010 <池にすむ水の精> ― Ⅰ
南ドイツの鬱蒼と生い茂る森の近くに小さな町がポツンとある。
おもちゃ工場が集まる歴史的な町なのだが、離れには廃墟同然の木組みの家が寂しく一軒だけ建っていた。家までの道のりは雑草に覆われて歩きづらく、屋根瓦や家の土台にはしっかりと苔が根を下ろしていた。長いこと見捨てられているようにも思えるが、窓際には明かりが一つだけ点いていた。
とっぷりと暮れた夜の中、その明かりに誘われて廃墟の中に入ってみると、そこには想像していた通りの侘しい光景が広がっていた。
腐った家具に剥がれた壁紙。穴抜けた床には新たな芽が腕を伸ばしている。明かりの正体は広縁の窓際に置かれた数本の蝋燭の塊で、互いに醜く溶け合って必死に生きているようにも見えた。
童話図書館とは全く別の、自然によって築き上げられた人間を拒絶する雰囲気に誰もが従いそうになる。しかし白いコートを着た男だけが、空気も読まずにその中央で突っ立っていた。
男は入り口に背を向けてレンガの暖炉を見つめている。その暖炉はこの建物の中でも唯一、人工的に傷つけられた跡があり、何度も殴られて角の方が崩れていた。
目深に被った帽子のせいで男の表情は読み取りにくいが、蝋燭の明かりが時折作り出す光と影の造形によって笑ってはいないことは確認できた。楽しいことは考えていないようだ。
「そこに残りの<童話>を隠していたの? 滑稽ね。大口を叩いていた割にあっさりと盗まれちゃうなんて」
彼の背後から一人の影が歩み寄る。
愛らしいネズミの帽子をかぶった金髪の、これまた美しい若草色の瞳をした少女が、せっかくの可愛らしさを台無しにしてまで人の失敗をコケにする。
「グリムアルムから私を守るって約束も破っちゃったし、この前の話は無かったっことにしましょうよ。私、優しいから怒ったりなんかしないわよ。それじゃあ元気でね。ばっはは~い」
言いたいことは言ってやったと、得意げになって立ち去ろうとするのだが、その途端、部屋と広縁を仕切っていたボロいカーテンの隙間から使い古された大剣が現れた。剣は下から上へと空を切り、彼女の首に添えられる。
「お前、何言ってんだ?」
カーテンの陰からくせ毛を一本だけ立たせた青年。いいや、少女クラウンが赤くて鋭い眼光をラッティに向けて睨ませる。
音もなく現れたクラウンに、ラッティは驚いて後退るのだがすぐに我に返って噛み付いた。
「だってハウストから守ってくれなかったじゃない!! それに奴らの目的があんた達の<童話>集めの妨害だって言うのなら、私は降ろさせてもらうわよ!」
確かにクラウンの目的は<童話>を集めることなので、今後ともハウストと出会うことは何度もあるだろう。しかしそんな事よりも、クラウンは彼女に対して随分と苛立ちを覚えていた。
「ハウストならオイラが相手にするけどよ、今回のは予定通りに先生の後をついて来なかったお前の方が悪いんだぞ。そのせいで<童話>が盗まれたんだから、どうしてくれるんだよ」
「盗まれたのはあんた達のせいだし、私が何しようたって勝手じゃない! 私について来なかったあんた達の方が悪いのよ!!」
なんとも勝手なことを言う子である。
本来、彼らが立てていた計画では、手持ちの<童話>をラッティに預けた後、各地に隠しておいた<童話>を集めに旅に出るはずだったのだが、縄張り意識の強いラッティが自分のテリトリーに<野良童話>が入ってきたことを感知して、彼らに何も言わずにその場所へと飛び出してしまったのだ。そのせいで予定が狂ってしまったのだから、クラウンが苛立つのも仕方がない。しかし当の本人は知ったこっちゃないと他人事のように振舞っている。
「クラウン、お前が持っている<童話>は?」
今まで黙っていた先生も、ようやくクラウンにだけに話しかけた。
「前に捕まえた<ホレおばさん>と……、<赤薔薇>の二つだけだ」
「とりあえずそれらは僕が預かろう」
「ちょっと、話聞いてるのー?!」
完璧に無視されて余計に腹を立てるラッティは、なんとかして彼らの上に立とうと恐ろしい考えを巡らせる。
「今、あんた達を殺して”クライダーシュランク”の中にしまっといた<童話>を全て逃してやってもいいのよ~? そうしたら勝手に恩を着てくれそうじゃない? ピンチの時に喜んで私の盾になってくれそう!!」
脅しのつもりがすっかりその気になってしまったラッティは、先生から授かった”魔弾の猟銃”を、まるで元から自分の物であったかのように取り出した。次第に彼女の瞳がギラギラと輝きだし、不敵な笑みを浮かべはじめる。
思い立ったが吉日。そんな言葉が似合う感じに、ラッティはすぐさま銃口を男の背中に合わせた。が、彼女の戯言に飽き飽きした先生がついに言葉を口にした。
「<腕のいい猟師>……少々、彼女を縛ってはくれないか? お願いするよ」
その言葉を放った途端、ラッティの持っていた猟銃がグニャリと粘土のように折れ曲がり、彼女の体に巻き付いた。一瞬にして両腕の自由を奪われたラッティは、何が起きたのかとただただ驚く事しかできない。折れ曲がった猟銃をクラウンが勢いよく引っ張ると、お姫様は無様にも両ひざをついて倒れてしまった。
先生はラッティの方に振り返ると、太陽の色をした金の巻き毛から泥のように腐りきった瞳をのぞかせて、自分の命を奪おうとしたお姫様を見下した。
「別に僕はキミが何してようが構わない。しかし、僕の<童話>をちょろまかそうだなんて馬鹿な考えだけはするんじゃないよ」
「何言っちゃてるの? あんた。<童話>はあんたのおもちゃじゃないし、人間風情がイキがってんじゃあ……」
先生の真っ黒い瞳がラッティの瞳を静かに捕らえた。それは決して怒っているとも、哀れに思っているとも感じられない不思議な瞳であったのだが、底なし沼に片足を突っ込んでしまったような感覚にラッティは怖気づいて口をつぐんでしまった。
「すべて揃えてからと思っていたが、仕方がない」
何かお仕置きでもするのかと、肩を強張らせて身構える。しかし彼はもう一言、また小さく口を開いて言った。
「クライダーシュランクに鍵をかけてくれ。お願いだ」
思いもよらぬその言葉に、つぐんでいた口が自然と開いた。
「な……何よいったい、お願いって。そんな指図、誰が聞くものですか! クライダーシュランッ……クラッ、クライダァッ!!」
男に抵抗するようにワザと”クライダーシュランク”を呼び出そうとするのだが、途中で口がもつれてしまう。何度も自慢の能力を出そうとするのだが、結局最後まで呪文を唱えることは出来なかった。先の”魔弾の猟銃”といい、彼はラッティたちの気づかない所で、自分に取り憑いた<童話>の力を発動しているようだった。
「どうやら勘違いしているようだが、約束なんて破るためにあるもんだよ」
端から約束なんて守る気のなかった先生に、思わずラッティも「酷い!!」と似合わぬセリフを吐いてしまう。しかし、いつまでも威圧的な態度をとる先生に彼女が黙っているわけがない。相手の能力が一体何なのかは分からないが、彼女にはまだネズミの帽子、“<童話>の結語”が残っている。
「私のお話、これにて終了!」
ラッティが“<童話>の結語”を唱え始めた。ここは一旦距離を取ろうという考えなのだが、彼女の横にはもう一人、先生の忠実なる僕がいることを忘れてはいけない。
クラウンが手に持っていた大剣を、ラッティの頬を撫でるようにして勢いよく地面に突き刺さした。このまま呪文を唱えれば、お前の首を落としやる。そんな声が聞こえてきそうなプレッシャーだ。流石に言葉だけでなく、物理的にも脅されてしまったお姫様は、ガタガタと震えながら首を垂らした。
「なんとでも言うがいい。僕はキミの事を<童話>を収納する道具でしかないと思っているからね。僕たちはキミのことを今すぐにでも封印できるし、何なら封印せずに殺し続けることも出来るんだ」
前に感じたこの男の異様な雰囲気と底知れぬ不安はこの部分に繋がっていたのかと、ラッティはひどく後悔した。例えあの時、力が枯渇しきっていても必死になって逃げるべきであったのだ。と、今なら思い悩むことも出来るのだが、彼女の場合、この男に出会ってしまったが最後。何をしても逃げきる事は出来なかったと思われる。
ようやく大人しくなったラッティに先生はもう一度考え事をし直した。
「ハンスの方もハウストに盗まれたんだろ? なら赤い本共々、奪い返せばいい」
「奪い返すって言ったって、あんた。<童話>を集めているんだからハウストの噂も一つや二つ聞いたことがあるでしょう? 他のグリムアルムたちで遊ぶのはいいけれど、ハウストにだけは関わらないで! あの家だけとは絶対に嫌!」
前回、ハウストの<童話>のお陰でだいぶ良い夢を見させてもらっていたようにも思えるが、この拒絶っぷりを見る限り、彼らからは十分すぎるほどのトラウマを植え付けられてしまったようだ。”ハウスト”という言葉が出て来るたびに彼女の顔は白くなる。
嫌だ、嫌だと駄々をこね始めたラッティに、いい加減苛立ちを隠せなくなっていた先生は、大きくため息をつくとより一層、軽蔑した目でお姫様の事を見下ろした。
「キミが<童話>でいる限り、ハウストからも逃げきることはできないよ。それなのに今、この瞬間の嫌だという気持ちだけでキミは逃げ出そうとするのかい? せっかく組んだばかりなんだからさ、もっと楽しく行こうよ。これを期にハウストを倒すぐらいの心持ちでさ」
その言葉だけはこの男の言う通りだった。いくら逃げようとも彼らの一族が続く限り、<童話>たちがグリムアルムから逃げ切ることは決してできない。”クライダーシュランク”が人質ならぬ物質でいる限り、彼女も先生たちから離れる事ができなくなてしまった。
「取られた<童話>は幸い、使えない奴らだけだったが、ここで一つ大きな<童話>を捕まえに行こう」
先生がラッティの体に巻き付いていた猟銃の銃床を手に取ると、猟銃は元の真っ直ぐな形に直っていた。そして冷たい銃身でラッティの頬を軽く叩くと、不気味な笑顔を作ってみせる。
「<ネズミちゃん>、”クライダーシュランク”を元に戻して欲しければ、僕の言葉に従うことだな。彼女はなかなかの曲者だ」
その時の先生の表情は、朱色に揺らめく蝋燭の火によって地獄の鬼のようにも映って見えた。