010 <池にすむ水の精> ― Ⅵ
姿勢を立て直した精霊が、疑問を交えて聞いてくる。
しかしクラウンは不機嫌そうに眉を細めるだけで、質問の答えを返すことはしない。
何やら様子がおかしい。辺りの草木がピタリと動きを止めて何かに怯えているようだ。その気配に気が付かない桐子はクラウンの背後に近づいて、彼女を止めようとしたのだが次の瞬間、
「こ……この、裏切り者ぉ!!!! よくものうのうと生きて、妾の前に現れたなぁあああ!!」
と精霊の態度が豹変する。
「ど、どうしたの精霊様?!」
「様子がおかしいぞ!」
「!! 人違いだ! オイラはローズじゃない」
突然の豹変にクラウンも思わず剣を下ろして否定する。しかし精霊は鬼の形相で彼女のことを睨んでいた。
「阿呆を抜かすな裏切り者っ! 髪を切り、容姿を変えようともその顔だけは決して見間違えたりはせぬっ!! たとえ主人の顔を忘れようとも、お前の顔だけは憎たらしいほどにこの脳裏に焼き付いているのだよ、ロォーーーーズゥ!!」
精霊の怒号に合わせて泉が噴水のように噴き上がる。水は鞭のようにしなってクラウンの体を飲み込んだ。
「クラウンッ!」
「やめろ桐子、危ないぞ!!」
とっさにクラウンを助けに行こうとした桐子の肩を掴んでなだめるウィルヘルム。
彼がこの場を収めてくれるのかと思ったが、精霊の顔を見た彼はすっかり怖気ついていた。
水に呑まれたクラウンはなんとか木の枝に捕まって流れの中から脱出するのだが、もう一度津波が彼女に向かって襲いかかってくる。
「お前の首を我が主人に捧げてやる。キサマの絶命が妾の安らぎなのだっ!」
すっかり悪い<童話>に変わってしまった精霊は、人を助けるための力をローズへの憎しみに変えて惜しみなく使い続けている。迫り来る波をクラウンは<冬の庭>で凍らせるのだが、その後ろから来る新たな津波によって彼女の戦略は砕かれた。
「裏切り者! 裏切り者! 主人を返せ! 妾の子を返せぇえ!!」
止む事のない精霊の攻撃はこの森の水を全て使うほどの勢いである。
クラウンは両サイドから来る波を避けるため、精霊の懐に向かって飛び込んだ。だがそれは精霊の仕組んだ恐ろしい罠で、彼女の周りには大きな水の球体がいくつも宙を浮いていた。
号令を出すように精霊が両手を前に突き出すと、球体から水の弾丸が弾き出される。クラウンは足元の水を巻き上げると、急いで氷の盾を精製するのだが怒涛の攻撃にあっけなく壊されてしまった。
「やめて精霊様!! 彼女は違う! ローズじゃない! クラウンよ!!」
「違うものか! たとえヤツ本人でなくとも、子孫が生き延びておることに腸が煮えくり返るわっ!」
「それでもだめよ! 彼女自身には何も罪はない! ウィルも何とか言って、止めてちょうだいよ!!」
「いいや……、あいつには丁度いいんじゃないか? あっちこっちで<童話>を乱暴に捕まえているみたいだし、精霊様も裏切られたって言ってるんだ。少しは痛い目を見ろってんだ」
流石に偽物でもマリアの首を落としたクラウンには、ウィルヘルムの対応も冷ややかだった。腕を組んで、恨みのこもった眼差しでクラウンの行動を見つめている。
「そんなぁ……。精霊様、お願いやめて! 彼女は、クラウンは、私の大事な友達なの!!」
それでもかまわず水の弾丸がクラウンの急所と言う急所をめがけて飛んでくる。なんとか避けながらも傷をつけ、血を流しているクラウンは、反撃の隙を見つけて精霊の左腕を断ち切った。しかし彼女の体は水でできているためすぐに腕は再生し、新たな指示をその手で下す。
ついにクラウンの運命もここで尽きてしまうのか。まだ話すことがあると悔しい思いをする桐子とは別に、精霊は何かの気配を感じ取るとそちらの方へと振り向いた。
大きく目を見開いた精霊の前髪が、風で舞うと眉間に小さな風穴が空いていた。
彼女が見つめる遥かな先に、緑の猟銃を構えるラッティの姿がそこにいる。ラッティは光沢のある、すらりとした緑のドレスを身にまとい、黒犬の毛皮で作ったコートを羽織っていた。
「あ……あやつは、<童話>……?」
眉間に空いた風穴もすっかり埋まってなくなるが、呆気に囚われていたその瞬間に彼女の体は氷に変わっていた。
その威力は本当に恐ろしいもので、辺りの水や草木までもが氷細工のように凍っている。全身ずぶ濡れ状態になっているクラウンまでもが、自身の使った<冬の庭>の力でカタカタと寒そうに震えていた。まさしく捨て身の技である。
クラウンの援護を受けたラッティの狙撃はまだまだ続いていた。凍ってもなお、残った水を操って盾を作る精霊だが、銃弾は盾を避けて彼女の心臓を貫いた。
「"緑の猟銃"……"魔弾"……、緑の悪魔か…………」
そしてもう一発、魔弾が彼女の頭を粉砕する。
「精霊様ぁー!!」
操られていた水は重力に囚われて、滝の様に降り注ぐ。ウィルヘルムが急いで<夏の庭>を発動し、辺りの気温を上げて氷を溶かした。
お陰で精霊の周りには小さな水たまりがいくつもできたのだが、完璧に彼女の傷を癒すことはできなかった。彼女の頭を修復するには、少しばかり水の量が足りないのだ。
クラウンよりも先に、桐子が精霊の元へと駆けて行く。
「桐子…………、妾を使え。妾の力を使って彼奴を射抜くのだ……」
残った力を振り絞り、精霊は水たまりから猟銃を作り出した。
雪解け水のように混じり気のない、美しく透き通った水の銃。力の入っていない両手で銃を受け取る桐子は、彼女に近づいて来るクラウンを怯えた顔で出迎えた。
クラウンの顔つきは初めて会った時のようにキツくつり上り、鋭い眼光で桐子と精霊を見下している。
「ごめんなさい……。無理だよ。私にはできない」
怖気ついて小さく震える桐子を精霊は怒ることなく、優しく彼女の目にたまっていた涙を拭ってやる。
「そうか……、友を撃つ事ほど、酷なものはないものよなぁ……」
寂しそうに笑う精霊に桐子は大粒の涙を流した。
「では妾を、彼奴から守ってはくれぬかの。彼奴には決して渡さないでほしい。そしてそのままハンスの手の中で……、ゆっくりと眠らせておくれ…………」
力尽きた精霊は、紙の束に変わって宙を舞う。
「精霊様!!」
最後に彼女を呼ぶが、もうすでに黒い紙の中へと封印されてしまった。
桐子の元へジリジリと、歩み寄る靴音が聞こえ出す。
マントに腕を隠したままのウィルヘルムはしっかりと、白い栞を握っていた。
次に誰が動くのか、みんながみんなを警戒している。
その中で桐子は精霊に言われた通り、彼女の黒い<童話>のページを、かくまうようにして抱きしめた。
桐子の前にクラウンが立つ。そして右の手のひらを、静かに彼女に差し出した。
「その<童話>をよこしな」
「…………嫌だ」
「よこしな」
「嫌だ」
「よこせって言ってんだろうがぁあ!!」
「嫌だって言ってんでしょうがぁあ!!
なんで?! どうして?!! 前みたいに無理やり奪えばいいじゃない! ほら、斬ってみなさいよ! 殴ってみなさいよ! 殺してでも奪ってみなさいよっ!!」
珍しく怒鳴り散らす桐子に、クラウンは一瞬ひるんでしまった。目を吊り上げ、おっかない顔をする桐子。だがその瞳の奥には、変わらぬ泣き虫な彼女も存在しているのだ。
「どうしたのよ? 何とも言えないの? あなたの覚悟って、そんなものだったの?」
「うるさいっ!! 黙れっ!!!!」
力一杯に振り上げられるクラウンの拳。
怒りで赤く染まった彼女の顔を見た桐子は、覚悟してその場に小さくうずくまった。
それからいくら待っただろうか、クラウンの拳が彼女の背中に振り下ろされることはなかった。
少しだけ顔を上げて、恐る恐る覗き込む。
そこには先ほどの表情からは考えられないほどに可哀想な、弱々しい少女の顔をしたクラウンが、ぼう然と突っ立っていたのであった。振り上げられていた拳は解かれて、彼女の顔を抱えている。
今すぐにでも涙が零れそうなほどに潤んだ瞳。赤い唇は小さく開かれ、静かに吐息が溢れ出す。びしょ濡れになった黒髪から滴る水滴。雪のように真っ白い肌には真っ赤な血がゆっくりと、彼女のシャツにも滲んで広がった。
どうしてそんなにも悲しそうなのか。
どうしてそんなにも強い力を持つのに、弱々しく傷ついているのか。
「…………ねえクラウン。もし良かったら、私にあなたの事を教えてちょうだい。
私はあなたの悲しい顔を見たくないの。あなたの力になりたいの。ねえ、お願い。私をあなたの為に使わせて」
クラウンの瞳は今もなお、虚ろに地の底を見据えている。そして小さく開かれていた唇から、彼女の声がこぼれ出した。
「オイラの……オイラの……こと?」
「そう、そうだよ! あなたの事!! ねぇ教えて? クラウン」
「オイラは…………」
眉間にしわを寄せ、苦しそうに唇を噛みしめる。彼女をここまで苦しませるものは何なのか。桐子はクラウンの腕を取ろうと、自分の腕をゆっくりと伸ばし始めた。
その頃、二人よりも少し離れた丘の上には、不機嫌そうに頬を膨らませたラッティが、猟銃のスコープごしに彼女らの様子を伺っていた。
「なーにやってんのよっ、あの子ったら! さっさと<童話>を捕まえて、さっさと終わらせて、さっさと“クライダーシュランク”を取り戻したいっていうのに、もぉ~!」
一通り駄々をこね終えると彼女は桐子の頭に照準を合わせて、つまらなそうに民謡の一節を呟いた。
「子ぎつねちゃんたら、返してよ。ガチョウをね! さもなくば……、撃つぞ」
猟銃から緑の魔弾が発射する。
遠くにとどろく狙撃の音に、桐子は驚いて音の方へと振り向いた。
自分に向かってやってくる。なぜだかそう感じ取った桐子は無意味にもギュッとまぶたを閉じて、再び小さくうずくまろうとした。だがそれでは遅すぎる。桐子が音の方に振り向き、驚いた顔をした時にはもう、彼女の顔は四方に飛び散りこの世の終わりが来るだろう。
しかし実際には彼女が驚き、瞬きをした瞬間には目の前に分厚い氷の壁が精製されていた。
氷の中には怪しく輝く緑の魔弾が勢いを無くして止まっている。気が付けば彼女の周りにも太い木の根が張り巡らされおり、桐子を守ろうとしていたことがうかがえられる。これはウィルヘルムの力だろう。
スコープで結果を覗いていたラッティも驚き大声をあげて地団駄を踏む。
「なっ!! 何してんのよ! せっかく助けて……」
と、言いかけたところで、クラウンがラッティを睨んでいることに気がついた。ここからの声は聞こえないはずなのに……。まさしく猫に睨まれた鼠のよう。ラッティはその場で凍りついてしまた。
「も……もう! 知らないんだから!」
聞こえるはずもない捨て台詞を投げ捨てると、彼女はその場を後にした。
「クラウン……」
溶けた氷の盾から、魔力を失った弾丸がポトリと落ちる。
しかし桐子はじっとクラウンの顔だけを見上げていた。
彼女の顔は未だにラッティがいた丘に向けられていて、どういう表情をしているのかはわからない。
自分を守ってくれた。
その事に喜びが溢れ出し、今度こそ彼女の手を掴もうと、桐子はまっすぐに手を伸ばした。が、クラウンはその手に気づかずに、「疲れた、帰る」と言って桐子に背を向けた。
「待って、クラウン! 話を……」
「オイラは、お前の事が大っ嫌いだ! ……さっさといなくなっちまえ」
先の続きと言うのか、クラウンは自分の気持ちを桐子に言い放った。
それはあまりにも残酷で、悲しい言葉。
呆然と座ったままの桐子は、去り行くクラウンの背中を何も言わずに見送った。
「は…………はははっ」
クラウンの姿が小さくなり、木々の間に見え隠れし始めた頃に桐子は小さく笑いだす。
ついに気が狂ったかと、心配したウィルヘルムが急いで桐子の無事を確認した。
「ウィル……クラウンがね……、クラウンが、私を守ってくれたの」
嬉しそうにヘラヘラと笑っている桐子。
「おっ、おう。そうだな……」
と、ウィルヘルムはその場しのぎの返事をする。
確かにクラウンは桐子を守った。
被弾が恐ろしくって盾を作ったのではなく、きちんと桐子の前に作っていた。
それはウィルヘルムにも理解できないクラウンの行動。そしてそれとは反した彼女の言動。
どちらが本物の彼女で、誰に嘘をついているのか。
「大丈夫。クラウンはやっぱり優しい子だよ……」
そう言って嬉しそうに涙をこぼす桐子に、ウィルヘルムは困ったような顔をした。
* * *
黄色い木漏れ日に染まった森の中を、早歩きでクラウンは進んで行く。
彼女は血が出そうなほどに拳を握りしめ、進む道を意味もなく睨みつけていた。
「クラウン様。そんなにずぶ濡れで、お風邪を引きますよ?」
木の陰から、オレンジ色の猫がするりと現れた。
彼はおしゃれな三角帽子と緑の服を身につけて、自慢の長靴でゆらりと木々の間を縫って歩く。
「風邪は引きたくないな。会いたくもない」
「それでは、ちょいっとそこらで日向ぼっこをしましょうよ! ほらほら、折角のお天気ですよ。お昼寝しなくちゃもったいない!」
猫はごろりと日の当たる石の上に寝転んだ。平たくって白い石は見るからにポカポカと温かそうで、猫は気持ちよさそうに背筋を伸ばしている。
「日向ぼっこ…………ダメだよシャトン。オイラには休んでいる暇はない」
クラウンはシャトンの誘惑を振りほどき、ますます歩く速度を上げて行く。うら悲しい主人の後姿を、シャトンは不安そうな顔をして追いかけた。
そんな彼女らを少し離れた所から、満月の瞳が監視していたことを誰ももう知ることはない。
ハーメルンから離れてクラウンが新たな基地に帰った頃、外はすっかり夜の暗闇に沈んでいた。鳥も森の動物たちも深い眠りについている。しかし静寂が支配するこの世界を女の金切り声が引き裂いた。
「ちょっとあんた、折角助けてあげようとしたのになんで邪魔したのよ?!」
玄関を開けてからとび出した女の第一声。先に帰ってきていたラッティは、可愛い顔を崩してまでクラウンを頭ごなしに怒鳴りつけた。しかし負けじとクラウンも声を荒げて彼女を抑え込もうとする。
「うるさいだまれ、<童話>の分際でっ! オイラに口答えするな!!」
「はぁー? アッタマにきた。何よその言い方。人間様の方が偉いって言うのですかぁ~~?!」
ギャンギャンと言い争いながら二人は埃っぽいリビングの中へと入っていく。今度の拠点は雪山にある二階建ての立派なコテージで、人のいないシーズンオフを狙って住み着いているようだった。
「帰ってきたか。待ちくたびれたよ」
赤いソファーに腰を掛け、古い地図を読んでいた男が薄ら笑いを貼り付けながら出迎える。しかし彼の微笑みはハンスと比べるとだいぶ劣っており、話し出した途端にストンっと崩れ落ちてしまう。
「大体の話は彼女に聞いたよ。それで、どうして失敗したのかわかるかい?」
敬愛する先生からの質問だというのにクラウンは答えずに黙っている。そんな彼女に追い打ちをかけるようにラッティは声を張り上げた。
「この子が邪魔しなければ捕まえられたのにぃ!」
「だって桐子が!!」
桐子がその場にいるだなんて思ってもいなかった。隠れて<童話>の様子を見ていたが、彼女とウィルヘルムがいることは想定外であったのだ。その動揺と、桐子のクラウンに対する言葉があまりにも衝撃的で、クラウンは手も足も出なかったのだと弁解する。しかしそんな理由が先生に通用するとは思っていない。
「また桐子か。前にも言ったよな、もうあの子たちには関わるなと。もし偶然に会ったとしても、お前ならちゃんと言われた事ぐらいはできるよな?」
クラウンは俯きながら唇を噛み締めた。結果として彼女は先生に言われたことができなかった。先生の期待を裏切ってしまった自分に腹が立って仕方がない。
「でも桐子が<童話>をよこしてくれなかった」
「じゃあ、殺してでも奪えばいいじゃないか」
「そんなこと!! ……そんなこと、できないよ」
「できないじゃない。やるんだ。なぜお前は<童話>を集めている? 使えないグリムアルムたちの代わりに、みんなを<童話>から守るためだろ? 今更一人や二人……。僕たちの邪魔をする奴らを殺したって、向こうの方が悪いんだから仕方がない」
「でも……」
「でもじゃない。なぁ、クラウン。お前は一体何を戸惑っている。僕たちのやっている事はいずれ、良き事として認められるんだよ。<童話>のせいで何人の人が死んだ? 何百人の人が意味もなく殺された? それなのに、そんな風に心が迷うのは余計な事を考えているからだ。その迷いがお前を弱くする。本来ならば、こんなにも傷つかずにお前は戦えるはずなのに……」
そう言って厳しく当たっていた口調も優しく変えてクラウンの傷口を撫でてやる。
乾いた血液がパラパラとヒビ割れて、彼の指先を小さく汚した。
「お前はちゃんとできる子だよ。あんまり僕を悲しませないでくれ」
クラウンは弱々しくうなずいた。こんなにも期待されていたのに、自分は一体何をしていたのだ。
今日はもう休むようにとうながされ、クラウンは二階の自室へと上って行った。
”クライダーシュランク”の為に「ねぇ次はどこに行けば良いの?」と積極的に先生と話すラッティの声が雑音に聞こえて耳を塞ぎたくなっていた。
二階に上り、狭い廊下をトボトボ歩く。
廊下の窓枠に並べられた短い蝋燭が、まるで自分の惨めな気持ちのように思えて悲しくなった。
「クラウン様! なぜもっとガツンと言ってやらないのですか?! シャトンはもう我慢の限界です!!」
クラウンの陰から現れたシャトンが、唸るようにして声を上げた。
「一緒にここを離れましょう! これ以上あいつの言うことを聞いても、あなた様の為にはなりません!」
「オイラは自分の為にだなんて思っていないよ。みんなが幸せになれるなら、それでいい」
寂しそうなクラウンの瞳が窓の外へと向けられる。黒い画用紙を貼り付けたように景色は全く見えないが、ショボくれた自分の顔ははっきりと窓ガラスに映っていた。
「おいたわしやクラウン様。それでしたら、ここで無くとも叶えられます。そうだ! 桐子様の元に……」
「それは!! …………それは、絶対にだめだ。
だって桐子がかばう<童話>やウィルヘルム・フェルベルトを、オイラは何度も傷つけた。桐子にもいなくなっちまえって言っちまった……。オイラはもう桐子が大っ嫌いだ! だから桐子も……桐子もオイラの事が嫌いになったんだ」
嫌いだと言う割には悔しそうに拳を握るクラウンの手を、シャトンの丸い猫の手が優しく解いて重ね合わせる。そして彼は精一杯の猫なで声で彼女の事を慰めた。
「そんな事はございませんよ。先ほどの桐子様の言葉をお聞きになりましたでしょ? やっと、あなた様を知ろうとする者が現れた! 彼女こそ、あなた様にふさわしい良き理解者に……」 「そんなの嘘だ! 散々嫌がらせをしてきたんだ! あれはオイラに復讐するための口実だ!」
激しく抵抗するクラウンに、どうしてこうも素直になれないのか。と、シャトンは深く疑問を抱く。
呆れたシャトンはもう一度、彼女を説得しようとしたのだがクラウンは続けて話し出す。
「それに先生の期待を裏切ることはできないよ。先生はこんな世の中からオイラを助けてくれたんだ。一緒に平和な世界を作ろうって、そうオイラに約束してくれたんだ。だから先生を置いて行くなんて、そんな酷い事オイラにはできないよ」
苦しそうに眉をひそめるクラウンだが、その表情は真剣そのもので、決意が固いということがよくわかる。だがそんな彼女の決意を、シャトンは最後まで理解してやることができなかった。彼は申し訳なさそうに頭を横に振る。
「シャトン、ちゃんと言いなよ。お前には着いていけないって。オイラは大丈夫だ。今までありがとう」
「……」
心のどこかで着いて来てくれると信じていたクラウンも、彼の沈黙には残念そうに微笑んだ。
シャトンの頭をゴシゴシと強く撫でてやり、クラウンは自分の部屋へと入って行く。
閉じられようとしている扉はいつもよりも重い音を立てていた。
最後にガチャンと冷たい音を廊下中に響き渡らせると、シャトンは弾ける思いに任せて扉に向かって飛び跳ねた。
「クラウン様!! これだけはどうか忘れないでください! 私は常にあなた様の味方でございます! 例えあなた様が魔女として磔刑にかけられようとも! 悪魔との契約を交わされようとも! この世の全てがあなた様の敵になろうともっ!! 私だけは……私だけは、最後まであなた様の味方でございます。それだけはどうか、忘れないでください…………」
主人を想うシャトンの心。それは精霊のものと似た忠誠心。彼らは自分の主人を誰よりも慕い、愛している。だからこそシャトンはこの屋敷から出て行くことを決意した。
シャトンは窓から外へと飛び出すと、疾風のように駆けて行く。全ては愛する主人を救う為。彼女を受け入れる新たな場所を作る為。強い志を胸に抱き、シャトンは常闇の中へと消えて行った。
彼の目一杯の優しい言葉を聞いたクラウンは、暗い部屋の中、扉を背にして一人泣き崩れていた。
一体何が良くて悪いのか、クラウンの頭の中はすっかり混乱しきっていた。
シャトン、オイラは一体何を間違っているんだ?
悪を倒し、平和を望むことがいけないのか?
平和を求めればどこかにしわ寄せがやってくる。それは仕方がないことだろ?
先生は言った。僕たちの功績はいずれ認められる。と。
認められることがいけないのか?
別にオイラはみんなが幸せになれるなら、それでいいんだよ。
英雄になることがいけないのか?
そんなの求めてないよ。人の上に立つだなんて考えたこともない。
それは違う。そんな人にはなりたくない。
でも……、皆に愛されるってどんな感じなんだろう。
それを知る好奇心がダメなのか?
だとしたらオイラは間違っててもいい。
それの為に戦うってわけじゃないけれど、偉いねって褒められたいから。
だけど間違ったオイラは大悪党だ。
そしたらさ、<童話>を集めた最後に"わるいやつ"をこの手で倒せば、みんながオイラを愛してくれるかな?
クラウンは自分の膝を抱えながらゆっくりと、ゆりかごに揺られるように静かな深い眠りについた。
* * *
夜の道を駆け行く風。野を超え、山を越えてとある街に転がり込む。そして片っ端から店の看板を見て回り、探していた館を見つけると玄関を強く叩いて開いた。
「桐子様! どこにおいでですか?! 桐子さまぁ!!」
「ぅるっせえぇなぁ! 何時だと思ってんだ!!」
シャトンの激しい来訪に、二階の扉を勢いよく開けたウィルヘルムが出迎える。双方の荒々しい怒号に驚き、心臓をバクバクとさせながら一階の奥の部屋からハンスが急いで現れる。
「あらあらもう! こんな時間に何? 近所迷惑……って、あらアナタ<長靴をはいた牡猫>?」
「おぉ! あなた様が今の……ハンス様ですか? 桐子様は今どこに?」
「桐子はここにいないわよ。学生寮に住んでいるの」
「なんと! では、失礼!」
「待ちなさい! そんな暴れて迎えに行ったら、桐子もびっくりして心臓が止まっちゃうわよ! なにがあったの?」
走る足を急いで止めて、シャトンはくるりとハンスの方へと向いた。
「どうかお願いします。クラウン様を……、クラウン様を助けてください!!」
<つづく>