009 <死神の召使いたち> ― Ⅳ
「桐子ちゃん……って、呼んでもいいかな?」
「え? あっ、うん」
桐子の前には女子中学生時代のセーラー服を着た女生徒が三人揃って並んでいる。
場面はテレビのチャンネルを回したかのように別の場面へと変わっていた。
桐子は中学生時代の懐かしい教室の中にいる。
「すっごく髪の毛長いよね。毎日お手入れ大変そう……」
「中二の中途半端な時期に転校してきて大変だよね。困ったことがあったら私たちに聞いてね!」
彼女たちは転校したての桐子がとても珍しいようだ。
次々と質問を繰り出して桐子を混乱させている。
「上の村から引っ越して来たんでしょ? ダム作るからって追い出されたの?」
「ううん。お父さんのお仕事の部署が変わって、それでこっちに戻ってきたの」
「村生まれってわけじゃないの?」
「お母さんの実家は村だけど、私の生まれはこっち。私が村に住んでたのは八歳の頃からだから……五年間だけかな?」
「お父さんのお仕事でかー……。それは大変だったね」
町の上にある、閉ざされた村からやって来た転校生。
そのミステリアスな肩書きとは裏腹に桐子はハキハキと会話した。
未知の存在を少しだけ恐れていた女生徒たちは、彼女の笑顔にすっかり不安は無くなったようだ。
それに気付かず、桐子は楽しそうに話し続ける。
「私ね、同い年の子の友達がいなくって……こうして話しかけてもらえて、すっごく嬉しいの」
初々しく頬を赤らめて笑う桐子に、女生徒たちはすっかり彼女に夢中になった。
「中間テストの結果が出たよ!」
クラスに飛び込んできた声を合図に、多くの生徒たちが席を立って廊下に出た。
「ほら桐子ちゃんも!」
腕を引っ張られ、桐子も急いで廊下へと向かう。
「でも本当にかわいそう~。転校早々、中間試験とか、私だったら死んじゃう……」
――死んじゃう……。
教室の出口を通ると、またもやチャンネルが回ったかのように世界も変わった。
山の外側に沿って舗装されたアスファルト道路。その上を、年のだいぶいった老婆が幼い女の子の手を引いて歩いていた。
「あとちょっと、あとちょっとだよ」
そう励ます老婆の言葉を何度聞いたことか。
とても熱くて寒くて、めまいがする。
硬いアスファルト道路も、ぐにゃぐにゃの水風船のように感じられた。
これは幼い桐子の中に眠る最も辛かった時の記憶。
高熱にうなされ、心配した曾祖母が彼女の手を引いて町の病院へと向かっている所であった。
着物を何枚も重ね着した上に、赤いドテラを羽織ってまん丸く着膨れしている。
ゼーゼーと苦しい呼吸をしながら歩くと、目の先の視界がぼんやりと霞んで見えてきた。
辛い、苦しい。このまま死んじゃうのかな。
そんな漠然とした不安にグラグラと頭の中が揺さぶられる。
ふいに、桐子は山の頂上を仰いだ。
そこには狐のお面をかぶった見知らぬ少年が大きく彼女に手を振っていた。
何かいる。
重い瞼をゆっくり瞬かせると、辺りが真っ白な空間へと変わっていた。
本当にそう変わったのかはわからない。
熱が出すぎて目が見えなくなったのかもしれない。
外なのか部屋の中なのかも分からない真っ白な空間の中、桐子は老婆とは違う、少し大きな子供の手に引かれて大きな波の中を逆走した。
気が付くと布団の中にいた。
「おばあちゃん! 桐子を殺す気ですか?! もう少しで死んじゃうところだったんですよ!!」
開いた襖の向こう側。隣の部屋から母の怒鳴り泣く声が聞こえてくる。
彼女の前にはこうべを垂らした曽祖母が、申し訳なさそうにその苦しい言葉を受け止めていた。
「お……かぁさ……ん」 「桐子っ!!」
桐子はかすれた声をどうにかひねり出して母を呼んだ。
氷枕がかちゃりと音を立てると、母は必死になって濡らした手拭いで彼女の汗を拭った。
どうやら本当に死にかけていたらしい。
母は涙を流して幼い桐子の頭を何度も何度も撫でていた。
「桐子ちゃん……ごめんね、苦しい思いをさせて。こんなおばあちゃん、地獄に堕ちても仕方がないよね」
熱が少しだけ下がった桐子に、曾祖母が深く謝罪した。
この時、桐子はなぜ彼女が謝るのかと不思議に思っていた。
「おばあちゃんは悪くないよ? なんで謝るの?」
それでも曾祖母は顔を上げない。
大きな和室に桐子と彼女の二人きり。
だだっ広い空間に押しつぶされて、桐子は枕もと置いてあった本を持ち出した。
「ラプンツェルってお話……知ってる?
長い髪のお姫様がね、塔の上から髪の毛を垂らして下にいるお婆さんを引っ張り上げるんだよ」
「まるで蜘蛛の糸のようね」
「私、おばあちゃんが地獄に行くの嫌だから、もしも地獄に行っちゃったら、私、いっぱい髪の毛を伸ばしておばあちゃんを引っ張り上げるよ。だからね、おばあちゃんは地獄に墜ちないよ」
悪戯っぽく笑う桐子の顔に、曾祖母も嬉しそうに目じりを細めた。
「桐子ちゃんは優しいね。でも、本当にそうしてくれるなら、私じゃなくって他の人を助けてちょうだい。
本当に助けて欲しい人はたくさんいるから、その人たちを引っ張り上げて仲良くしてね。
おばあちゃんは、桐子がおばあちゃんの事を思ってくれている。それだけで十分だから」
そして曾祖母は、持ってきた小さな箱を桐子に差し出した。
「これはこの間のお詫び。桐子ちゃん、苦しい思いをさせて本当にごめんね」
それはオルゴール仕掛けの宝箱であった。
開けると異国の音楽が流れ出し、バレリーナの人形がくるくると踊りだす。
とても大切な物なのに、今の今まで忘れてた。
中には手作りのバラのポプリ。
沢山詰めて大事にしてた。
匂いが消えてもこの箱を開ければ思い出す。
迷宮からこの部屋へとたどり着いた現在の菅 桐子は、懐かしそうにその箱を撫でると、静かに開いた。
石畳が綺麗な異国の町。
赤く燃える夕日を背後に、黒いシルエットが憎しみの目で桐子を睨む。
「バラに似た匂いだぁ……」
細身の少年の手には錆びついた剣が握られている。
敵意をむき出しにした彼、いや、彼女は桐子がよく知る人物。
「殺してやる……」
彼女の口から発せられた言葉。
その言葉に囚われまいと、四か月前のように桐子は彼女から逃げ出した。
真っ直ぐ進んだ先の路地を右に。そこを曲がれば大通り。
町の地図は前とは違い、頭の中に入っている。その道順通りに進もうと、桐子は大きく角を曲がった。
「すごーい! 桐子ちゃん、文系科目全部一位だぁ!」
ハッと目が覚めるようにして、また場面が変わっていた。
中学生時代の記憶に戻っている。
桐子は廊下に張り出されている中間試験の結果を、他の生徒たちと一緒に眺めていた。
「頭がよくって、可愛くって、胸があって……羨ましいぃ!」
「ほっ、ほら、あれだよ! 村の中ってやる事何もなかったから、本ばっか読んでたの!
本の虫で暗いんだよぉ~。って、胸は関係ないでしょ!」
早速周りの子と打ち解け初めて、中学生らしくじゃれ合っている。
そんな彼女に、挑発的な声をかける人物が現れた。
「おい! 転校生!!」
転校生は桐子だけだ。桐子は呼ばれた方に振り向いた。
そこには校則違反ではないかと注意したくなるほどの厚化粧をした、白いカチューシャの女の子が仁王立ちをして威嚇している。
「図に乗るなよ転校生! 次回こそ私がオールトップなんだから!!」
「うっへー。智菊、今日は一段とケバいわね」
「どうして見せる男子もいない女子校で、そんなにケバいのよアンタはさ」
「桐子ちゃんに勝ちたきゃ、自分磨きもほどほどに!」
取り巻き三人の一斉攻撃。そんなのお構いなしといった感じにズカズカと智菊は歩み寄る。
「今のうちに慣れとかなきゃ、高校生デビューがこのケバケバ顔よ?!
貴女たちも自分を磨かなきゃ、将来のお婿さん候補はぜーんぶ私が独り占めにしちゃうわよ~!」
「く……悔しいが確かだ。前半部分は。習うより慣れろ……か」
「生徒会会長にして学年総合第一位……久保田 智菊。
あの平々凡々な顔立ちと、汚い性格だけが私たちにとってのせめてもの救い……か。……くっ」
「桐子ちゃん! あんなやつケチョンケチョンにしてやって!!」
「素敵な紹介ありがとう。全部丸聞こえよ! アンタは自分で努力しなさい!!」
四人のリズミカルなボケツッコミが心地よいのか、桐子は終始笑っていた。
そんな桐子に不意を衝いて智菊は先制布告を突きつける。
「菅さん、喜びなさい! 貴女を私のライバルとして認めてあげる!」
「う、うん……ありがとう!」
「良い面構えね。覚悟しとくのよ!!」
「いい桐子? よーく思い出すのよ」
喪服を着た母が桐子の肩を抑えている。
場面が変わる感覚がどんどんと短くなり、今はまた山奥の曽祖母の家の中にいた。
しかし今度の様子はより一層暗いものとなっている。
母の後ろには父や親族のおじさん、おばさん。彼らは揃って桐子の顔を睨んでいた。ように思える。
と言うのも、彼らの顔には人間らしい目や鼻や口と言ったパーツがどこにも見当たらなかったのだ。
顔にはぽっかりと穴が空いており、その中にはびっしりと懐中時計の細かい歯車やバネが引き詰められている。
部屋中に細い煙が充満し、目に刺さるほどに白い花たちも、桐子の事を睨んでいた。
「おばあちゃんと最後に何を話したの?
遺産の話は、なんて言ってたか覚えてる?」
酷な話だ。大好きな曾祖母の葬式で母は、父は、親族の皆は彼女の遺産を追っていた。
「知らないよ。そんな話、してないよ」
おろし立てのセーラー服の裾をくしゃくしゃに握りしめ、大人たちの圧力に耐え続ける。
歯車は規則正しくギリギリと、桐子ににじり寄りながら回っていた。
「嘘おっしゃい! いったい何を聞いてるの?」
「知らないよ……私はただ、ただおばあちゃんと……」
ついに限界が訪れた桐子は、弾けとぶように二階の小部屋へと逃げ込んだ。
なんて酷い話をするの?
おばあちゃんが死んだのにだれも悲しまないの?
逢魔時の赤い部屋。幼き少女が涙をこぼす。
亡き曽祖母のためにと一人で弔う。
「桐子ちゃん……」
初めの部屋に戻ってきた。
お手玉を持て余す少女の背後、開かれた襖の先には老婆の手招く右手が浮いていた。
「おいで、桐子ちゃん……こっちにおいで」
不思議と恐怖心はなかった。
幼い桐子は言われるがままに立ち上がり、老婆の右手に手を置いた。
老婆に顔はついてない。ぽっかりと深い穴が空いている。
皺だらけの手が強く桐子の腕をつかみ、一階の大部屋へと引いて行った。
一階にはもう誰もいない。先ほどの汚らしい会話も聞こえてこない。
その隅で割れた狐面が目に入ったが、それは特に気にならなかった。
祭壇の上にある棺の窓が開いている。
「桐子ちゃん、この中をよく見ておくれ。私に最後のお別れをしておくれ」
幼い桐子はコクリと頷くと、背伸びをしてその窓を覗き込んだ。
そこには白い花に囲われた、今の自分が眠っていた。
真っ白な顔に色あせた唇。
その時ようやく襲ってきた恐怖に驚き、桐子は急いで身を引いた。しかし誰かに背後を押さえつけられていて逃げられない。
見上げようとしたその頭を、誰かは無理矢理棺の中へと持って行った。
「怖いのですか? 恐ろしいのですか? これが貴女様方が恐れている"死"なのですか?」
「やめて! 離して!」
力一杯抵抗し、振り払った腕の持ち主を桐子はきつく睨んだ。が、彼女の顔を見た瞬間、その目は大きく見開いて、悲しみの色に沈んでいた。
「クラウン……」
クラウンははじき返された腕を勢いよく振り下ろし、かまいたちのように桐子の胸を切り裂いた。
迷いのないその動きがとても恐ろしかった。
胸から溢れる赤い液体が、自分のものだと気づくにはしばらく時間がかかってしまった。
ゆっくりと流れる時間の中、桐子は目の前にいる彼女だけを見つめていた。
「嫌だ! 行かないでクラウン……独りにしないで……」
「独りが怖いのですか? 独りが怖くって群れをなすのですか? 人の為にと言って、とんだエゴでございますね」
満月の瞳をしたクラウンが桐子の顔をのぞいている。その姿に先までの、棺の中を覗いていた自分の姿が重なった。
ーー私は死ぬの? 死んでしまうの?
曾祖母の葬式が頭の中をめぐり、小豆の音とお手玉歌がいつまでも気味悪く響いていた。
「おひとつ、おひとつ、おひとつ、おひとつ、おっひとつ落として、おーさーらいっ」