の夜まではまともだったし……珍しく」
「でも今日の異常な平常運転は、一味違うと言うか……」
「異常な異常。って感じですよね」
当の本人を無視したまま、三人は勝手な事を話している。
無視されている本人は特に気にもせずに、机の上に置いてある彼女たちの宿題をつまらなそうに流し読んでいた。
「何この絵? ウサギ?」
「ちっ、違います! ヤギです。オスカーくんです!」
それはいつぞやのサッカーチームのマスコットヤギ、オスカーくん。のようなもののイラストであった。
描いた本人がそう言っているのだから、そう言うことなのである。
「小澤さんと吉原さんたちはサッカーをまとめるの?」
「そう。日本とドイツのサッカーについて。菅さんたちは日本昔話だっけ?」
「へへ~ん。ヤーパン文化の集合体でアピールするんだよ」
そう嬉しそうに話す桐子は、トートバックから大量の紙を取り出した。
紙には大きな一枚絵が描かれており、色紙を貼り付けて凹凸感を出している。
「紙芝居? へぇ〜凝ってるねぇ。何これ? 完熟のズッキーニ?」
「違います〜。光る竹です〜。竹取の翁デス〜」
昨日の夜に一生懸命作った力作を、ズッキーニと言われた桐子は拗ねたそぶり見せつける。
頬を膨らませてプリプリと怒る彼女を見た他の二人は、楽しそうに声をあげて笑っていた。
段々と空気が和らいでいき、桐子もつられて笑い出す。しかしそんな彼女たちを智菊は無言のまま、真顔でジッと見つめていた。
やはりどこかがおかしい。
いつもの雰囲気とは明らかに別人となってしまった智菊を、小澤たちはますます不気味がって笑うのをやめてしまった。
「ねぇ、ちょっとあなた」
ついに智菊が声をかけてくる。その標的は日本人形のような大人しい少女、吉原であった。
「え? 私……ですか?」
「そうよ貴女よ。貴女、お肌がとっても綺麗ね。普段はどんなお手入れをしているのかしら?」
「普段は……何も……」
「嘘よ! 何もしてないでこんな綺麗になるわけないじゃない! 東洋の椿油とか、そういうの使っているんでしょ?」
「本当に、本当に何も使っていないんです!
あ! 菅さん、その折り紙は桃ですか? 可愛いですね」
「え? 違うよ。これは火鼠の皮衣だよ?」
桐子のすっとんきょうな答えにも、吉原はニコニコとしながらうなずいた。
彼女は智菊から逃れるために、桐子に助けを求めている。
確かに智菊は前から吉原のことを可愛いとは思っていた。彼女は智菊にとって憧れのアイドルなのである。
それは桐子も小澤も知っている事なのだが、肝心の吉原本人は知らなかった。
何故なら智菊は吉原の事を、遠目から愛でることが好きだったからだ。しかし今日は随分と強引的だ。
小澤と吉原とがサッカーの雑誌を読んでいると、自分の仕事をほっぽり出してまで覗き込んでくる。
吉原が苦手なドイツ語の文章を書いていると、進んで間違えを指摘したり、文法を直してきたりとしてくれる。これだけなら単なる優しいお友達なのだが、嫌に彼女の手に触ってきたり、髪を撫でたりしてくるのだ。これには吉原も泣き出しそうな顔になっていた。
ついに彼女の限界を感じ取った小澤は、桐子に目配せしながら時計を見た。
「わっ! もうお昼の時間だ〜。どうりでお腹が空いてるわけだ」
「本当だ~。今日はこれから人と会う約束があるんだよね。智菊、今からすぐにでも食べれるお店を探しに行こうよ」
「私はもう少し二人と一緒にいるわ……」
「あぁごめん、智菊。私たちもこの後、寮に戻ったらご飯を食べて続きをするの。まだそっちも片付いていないんでしょ?」
「それじゃあ私も寮に戻るわ。こんなの、どこでやってもおんなじでしょ?」
何が何でも吉原から離れる気のない智菊を引き止めるのは、随分と骨が折れる作業であった。
彼女の気持ちを知っている分、より一層気が進まないでいるのである。
確かにおかしくなってしまったが、害がないのは分かっている。桐子は諦めの色を浮かべると、小澤と吉原の顔を交互に見た。
「分かった。じゃあ、用が済んだらすぐに帰ってくるから」
「菅さん、今日はありがとう。辞書だけだと発音とかわからなかったし……」
「私だって日本語訛りだから、あんまし信用できないよ。発表前にはちゃんと先生に聞いといてよね!
それじゃあ智菊、また後で」
「また後で……」
そう言った智菊の目線は、変わらず吉原の横顔をうっとりと見つめている。
今まで一度も見た事のなかった親友の異変に、桐子は心配で仕方がなかった。
しかし待たせているハンスやシャトンの様子も気がかりで、彼女のことはすっかり二人に任せることにした。
「それじゃあ、お先に」
「お疲れさま~」
三人に見送られながら、急いで桐子は出口に向かう。
その時一瞬だけ焦げ臭い、焼けた肉の匂いがしたのだが、振り返っても三人が笑顔で見送っていたので特に気にすることもなく、鼻をすすって外に出た。