010 <池にすむ水の精> ― Ⅱ
* * *
「明日からの夏休み、家族と旅行に行く者がほとんどだろうが、ハメを外しすぎないように気をつけるんだぞ! それと、日本からの留学生たちはこの後、君たちの先生から大事なお話があるのでこのまま教室に残るように」
学期最後の授業が終わり、ついに夏休みがやって来た。
元からこのギムナジウムに通う生徒たちは嬉しそうに教室を出て行くが、留学生組は浮かない顔をしたまま黙って席についている。共に留学してきた先生方も疲れた顔をしながら教室の中に入ってきた。だがその中にはビシッと気を保ったままの教師が一人いる。
彼女はこの夏休みの完璧なプログラムを管理する代表の教師で、明らかに重たそうな教材をバンッと音を立たせながら教卓の上に置いてみせた。
「みなさん! 二月から続いているドイツ留学も半年ほど経ちました。だいぶこの学校にもなじみのご友人ができたことでしょう……。ですが私たちは遊びに来たのではなく、学びに来たのです!」
そう言うと他の先生方が生徒一人一人に夏休みの宿題を手渡した。それはまるで囚人に足かせをつけるように重くて酷い仕打ちである。
「ただいま配りました宿題は夏休み明けに提出することはもちろんの事、それとは別に新学期になりましたら、下の学年の人たちにドイツ語で日本の紹介をしてもらいます。半年間で学んだ語学を存分に披露してもらいますから、その準備もしっかり夏休み中にするように!」
恐ろしい刑罰がさらに加えられ、生徒達はなすすべもなく、力ない返事をするのであった。
「桐子ー! 一緒に発表会組もうぜ!! 何やる? 何やる?」
しかしこんな時でも智菊の声は無駄に通る。
説明会が終わってもなお、重たい空気が流れる教室の中で智菊は元気よく宿題が詰まったカバンを振り回すのだ。
「日本の紹介ねぇ……。御伽草子とか?」
「桐子らしいなぁ~。こっちの子に受けるかなぁ? でもいいな~、桐子は」
「え?」
「いっつもさ、ウィルヘルム君とか現地の子といっぱい話してるじゃん? だいぶペラペラなんじゃない? 私は結局日本人グループとだべっちゃって……」
実際桐子の語学力はウィルヘルムに会った頃よりもはるかに上達していた。
まだまだ若いので勉学の吸収力が高いのもあるだろう。
方言がない限り、この地区で暮らすことも難儀ではない。
「智菊だってちゃんとウィルと会話してるじゃん! 通じてるから大丈夫だよ」
そんな慰めをしたって智菊が納得するわけがない。負けず嫌いな彼女は、ぶーっと頬を膨らませて「この夏休みで絶対差をつける!!」と桐子に宣戦布告をするのであった。
そんな桐子は今日も今日とて童話図書館へと足を運ぶ。
学校の図書室にこもるのもいいが、話し相手がいなくては語学は上達しないもの。
図書館の扉を開けば長袖ロングドレスの大男、図書館館長のハンスが香り立つハーブティーを用意して桐子の来訪を歓迎する。
どうでもいい変化だが、彼の服装がちょっとだけ夏仕様に変わっていた。
指開き手袋を付けているといったポイントは変わりないのだが、少しだけ肩を出してたり、大きなスカーフを首に巻いていたりと、気持ちおしゃれ度数が上がっていた。
「ありがとうございます。ハイビスカスですか? いい香り~。そうだ! ウィルの夏休みの宿題はどんな感じなの?」
「は? 宿題? あるわけないじゃん。夏休みだぞ?」
そう言ってウィルヘルムはアーモンドの入ったバナナケーキをバニラアイスと共に頬張った。
「宿題ないの? いいなぁ~、私は必修教科の宿題と発表会の準備だよ」
桐子は重たそうに手提げかばんを机に置いて、だらしなくその上に突っ伏した。
その際、机が教材の重みで小さく揺れたのだが、その揺れはウィルヘルムの常識を大きく揺さぶった。
「日本人は学生の時から働きすぎなんだよ……休みだぞ?」
「これでも日本にいた時より少ないんだよね~」
「うげっ、正しく労働マシーンを作る社会だな」
憐れむ彼の目の意味を、桐子はよくわかっていない。
ハンスに出されたバナナケーキを彼女は幸せそうに味わっていた。
「それでも自由な日はあるのでしょう? 桐子は夏休み、どうするの?」
「智菊や他のクラスメイトと一緒にフランス旅行に行くんです! チューチューランド イン ザ パリィース!!」
今からとろけ出している彼女の笑顔に、ハンスは気まずそうに「そう……パリ……」と小さくつぶやいた。
「あの…………言わなかった私が悪いのだけれども……<童話>に取り憑かれているからには……その……、ドイツの外には出られないわよ」
「え!! なんでですか?!」
驚きの新事実に思わず桐子は飛び跳ねた。
「<童話>たちがこれ以上逃げ出さないように、初代のグリムアルムが彼らに首輪をつけたのよ。飼い犬のようにね。そしてそれらをまとめる楔から一定の距離を離れることができないようにしているの。楔の位置は教えられないけれど、だいたい昔のドイツ連邦の国境線から出ないようにと言われているわ」
「その範囲から外に出てしまったらどうなるんですか?」
「<童話>たちに激しい痛みが襲いかかる。それも命の危険を感じるほどのね。
だけど<童話>たちは死ぬ事ができないから、死ぬ事もなくずっとその痛みに耐えなくてはならないの。死ぬ事もなく、意識を保ったまま痛みに耐え続けるだなんて、現実的ではないでしょう?
結局彼らは取り憑いている人間を殺すか操るかしてこの地に戻ってくるのよ。楔の方に少しでも戻って来れば、痛みは引いてしまうんですって。いくら<童話>に強い<童話使い>でも、この時ばっかりは一瞬にして自我を乗っ取られてしまうのよ。そしてもう二度と、<童話>に支配されたまま、彼らは帰ってこない……」
「それじゃあ私なんか、国の外に出てしまえば……」
「<いばら姫>に取り憑かれてはい終わり。
最悪、そのまま暴れられて死んじゃうかも」
思っている以上に自分は死に近い場所に立たされている。そう改めて思い知った桐子は顔を青くしてその話を聞いていた。そしてせっかく立てた計画を実行できないことに絶望する。
「そんなぁ~……コープス・マナー楽しみにしてたのにぃ……」
「お化けはダメなのにお化け屋敷は平気なのかよ」
ウィルヘルムの鋭いツッコミに、桐子とハンスは無視を決める。
そしてそのまま二人は悲劇の確認をし始めた。
「本当にごめんなさいね。本来ならば、とっくに祓えていても良いはずなのに……」
「ノートルダム大聖堂も?」
「ええ」
「モンサンミシェルも??」
「私も行ってみたいわ」
「お~シャンゼリゼ……」
「シャンゼリゼ通りでお茶とかしてみたかったわよね。本当にごめんなさい」
ハンスは本当に申し訳なさそうに桐子に謝っていた。そんな彼の姿を見て、桐子はこれ以上彼を責めるような事は言わなかった。
きっと彼もバカンスとやらを謳歌してみたいのだろう。
<童話>に取り憑かれていたら外に出れないと言うのだから彼の場合、幼少の頃からそうなのだ。彼にとって南国というものは童話の世界よりもおとぎの世界なのだ。その表れがあの肩出しドレスとハイビスカスのハーブティー。そして南国フルーツの代名詞とも言える果実で作ったバナナケーキ……。
桐子も少しだけ申し訳ない気持ちになってしまった。
「でも、でもドイツ観光ならし放題よ! ウィルヘルム、アナタの夏休みのご予定は?」
「誕生日とマリアの命日で実家に帰る以外はこっちでのんびりブラブラと……」
ウィルヘルムは大きく口を開いて、のんきにケーキをパクリと食べる。
しかしそんな彼にハンスの赤い瞳が不気味に光った。
「そう…………。桐子、メルヘン街道とか興味ある?」
今度は桐子の瞳が輝きだした。
「あります! あります! ちょー行きたい!!」
「旅費とかはこっちで出すから……」
「そんな! 大丈夫です。自分の分は自分で出します」
「それじゃあ、アナタにお願いがあるの。ウィルヘルムの監視をしてくれる?」
「ぬぁ?!」
「ウィルの……監視?」
「実はメルヘン街道沿いのリゾート地から<童話>祓いの依頼を受けてるの。交通費はもうすでにもらってしまったのだけれども、この日は別のお仕事が入ってて……。代わりにウィルヘルムがサボらないように監視してもらえないかしら?」
「なーに勝手に……」
「分かりました。出発はいつですか? 予定空けときます!」
「ちょっ、おいっ!」
「急で申し訳ないのだけれども、三日後。一日、二日ぐらいなら延ばせるかも。寄り道せずに現地に着いたら、ウィルヘルムを仕事場に追いやって、たっぷりバカンスを楽しんでちょうだい! お仕事の終わったウィルヘルムはガイド役とか、荷物持ちにしていいから……」
「だ・か・らっ! なーに勝手に決めてんだ! てめーらぁ!!」
ウィルヘルムの怒鳴り声が部屋の中に大きく響く。しかしハンスも桐子も動じない。
誰だって理不尽な予定を勝手に立てられれば怒るだろう。しかしハンスが勢いよく彼の顔に依頼書を叩きつけると、恐ろしい現実を宣告する。
「働かざるもの食うべからず。この家にいるからには働いてもらうわよ!」
「夏休みだというのに殺生な!!」
「グリムアルムに休みなどない! 私たちの使命は悪しき<童話>たちから人々の安全を護ることよ? アナタはそれを怠ってバカンスを楽しもうとしているの?」
せっかくグリムアルムとしての覚悟を決めたウィルヘルムにこの言葉はずいぶんキツイ。社会の歯車に組み込まれたウィルヘルムは、弱々しくハンスの手から封筒を受け取った。
「それで……? 場所は?」
……
………………
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「ハーーーーメルンっ!!」