009 <死神の召使いたち> ― Ⅵ
今まで感じた事のない彼女の異様な落ち着き払った雰囲気に、本当に彼女本人で合っているのかと不審の念が生まれてしまう。だが先ほどの悪夢での出来事からまだ抜け出し切れていない桐子は、自分の胸の内を打ち明けようと、クラウンに向かって立ち上がった。しかしそんな彼女を庇うように、ハンスが桐子の前にスッと出る。
「ハンスさん、ちょっといいですか? 私はクラウンとお話しが……」
「いいえ、この子達はクラウンじゃないわ」
「え? この子……達? 一体どう言う意味?」
「お久しぶりですハンス様。この度はお付きの方々に多大なるご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
クラウンの姿をしたその人は、深々と彼らにお辞儀した。
クラウンからは想像できない言葉使いに、桐子とウィルヘルムは戸惑いを隠せずにいる。
「クラウン……じゃないの?」
「申し遅れました。私達、シュヴィンデルと申します。以後お見知りおきを」
だがシュヴィンデルの姿は前髪が長くて目元が見えないこと以外は、背丈も顔立ちも、揺れるくせ毛の一本ですらクラウンの姿そのままだった。声色も同じなので余計に違和感が浮き彫りになって気持ちが悪い。未だに夢の中に閉じ込められているようだ。
「その……、シュヴィンデルさんはいったい……」
物腰の柔らかいシュヴィンデルに気を許し、桐子がハンスより少しだけ前に出た。
その瞬間、シュヴィンデルは急に彼らの間を縫うかのようにすり抜ける。
しかも恐ろしい事にシュヴィンデルの姿は人の陰に隠れるたびに自由自在に変形した。
「私達はどこにでも現れますし、何者にもなれるのです」
ウィルヘルムの前には幼いマリア。桐子の前にはクラウンの姿。
そしてハンスの前では元の姿であろうボサボサ頭の赤髪青年に変わっていた。
「お気を付け下さいまし」
一通り脅し終わった彼はもう一度深くお辞儀する。どこか人の神経を逆なでするような律儀さだ。
「今日は一体何の用? 今まで全く音沙汰もなかったのに随分じゃない」
「はい。本日はこの赤い本をいただきに参りました」
そう言ってシュヴィンデルは背中に手をまわすと、何もない空間から真っ赤な本を取り出した。
それはグリムアルムの長であるハンスが代々大切に守ってきたグリム童話の原書である。
これには睨みを利かしていたハンスも驚き、目を見開いた。
「いつの間に!!」
「いつの間に……でもございません。先ほどお付きの方々に気を反らさせていただいている間に拝借いたしました」
そして彼はまた赤い本を手品のようにスッと背中の陰へと隠してしまう。
「何が目的なの?」
前髪で見えなかったシュヴィンデルの瞳が一瞬だけのぞいた。
その瞳はあの悪夢で見た、満月のような金色をしていた。
「何が目的と言われましても、旦那様からの命令でございますので私達からはなんとも答えられません。
ですが、旦那様より言付けを預かっております」
シュヴィンデルは先ほどよりも少し強い口調で語りだす。どうやら彼の旦那様をまねしているようだ。
「これ以上<童話>を集めるな。たとえグリムの意志であろうとも、決してな」
旦那様の忠告を聞いたハンスはピクリと目の筋肉を引きつらせた。
「私たちの目的は逃げ出した<童話>を集めることよ? その目的を破棄しろと?」
「申し訳御座いませんが、旦那様の考えは私達にも分かりません」
「分からないって、大体何のことかは分かっているのでしょう? お金が稼げなくなっているのかしら? それとも人の不幸が減ってきているのかしらね。何たって、小さな村一つ滅ぼすのに<童話>の力を使うような悪どいグリムアルム様ですものね」
普段の落ち着いた態度とは全く違うハンスの荒れっぷりに、桐子たちの方が怖じ気付いてしまう。
シュヴィンデルの正体が一体何者か、薄々と勘付いているのだが、二人は静かにハンスの様子をうかがっていた。だがハンスがこれから言う、とある男の名前を聞くと二人は強く息を飲み込んだ。
「カール・ディートマー・ハウストって言う男は」
ハウスト家、医者のグリムアルム。
グリムアルム二番の在位を持ちながら、人々を不幸に落し入れ、<童話>を悪用するグリムアルムの異端者。<童話>に魅せられた裏切り者。そのグリムアルムの<童話>がついに桐子たちの前に現れた。
「ハンス様のお気持ちも分かります。ですが私達は……」
「さっきから聞いてりゃ、勝手なこと抜かしやがって!」
敵と判断したウィルヘルムがとっさに一枚の黒い羽根を投げ飛ばした。
「ウィルヘルム! やめなさい!」
ハンスの警戒の声も空しく、黒い羽根は一羽のカラスに変形し、素早くシュヴィンデルの左胸へと突進した。しかしそれよりも早くシュヴィンデルの見えない動きが、ウィルヘルムのカラスをはたき落とす。
彼の左手には四角いチャコールスコップが握られていた。石畳に押しつぶされるように落とされてしまったカラスは元の羽根に戻ってしまい、カラスの受けた衝撃がウィルヘルムの元へと跳ね返ってくる。
敵意むき出しのままのウィルヘルムを無視して、シュヴィンデルはトンっと地面を軽く蹴る。するとそこにだけ重力がないように、彼は優雅に宙を舞って背後にある塀の上に飛び乗った。
「それでは私達の用は済みましたので、これにて失礼いたします」
最後まで神経を逆なでするような律儀さを見せつけて、彼は夜の闇の中へと消えて行った。
悪夢の時間は消え去って、人々の些細な生活音が聞こえてくる。
とても忙しい一日であった。張り詰めていた空気が一瞬にして解きほぐれ、クタクタと倒れそうになってしまうのだが、まだまだ仕事は残っている。
「ぬへっ、ぬへへへへ~……へっ、はぁ、あ! ゆ……夢かぁ?!!」
悪魔が立ち去り、ようやく目を覚ましたラッティは、己のいる場所に仰天した。なぜなら目の前には天敵の、グリムアルムたちが揃いもそろって彼女を囲んでいるのである。今までの状況を全く知らない彼女は息を呑みこんで、いつでも逃げ出せるようにと片膝をついた。
「アナタもハウストの<童話>と何か関係があるの?」
思い詰めたハンスの問いかけに、ラッティは「はぁ?」と思わず気の抜けた声を出してしまう。
「ハウストって……あの?」
深刻そうに頷くハンスと、お通夜ムードの手下二人を見て色々と勘付いてしまったのか、彼女は先よりも青い顔をしながら頬の筋肉を引きつらせた。
「じょっ、冗談じゃないわよ! なんでまた?! あんなイカれた集団と関係を持つだなんて、まともな<童話>なら考えないわよっ! 寝言は寝て言いなさい!!」
しかし彼らはちゃんと起きている。
ここまでが夢だったらよかったのにと、今後の事態に不安をつのらせ始めたラッティは、踏ん張るように歯を食いしめた。
「私のお話、これにて終了! そこにネズミが走っている! そいつで帽子をこしらえなっ!!」
“<童話>の結語”を結んだラッティは、どろんっと煙幕に紛れて消え去った。
「待って!!」
彼女を取り押さえようと、一歩前に出た桐子が足をもつれさせて倒れてしまう。とっくに体力の限界はきている。今まで倒れずに立っていられたのが不思議なぐらいだ。
「桐子、大丈夫?! 無理しないで」
「大丈夫です。けど……、ラッティが」
「いいの。彼女はまた今度でいいから。それよりもアナタの方が心配だわ」
桐子を安心させようと、作り笑いをしてみせるのだが、どこかぎこちない。
「ハンスさんも、その…………大丈夫じゃないですよね、本を盗まれて」
「ええ、そうね。でも、相手が得体のしれない人じゃない分、まだ平気……かな?」
より目を細めて笑ってみせる彼の顔がとても痛々しい。そんな見え透いた笑顔を作るぐらいなら、素直に言って欲しいと桐子は悔しい思いをした。
「ハンスさん、取り戻しましょう。私もできることは手伝います。手伝わせてください」
夢の中で彼女の身に何が起きたのかハンスは何も知ることができないが、前にも増してたくましく見えた彼女の眼差しに、ハンスは寂しく微笑んだ。
* * *
桐子たちの戦いが終わった頃、この学園都市から南へ下りた農村に白い雪が舞っていた。
遠くにアルプス山脈が眺められるのだが、村の周りは雪が降るほど凍えてはいない。
茶色く枯れた畑の上を生気を無くしたバレリーナたちがくるくる踊って馳け廻る。
彼女らがくるりと一回転すれば雪が降り、彼女らの手足に触れた生き物は驚く間も無く凍りつく。
虚ろな瞳で薄ら微笑む彼女らを、人は<雪の精>と呼んでいた。
しかし彼女らの噂も今日限りとなるだろう。なぜならその群衆の中には、大剣を振るう荒れくれ者が混ざっていたからだ。
クラウンはヒラリと舞う雪の精の間を駆け抜けて、一度に数人の雪の精を斬り捨てた。
脇腹を切られて上下真っ二つになった雪の精は、物悲しそうな顔をしながら雪像に変わり崩れ落ちる。彼女に斬られた雪の精はみんな同じように崩れて雪の塊になっていた。
クラウンは休む間も無く逃げ惑う彼女らを追いかける。
そして逃げ帰る彼女らが目指していたものを見つけると、勢いよくそれを斬り崩した。
それは長いこと使われていなかった古井戸で、その縁には枯れ木のようにひび割れた老婆が座っていた。
老婆は古井戸共々斬り崩され、樹洞の両目と口を大きく開ききって悲鳴を上げると散ってしまった。
紙の束と散った老婆の<童話>から、クラウンは黒い紙だけを拾い上げる。
彼女はその<童話>がどういったものかも確認せず、荒々しく腰のポケットへと押し込んだ。
老婆との戦いは想像よりも長かったらしく、彼女はひどく息を切らしていた。
少しでも息を整えて、帰路につこうとした時だ。
森に続く茂みの中からカサカサと、不気味な音が聞こえ出す。
茂みをかき分けて現れたのは、大きな袋を担いだ白髭のお爺さん小人であった。
まさか小人が現れると思っていなかったクラウンと、人がいるとは思っていなかった小人。
急な鉢合わせに双方は驚きを隠せない顔をする。
しかし、小人の方が先にこの状況を理解した。
「ローズ……?」
小人が不思議そうに問いかける。
ローズと呼ばれたクラウンは不機嫌そうな顔をすると、急に小人を軽蔑するような目つきで見下した。
「おお! やはりローズではないか! 久しい我が友よ!!」
妙に馴れ馴れしく突っかかる。
どうやら彼にはクラウンの鋭い眼差しが見えていないらしい。
「こっちに来ていたのか!
どうした? 私を忘れたか? ほら前に、森で大熊に追っかけられていたところを助けてくれた、可哀想なこびと……」 「オイラはローズじゃない」
疾風の如く抜かれた刃に小人は真っ二つに裂かれた。
旧友との再会を心より喜んでいた小人は彼女の変貌に驚き、呆気にとらわれる。
「ローズ……なぜだ……?」
灰色の顔を歪ませて、彼もまた<童話>の紙へと戻ってしまう。
「それじゃあ貴女はだあれ?」
聞き覚えのある声に振り向くと、大きな包丁を持った女性が、クラウンめがけて斬りかかりに来た。
「桐子?!」
一瞬手先が戸惑ったが、クラウンは威嚇するように彼女の前に剣を振り下ろす。
当たるギリギリの場所をすり抜けた大剣に、桐子は怯えもせず、涙も流さずに突っ立ている。
そこにはクラウンの知っている桐子はいない。それでは彼女は一体何者か。
辺りに焦げた臭いが漂い始める。
「お前……、桐子の格好をした<童話>だな?」
次々と現れる<童話>の奇襲に、クラウンは疑いの念を込めて言った。
その勘は見事に的中し、桐子の姿をした人は力のない拍手を彼女に贈る。
「先ほどの戦い、拝見させていただきました。中々の剣さばき、恐れ入ります」
桐子の偽物はしゃんと一本の線のように立っている。そして赤いシャツの上にはカマーベストを着ていた。
「本日はハウスト家の旦那様より、言付けを預かって参りました」
「ハウスト?」
「これ以上<童話>を集めるな。たとえグリムの意志であろうとも」
クラウンは急に<童話>を集めるなと言われて止めるようなやつではない。
より一層ギロリと目つきが鋭くなる。
「…………嫌だと、言ったら?」
すぐに襲い掛かれるように、クラウンは剣を構えるが、桐子の偽物は全く動かない。
「<童話>収集を阻止するまでです。
ですが……先ほども言いました通り、本日は事付けをお伝えに来ただけなので私達はこれにて失礼致します」
そう言うと桐子の偽物も深くお辞儀をして、茂みの影へと引いて行く。
「待て!! お前がハウストの<守護童話>の……死神なのか?」
「いいえ、私達は死神様の召使い。エアケルテットと申します」
エアケルテットの長い前髪が小さくなびくと、そこには二つの瞳が満月の色に輝いていた。
「それでまたいずれお会い致しましょう。ローズ様の偽物様」
最後に少しだけ笑い声の込められたエアケルテットの言葉に、クラウンは「オイラはローズじゃねぇ……」と吐き捨てるようにつぶやいた。
* * *
「ただいま戻りました」
黒のシュヴィンデルがハウストの屋敷の大広間に帰ってきた。
彼は奪ってきた赤い本を車椅子に乗った老人の前に差し出すと、黙って後ろに一歩下がった。老人の横にはシュヴィンデルと同じ顔をした男、青のシュッテルフロストが立っている。
「ただいま戻りました」
次に大広間の扉を開けて入ってくるのは赤のエアケルテット。
同じ顔に同じ声。同じ背丈と同じ髪型。
体の特徴が何一つとして違わない彼らはまさしくクローン人間のようである。唯一の違いがあるとすれば、シャツの色の黒と青と赤色ぐらいか。
老人は小さな丸メガネをしわくちゃな左手でかけ直すと、机の上に乗った赤い本と麻縄で括られた黒い紙、数枚の束を交互に見る。
「ハンスの収める“グリムの書”と、<童話>使いの集める<童話>たち」
静かに赤い本をめくり始めると、
「そうかそうか、こんな<童話>を持っていたのか。こいつも捕まえていたのだな」
と嬉しそうに中身を確認する。
そしてハンスたちの努力をコケにするかのように鼻で軽く笑うと、そのページを遠慮なしに破り取った。
「実に面白い。しかし可哀想な<童話>たちよ。今、自由にしてあげよう」
そう言うと老人は手にした数枚のページを窓の外へとばら撒いた。
ばら撒かれたページは風に乗り、はるか遠くへ飛んで行く。その飛び行く姿は歓喜の舞を舞っているようで、強く吹く風の音は高笑いするかのように夜空を駆けた。
<つづく>