011 <雪白姫> ― Ⅰ
丸い月が浮かんだ夜。
その満月を取って付けたような瞳を持つ黒い影が、とある学生寮の一室を遠くの方から眺めていた。
部屋の中には二人の女子学生が、色紙を切ったり貼り付けたりして何かを作っている。
一人はとても楽しそうに、もう一人はその子をもの珍しそうに見つめながら。
「今日は帰ってきてからご機嫌ね。図書館のバイトでハーメルンに行ってきたんだけ? 桐子はん」
緑の色紙を切っている桐子はハサミを動かしながら「そう見える?」と嬉しそうに答えた。
「憧れのメルヘン街道ですもんね。いいなぁ~」
「今度は智菊も一緒に行こうよ! すっごく良い所だったんだよ。
行ったところはキャンプ場なんだけど、緑が綺麗で小さな泉が……」
会話の途中で桐子の元気がどんどんと抜けてゆく。
その姿を見ていた智菊はまたかと言ったような顔をしてため息をついた。
「忙しいね。悲しんだり、喜んだり悲しんだり」
「そう見える?」
「見える~」
「あはは。色々あってね、でも大丈夫。だと思う」
大丈夫。だと言う割には桐子の顔はしおれたまま。大丈夫そうには到底思えない。
「ほほぉ~。余計なお世話だとは思うけど、人に悩みを話すと頭の中が整理整頓されると言いますゾ。ど~れ、お姉さんに何でも相談してみなさい。それとも、私にも言えない、あっは~ん。なお話でもあるのかい?」
「私にそんな色物な話があるとでも?!」
顔を真っ赤に火照らせて否定する。
冗談に素直なツッコミを入れるだけの元気はまだあるようだ。
しかし智菊の思った通り、桐子の悩みは時間を置くたびに膨れ上がるものだった。
このまま放置していれば、悩みは絡まり、その重さに押しつぶされてしまうだろう。
その事自体、桐子もきちんと気づいていた。しかしガスを抜くための話し相手がどこにもいない。
<童話>についての相談なのだが、ハンスならまだしもウィルヘルムには絶対に話せない内容であった。
智菊を巻き込む事だけは避けたかったのだが、せっかく相談に乗ってくれると言っている。
こんな時ほど腹を割って話せる友人を持てた自分は幸せだと、桐子は深くそう思った。
だが、グリムアルムの事、自分に取り憑いている<童話>の事などは伏せて、何故しょぼくれているのかを説明した。
「今日ね、ある子と喧嘩……。したのかな?
とても仲良くしてくれてたの。でも……、今日、大っ嫌いだって言われた。
だけどそう言われるちょっと前にさ、その子に助けてもらったの」
それは見間違いではなく事実であった。
自分の命も狙われるような危うい状況の中、その子、クラウンは桐子を銃弾から守ってくれたのだ。
「……? なんだそりゃ? そんなことがあったの?
でも、あるある~。仲良くしてた子が急にそこまで好きで無くなっちゃうこと。で、また急に好きになっちゃうの。嫌い嫌いも好きのうち。は、違うか。それで? 何か心当たりはあるの?」
「それが……分からないんだ。話そうとしたら帰られちゃって、その時の顔がすっごく悲しそうで……」
「そんで桐子の母性本能にスイッチが入ったわけだ」
抵抗する事なくコクリと頷く。
悲しそうな桐子の顔を見る限り、彼女はその子との関係を修復したいとうかがえられる。
「修復の余地があるのなら、待つしかないんじゃない?
嫌いだという割にはちゃっかり助けているのも、向こう側さんもまだ気持ちの整理ができていないのかも。
何で嫌いなのか自分でも分からなくなっちゃった反抗期みたいなもん?
でも、ほとぼりが冷めるまで待つのはダメだと思うな〜。その人によるけど。
どこかに飛んで行って音信不通になっちゃうかもね。着かず離れずの関係で。
まあ〜、私は相手のバックボーンやら性格も知らずに、桐子の話だけでそう推測しただけだけど〜。聞き出しといて、何のアドバイスもできなくってごめ〜んねっ」
「ううん、全然オッケーだよ! ありがとう智菊。心がスーッとした。さすがは智菊様!」
「そう? ふぉふぉふぉ〜、称えよ崇めよ我は智菊なり! 苦しゅうない!」
天狗のように鼻を高くする智菊を、これでもかというぐらい拍手して持ち上げる。
しょぼくれていた桐子の顔はすっかり元の笑顔に戻っていた。
「やっぱり桐子は笑顔でなくっちゃ!
桐子は知らないと思うけど、私は桐子の頑張っている姿を見て、いつも助けられているんだよ。
これぐらいの相談、いつでも乗るから一人で抱え込まないでちょうだいね!」
いつも自分は智菊に助けられてばかりだと思っていた桐子は、彼女の助けられているという言葉に心底驚いた。
それは桐子が智菊という人間を特別視しているということにも繋がるが、智菊は少なくともそうとは思っていないらしい。
桐子がクラウンの助けになりたいと思うように、智菊も桐子の助けになりたいと思っている。
それは悪魔の見せた夢の中でも確認していた事なのだが、改めて彼女本人から聞くと安心する。
智菊はいつでも、何事でも、全力で向き合ってくれる子なのだ。
「私も、智菊みたいにその子のこと助けられるかな?」
「なーに、でーじょうぶだ。その図太くって図々しい神経があれば、私以上にスンバラシイお助けマシーンになれるよ」
皮肉ぶった彼女の励ましは、桐子の気持ちよい「うん!」という返事で鋭くかき消されてしまった。
そして互いにムッと見つめ合うと、ケラケラ面白おかしく笑い合うのであった。
時間など気にせずに笑っていると、扉をノックする音がした。
時計を見るともう夜の十一時を回っている。
注意しに誰かが来たのかと、二人は申し訳なさそうに「はい」と小さく返事をした。
扉が遠慮気味に開かれると、寮の管理人であるふくよかな女性が覗き込んできた。
「夜遅くに御免なさいね。スガ キリコさんの部屋はここで合ってるかしら?」
「はい。私です」
「えーと、"ハンス=ニール"っていう方からお電話がきてるんだけど、お知り合い?」
"ニール"という名前に聞き覚えのない桐子は困ったような顔をする。しかし、
「童話の図書館と言えば分かるって……」
と言われた途端に、ある人物の顔がパッと思い浮かんだ。
「はい! はい! とっても知っているハンスさんです!」
前に電話を受けた時はそのままハンスとだけ聞かされていたので、一瞬迷ってしまったのだ。
何せハンスのファーストネームを略さずに聞いたのはこれが初めてだったから。
「智菊、ごめん行ってくる!」
「おう、頑張れ!」
元気よく飛び出して行く桐子を見送り、智菊は喧嘩相手からの電話だと勝手に勘違いしていた。
「しかしあいつ、ウィルヘルム君と観光してきたと言いながらも別の男をキープしておくとは……」
いつでも何事にも全力な智菊様は恋に恋する高校生。
冗談として言ってはいるが、相も変わらず適当な妄想を抱いて膨らますのが好きなのだ。
「しっかし、もう十一時過ぎてんのかー。
夜更かしはお肌の天敵ですゾ。明日も早いし、片付けて寝ますか」
先まであんなにもうるさかった部屋の中には、智菊の声だけがしんみりと沈んでゆく。
弱った蛍光灯のチカチカと鳴った音をバックに、智菊は片付けをし始めた。
夏休み明けに発表する小道具たちをトートバックの中にしまい、色紙やハサミたちを元の場所へと戻しておく。
そして下ろしたてのタオルを片手に持って、洗面所へと向かうのであった。
前髪を白いカチューシャで後ろに流して止めると、歯磨きをしようと鏡の前に置いてあるコップに手をかけた。
その時、鏡が智菊の手の動きに反応したかのように、波紋を広げてゆらりと揺れた。ような気がした。
見間違いかと目をぱちくりしてもう一度鏡を見てみるが、やっぱり見間違いのようだった。ただの一枚板がそこにある。
次にクスクスと、彼女を笑う女性の声がした。
「桐子ー? 帰ってきたのー?」
部屋の中を覗きに行くが、誰もいない。
細かい作業をしてよほど疲れているのだろうと、智菊は自分をねぎらい、歯磨きと洗顔をしっかり丁寧にほどこした。
サッパリとした顔をあげて、仕上がりを確認しようと鏡を見る。
すると今度は鏡の中の自分がにっこりと、笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。
「え? なに?!」
驚いた智菊は自分の顔を勢いよく触ってみるが、ちゃんと驚いた顔をしている。
気が付けば鏡の中の自分も同じように驚いた顔を触っていた。
「確かに今……笑ってたよね? え? 私?」
不気味な現象が続く中、智菊は勇気を出して鏡をノックしようと手を近づけた。
するとその瞬間を待ち受けていたかのように、鏡がまばゆい光を解き放つ。
「な、なに?!」
伸びる人影が智菊とは違うシルエットとなって、彼女の体に巻き付いた。
息ができないほどに締め上げられた彼女の体は宙に浮き、脚をバタつかせて抵抗するも、締めつけが緩むことは決してなかった。
無意味な抵抗をあざ笑うかのように、影の口がニタリと歪む。
そして智菊の顔に近づくと、逃げる彼女の顔を抑えこんで無理やりに口づけをした。
次第に抵抗する力も奪われて、鏡の光も和らいでゆく。
すっかり光がおさまると、辺りは薄暗闇に包まれていた。
明かりは隣の部屋から溢れる弱った蛍光灯の光だけ。
その場に崩れ座り込んでいた智菊の顔は、ぼぉっと呆けていて魂が抜けてしまったようだ。
しかし次にはその口を歪ませて、ニタリと不気味に笑ってみせた。