009 <死神の召使いたち> ― Ⅴ
視界が次第に黒ずんでゆき、意識と身体が付いたり離れたりする奇妙な感覚に襲われる。
短い呼吸が連続的に続き、これが最後の一息だと諦めの気持ちが芽生えて涙が頬を伝った。その時に、右手に握りしめていた小さなお守りが弱々しい光を解き放つ。
陽だまりのように暖かくなってゆくそのお守りは、底知れぬ安らぎと懐かしい匂いを津波のようにうねらせて、彼女の恐怖を洗い流していった。その暖かさに妙な安心感を覚えた桐子はゆっくりと、誘われるがままに瞼を下した。
……
………………
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「上手ね……」
曽祖母の声が、耳元で優しく囁かれた。
何も考えずに振り返った桐子は田舎の縁側に腰を掛け、お手玉を握りしめながら居間の中を覗いている。
また場面が変わったように思えるが、今度は今までとははっきりと違う。これは桐子が思い出している記憶の中の一場面だ。セミが鳴り止まぬ山の中、涼しい風が吹いている。夏の日差しもこの日はやんわりと暖かく、とても過ごしやすい真昼の日であった。
桐子はすくっと立ち上がると、布団の中で横たわる曾祖母の元に駆けつける。曾祖母の顔には先のような真っ黒い穴は空いていないのだが、すっかり弱りきっているようだった。
「おばあちゃん大丈夫? 何か飲みたいものとかある?」
桐子の気遣いに曾祖母はゆっくりと首を横に振る。返事を口にする力はもう無いようだ。
「大丈夫だよ、すぐ良くなるよ。あ、そうだ! 中学校の制服、届いたんだ」
桐子は急いでタンスからセーラー服を持ってくると、それを自分の体にあてがって、曾祖母の目に入りそうな場所へと移動する。しかし彼女の制服姿が目に映っても、曾祖母の顔は特に笑うわけでもなく、ジッと遠くの方を見つめていた。
「おばあちゃんは、まだ地獄には堕ちないよ。カミサマがきっと助けに来てくれるから」
「カミ……サマ…………」
吐き出した息と共に出た声に、桐子は勢いよく飛びついた。
「っ!! そうだよ! カミサマだよ!! 私が風邪で死にかけた時に助けてくれた子供だよ。狐のお面をつけてるんだ」
そのときようやく曾祖母は静かに笑った。ような気がした。そして彼女は眠るように長い旅路に終わりを告げる。
「大丈夫だよ、おばあちゃん………。独りじゃないよ。独りじゃない…………」
◆ ◆ ◆
冷たい時計盤の上に広がる赤いシミ。
桐子はもう一度夢から覚め上がると、曽祖母と最後に交わした会話をひとり自分の血だまりの中で思い出していた。
自分はなぜあの時悲しかったのか。
それは曽祖母が哀れに思えたから。
取り残される孤独を感じたから。
どの感覚と照らし合わしても、それに似た自分の感情を見つけることはできなかった。
だが、さっきクラウンが聞いてきた言葉を否定することはできる。そう桐子は確信した。
未だに闇の中で佇むクラウンに、彼女はかすれた息で声を出す。
「違う……違うよ。そんなんじゃ……」
「それでは何故独りが怖いのですか? 人間はみな最後は独りなのに」
「そんな事ないよ……」
「それでは先ほどの老婆は独りではないと。
死ぬのを我が子たちに待たれていた老婆は、孤独に死んだわけではないと……?」
「私は寂しかったよ。おばあちゃんが死んで……、悲しかった。
もう会ってお話しすることができない。手を引いて歩くことができない。
だからと言っておばあちゃんが独りになったとは、私は思えない。
おばあちゃんが残したものはちゃんと私の中で生きている。
それは死んだ人でなく、生きている人たちにも言えることなんだよ。クラウン」
桐子は両腕に力を込めて少しづつ体を起こしていく。
傷の痛みは確かにあった。体を真っ二つに引き裂かれるような熱を傷口から感じていたのだが、桐子はこれをまやかしだと強く自分に言い聞かせた。
「ねぇ、クラウン。貴女、言ってたよね。『人間を殺す事なんてできない』って。
私、その言葉信じてる。だからこれも偽物だよね。幻を見せる<童話>の力なんでしょ? 分かっている」
それでも視覚的には赤い血が胸の傷口から流れ続けていた。怖くないわけがない。
しかし桐子は震える手足にムチを打ち、再び立ち上がろうとしていた。
クラウンはそんな彼女をただ静かに、微動だにせずに見続けている。
「私、まだクラウンのことよく知らない。
あんなにも優しい貴女が、どうしてそこまで<童話>を憎んでいるの?
クラウンの悲しい顔、苦しそうな顔を見たとき私、とっても悲しかった。
余計なお世話だと思う。自分の胸を救うエゴだとも思う。
それでも私は貴女のことを知りたいの。
もっと知って貴女の助けになりたいの。
そしていつでも一緒に笑い合いたいの。
貴女を独りだけ寂しい思いにさせたくない。私もひとりで寂しい時があったから……。
だから……、だから行かないでクラウン。
貴女の哀しみを、私にも背負わせて」
血に染まった桐子の腕が、優しくクラウンに差し伸べられる。
眉間にしわを寄せ、はかない笑顔を作る桐子にクラウンは、表情一つ変えずに言った。
「それを言う相手は私達ではございません」
「え?」
◆ ◆ ◆
「菅さん、よくぞここまでついて来られましたわね。まさか私と一緒の高校に入学するとは……」
春の澄み渡った青空に、桜吹雪が舞い上がる。
高校のブレザーコートを着た智菊が仁王立ちをして桐子の前に立ちはだかっていた。
先までパックリと開いていた傷口は塞がっている。血のシミ一つ残っていない。
桐子も新品のブレザーを着て、自信たっぷりな智菊の顔を見つめていた。
突然の場面転換に桐子はついて来れず、感情のない、準備されていた台詞のように言葉を発した。
「智菊のお陰だよ…………」
「いいえ…………。いいや、桐子の力でここまで来たんだよ」
「違うよ。智菊が私のことをライバルだって言ってくれたから……」
「え?! まさかあの言葉を鵜呑みにしてついてきちゃったの?! 真面目というか……馬鹿正直というか……」
ずっと張り詰めていた記憶が続き、ボロボロになっていた桐子の心に智菊ののんきな声が染み渡る。
安心したのか、自然と涙が一筋こぼれた。
急に現れた涙に智菊は大きく仰天する。
「どっどどどどどっどどうしちゃったのかな?! 桐子にゃん!!
お腹痛いの? 馬鹿真面目って言われて傷ついたの? 他に行きたい高校があったのに、諦めて智菊のクソ野郎に着いてきた自分が惨めになったのーー??!!」
「ううん。違うの、怖かったの……」
「何が?」
「死ぬのが」
「しぬ? ふぇ? 来る前に事故りそうになったっけ?」
「違うの! 私、死んじゃったのぉ!!」
「もちつけ桐にゃん! 大丈夫だ、脈はある。体温も感じるぞ! お前は生きている。セーフ!」
混乱する桐子を落ち着かせ、懸命になだめようとする智菊の姿はとっても滑稽に映っていた。しかし彼女の懸命な働きにより、少しづつ桐子は平常心を取り戻していく。
「ごめんね、智菊……。おばあちゃんが亡くなった時のことを思い出しちゃって……」
「桐子のひいおばあちゃん? 九十行ってたんだっけ……凄いよね。百歳まで行って欲しかったね」
「うん。でも……、おばあちゃんは本当に幸せだったのかな。最期に看取ったのが私で本当に良かったのかな……」
「なーに言ってんの。桐子のおばあちゃん言ってくれたんでしょ?
『桐子が私のことを思ってくれるだけで十分』だって。
私の最期に桐子がいてくれて良かったって、思っているよ」
こんな会話を智菊とした記憶は、桐子の中に存在しない。
しかしきっと智菊ならそう言ってくれるはずだ。
中学、高校と一緒にいる時間は短くとも、彼女はいつでも桐子に本気でぶつかってきてくれた。そんな自慢の親友なのだ。
「智菊はさ、私が死んでも悲しんでくれる?」
「当たり前じゃない! でも、無事に大往生したら万歳三唱してあげる。よく頑張ったって」
たわいない会話のはずなのに、とても素晴らしい事のように感じられる。
口約束でしかないその場限りのものであっても、誰かと話すことにきっと意味がある。
「なんで戻ってこれたかだって?
馬鹿だな、俺はグリムアルムだぞ。一度や二度の挫折で仕事を放り出すような奴にはなりたくない」
今回の依頼に向かう前、準備をしていたウィルヘルムに聞いた質問。
松葉杖がなくては上手く歩けないほどに傷つき、恐ろしい目に合ったというのに、なんでそうも晴々とした顔をして帰ってこれたのか。桐子は不思議で仕方がなかった。
だがその質問は彼にとって愚問でしかなかった。
「死ぬ事だって怖くない。グリムアルムになってからは常に死とは隣り合わせだ。切っても切れぬ縁。当たり前の事。そう覚悟して俺は契約した。
だけど……、痛い思いをするのは怖い。
大切な人が死ぬことは凄く怖い。
その人を忘れていく未来が怖い……」
そして最後にぽつりと付け足す。
「でも俺は忘れないよ」
その時のウィルヘルムは今までに見たことのないほどに優しい顔をしていた。
彼もまた、大切な人を亡くして孤独を感じていた。しかし今はちゃんと独りじゃないことをよく知っている。
「そういうお前はどうなんだよ?
<童話>に殺されて、死ぬかもしれないんだぞ? 怖くないのかよ?」
「怖い……怖いよ。でも、ウィルやハンスさんが知らないうちに死んでる方がもっと怖い」
「自分の事では?」
「自分の事では……、やっぱりウィルやハンスさん、みんなとお別れすることがすごく怖い。でもそれは、ひとりぼっちになるとかじゃなくって、もっと話しておきたかったって言う、後悔………………」
ウィルヘルムの答えと変わりない答え。
しかしその中身は少しだけ違う。
彼はそんな答えを笑って優しく聞き入れてくれた。
「これが、私の答え……なのかな…………。貴女は納得してくれる?」
もう一度、場面は真っ暗な空間の中に戻ってくる。
桐子と長い前髪を下ろしたクラウンは、時計盤の上で向かい合っていた。
「それには彼女も混ざっているのですか?」
「彼女って……、クラウン? うん、そうだよ。
クラウンってさ、初めはガサツで危ない人だって思ったけどさ、本当はガラスみたいに透明で、すぐに割れちゃいそうなんだもん。
だからずっと大事にしようって思ってた。
でもそれはきっと間違えだったんだよね。
智菊が本気でぶつかってきてくれたように、ウィルが素直な返事を返してくれたように、私もクラウンの話を聞くだけじゃなくって、しっかりと前から受け止めなくっちゃいけないんだ。
もっと貴女の声が聞きたい。もっと一緒の時間を過ごしたい……って、欲張りだね、私」
桐子は恥ずかしそうに自分の三つ編みをいじりだす。
「…………そうですか」
長い前髪のせいで目を見ることができないが、満月の瞳にまぶたがゆっくりと下された。ような気がした。
クラウンの姿をした影はそれ以上何も言わずに後ろの闇へと下がってゆく。
心にかかったモヤは今もなお晴れはしない。しかし桐子が握りしめている小さな石が、先よりも弱々しい光でありながらも彼女の行くべき道を指し示していた。
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目が覚めると心配そうに桐子の顔を覗くハンスとウィルヘルムの姿が映った。
周りは檻に捕まる前の依頼先の中庭に戻っており、今度は三人ともちゃんと同じ地面に座っている。
「ハンスさん……。ちゃんと役に立ちましたよ」
桐子はにっこりと笑って、ハンスから預かっていた光る石を差し出した。石はもうすでに光をなくしていたが、ハンスはそれを受け取らずに彼女の手の中に握り返させた。
「アナタが無事でよかったわ」
安堵の表情を見せるハンスに「心配かけてごめんなさい」と少しだけ嬉しそう桐子は言う。
無事に"黒馬の檻"から脱出できたことに二人は喜びを分かち合うのだが、それをよそにしてウィルヘルムはムスッと不機嫌そうに立ち上がった。
「しっかし、お前が先に戻ってこれたとはな。予想外だったよ」
そう言って彼が見下ろす先には、まだ眠りから覚めないラッティの姿が横たわっていた。
「ラッティ!!」
彼女がこの場に居る驚きと、自分と同じように恐ろしい目にあったのではないかと心配した桐子は、飛び上がると早々に彼女の元へと這いずり寄った。しかし、
「ぐふふふふっ~~、おとうさまぁ、おかあさまぁ、待ってぇ~……」
と、幸せそうな寝言が聞こえてくる。
「一人だけ別の夢でも見てんじゃねーの?」
ウィルヘルムの言葉に同意せざるおえないほどに、彼女はヨダレを垂らしながらも満面な笑みを浮かべていた。拍子抜けといった感じでズッコケてしまう桐子だが、ウィルヘルムは悔しそうに口をへの字に曲げている。
「まさかコイツが<ねずみの皮のお姫様>だったとはな……」
檻の中で共に行動し、彼女の安全を本気で心配していたウィルヘルムは、ラッティの正体が<童話>だという事に気が付けなかった自分に相当腹を立てているようだった。
しかしこれは絶好のチャンス。逃げ回るのが得意な彼女が今、目の前でぐっすりと眠っているのだ。こちら側には前回と違ってグリムアルムもいるし、封印するなら今しかない。だが物事と言うものはそう簡単には進まないように出来ているようだ。
彼らの耳にパチパチと、力のこもっていない軽い拍手が聞こえてくる。
何事かと音の方へと振り向くと、唯一の出入り口である門から誰かが一人やって来た。
彼女は黒いシャツの上にギャルソンなどの制服であるベストを着こなしており、長く伸びた前髪で目元をすっぽりと隠している。しかしその顔立ちは桐子とウィルヘルムがよく見知っている人物であった。
「クラウン……」
桐子に呼ばれたクラウンは、何も語らずにスラリとただ真っ直ぐに突っ立ってこちらの様子をうかがっていた。