009 <死神の召使いたち> ― Ⅲ
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「お兄ちゃん……、お兄ちゃん……」
懐かしくも落ち着いた少女の声。
その声は次第とはっきり聞こえてくる。
「お兄ちゃん!!」
目を開けた先にはピンクの頬をふっくらと膨らませる黒い髪のマリアがいた。
最後に見た時よりもだいぶ成長した姿。生きていればこのぐらいの背丈だろう。高く通る声もこれぐらい落ち着いたトーンになっていただろう。そんな想いに寝起きの目頭が熱くなる。
どうやらウィルヘルムは、実家にあるネズの木の下でうたた寝をしてしまったようだった。夏の庭に降り注ぐ暖かな日差しと乾いた風がとても心地よい。
「お兄ちゃん、こんな所でお昼寝してたら風邪ひいちゃうよ?」
叱るというよりも注意するかのように心配してくれるマリアは、二つに結んだ長い髪を跳ねさせるようにして家の方へと駆けて行く。
――待って、マリア。そんなに急がずとも、すぐ行くよ。
そう声をかけながら立ち上がろうとしたのだが、なぜだか腰が重くて立ち上がれない。
――マリア、なんだか立ち上がれないんだ。助けてくれ。
先を行くマリアを呼び止めようと口を動かすのだが、先から声が出ていない。
喉が渇いて声が出ないのだろうかと、そう思って咳払いしようとするのだが、上手く咳も出せていない。
空間は歪み、長く伸びてゆく夏の庭をマリアはどんどん駆けて行く。
待って、行かないで。と伸ばす手もむなしく空を切り、足場は彼の不安な心情を表すかのように崩れ出す。気が付くと地面はサラサラとした砂に変わり、もがくほどに足は沈んでゆく。
一度も振り向かないマリアの後姿に、ウィルヘルムは焦りを感じていた。
――マリア、待って! 行かないで! いつも一緒にいると言ったじゃないか!!
思考が次第に鈍りだし、目の前が急に暗くなる。暗い空間を走る白い少女と闇に溶けてく自分の姿。孤独に対する恐怖がより一層、彼の足にまとわりつく。
未だに無意味なことと知りながらも、ウィルヘルムは腕を伸ばし続けていた。わずかな希望にかけるも彼女は決して振り向かない。終いには目一杯、伸ばした腕の反動で彼は前のめりに倒れてしまった。
ただ彼女は前を走っているだけなのに、それだけなのに、どうしてこんなにも辛いのか。悲しみで胸が締め付けられて、ウィルヘルムは小さくうずくまり震えていた。
――マリア、お願いだ……。置いてかないでくれ……。
「わかったわ、お兄ちゃん。でも、マリアからお兄ちゃんのそばには行けないから、お兄ちゃんがマリアの所に来て!」
見上げた先には金の髪を二つに結んだ小さなマリアが立っていた。
彼女は紺色空の瞳でウィルヘルムを優しく見下ろすと、砂の中に沈みゆく彼の前にしゃがみこんで、頭を強く抱き寄せた。
「お兄ちゃん。私のお兄ちゃん。私の大好きなお兄ちゃん。私の元に来て。私と遊んで。私と一緒にいて。そしたら沢山愛してあげる。沢山たくさん可愛がってあげる。そしたらずっと一緒なの。ずっとずっと遊んで暮らすの。素敵でしょ? 楽しいでしょ? だから私だけの物になって、私だけをずっとずっと、見つめてちょうだい……」
楽しく弾む少女の声は、小鳥の歌のように澄んでいる。小さな腕に抱かれていると、心の底からぽかぽかと温かくなってきた。暗闇だと思っていた空にも星々が瞬き始めて、何もかもが美しく見えてくる。二人は恋人のように砂漠の中で寄り添い合い、溢れ出す幸福感に浸っていた。ウィルヘルムは満足したかのようにゆっくりと瞼を閉じてゆく。
「できればそうしていたいよ。でもね、マルレーン。それはできないお願いだ」
マルレーンと呼ばれた少女は不思議そうな顔をする。
「何を言ってるの? ウィル。私はマリアよ」
「ありがとうマルレーン。お前の事は本当に感謝している。でも俺はもう分かってしまったんだ。ここにはもうマリアはいない。いるとしたらそれは、悪い夢なんだ」
ウィルヘルムの言葉を信じられないとでも言うように、ワザとらしく彼を突き放すマルレーンは、大きく頭を横に振る。
「嘘よウィル!! 私を幻だと言うの?! 酷い! 酷い、ひどい、ヒドイ!!」
「ああそうだ。お前は夢だ、幻だ! 俺の弱い心が呼んでしまった悪夢なんだっ!!
俺はもう迷わない。俺のそばにはいつでもマリアがいてくれる。俺の心を支えてくれる、強い俺の妹が今もこの胸の奥に生き続けているっ!!」
ウィルヘルムは沈んでいた自分の足を力いっぱいに持ち上げて、その柔らかな砂の大地に踏み立たせた。襲いかかる孤独の恐怖と悪夢の声に反発し、暖かな光に支えられながらも己の力でまた立ち上がるのだ。
「お前には散々迷惑をかけたし、本当に申し訳なく思っている。だからこそ俺の手でお前を、お前のお兄さんの所に帰すのが、俺の役目だと思うんだ」
「勝手なことを言わないでっ!! 私の存在が邪魔になったんでしょう? 不必要になったからポイするんでしょう?! 目障りだからって殺すんでしょぅう??!!」
瞬時に作られた氷の剣が、マルレーンの心臓をつらぬいた。
勇ましさはない。格好がいい、手に汗握る戦いでも、なんでもない。
それでもマリアそっくりの姿をした彼女に刃を向けるという事は、ウィルヘルムにとってはとてつもなく心苦しい戦いである。しかしそれが彼女を救う唯一の方法だと言うのなら、彼はもう何者にも惑わされないだろう。
確実にその一点だけをつらぬいて、「ごめん」の言葉を静かにこぼした。
「い……いやぁぁぁああああっ!!」
空をも引き裂く少女の悲鳴。
夜空には大きな亀裂が入り、ガラスのように砕け散る。割れたガラスの隙間から砂漠の砂が流れ出し、夜空が朝焼けの色に染まってゆく。夢から醒める時が来た。
長く張っていた緊張の糸が少しだけほぐれて、白んでゆく空を感慨深く眺めていた。
彼女はその時を知っていたのだろう。ウィルヘルムの胸の中でうなだれていたマルレーンの顔が、何かの弾みで転がるように、ぐらりと彼の前に現れた。
見開いた瞳は黄金に輝く満ちた月。その表情はあの日、ウィルヘルムが恐怖した思い出したくもない最後の笑顔を作っている。そして息を引き取るようにしてこぼした最後の言葉は、
「死はアナタたちと共に……」
ハッと飛び起きたウィルヘルム。彼は激しく肩を揺らしながら呼吸する。どっと噴き出す脂汗。どこからが幻で、ここは一体現実か? 最後に見たマリアの顔が、ベッタリと脳裏に焼き付いて胸の中がざわついている。
自分は一体何をしていた? そうだ、確か<童話>を祓おうとして……。
悪夢を見る前の事を鮮明に思い出し、急いで辺りを見渡した。そこは四角く囲われた月のない小さな中庭で、つまりは元の場所に戻っていた。彼のすぐそばには大の字で寝転ぶラッティと、心配そうに桐子を介抱するハンスの姿があった。
「ハンス! お前……、大丈夫か? 悪夢は見なかったのか?」
「秘密。ウィルヘルムは大丈夫そうね」
「桐子たちは……まだ夢の中なのか?」
「ええ。こっちに戻る前に彼女に会ったのだけれども、私だけがはじき出されてしまったわ。迎えに行くと約束したのに……。でも、きっと大丈夫よね。彼女はずっと強い子だもの」
ハンスは優しく微笑むが、それが無理して作られた笑顔なのだということは、誰から見ても明らかだった。
◆ ◆ ◆
暗い暗い闇の中、桐子は未だに電車の中で揺れている。
一両だけのレトロな電車。木製の座席に座って、黄色いランプの明かりを眺めていた。
電車のきしむ音がトンネルの中で反響し、時計の秒針の音となって返って来る。次第にそれらの音は人々のさざめきとなり、こそばゆさを通り越して耳の中が痛くなった。
世界の天地がぐるりと回り、酔いの吐き気に襲われる。いつまで続くのかと不安になったその時に、トンネルの奥から出口の光が見えだした。電車がそのまま光の中へと飛び込むと、四角い和室に辿り着く。
逢魔時の朱の空。響くは小豆の小気味悪い音。
全ての襖は固く閉ざされているのだが、部屋の中は真っ赤な光で染められていた。
「おーさーらいっ」
和服の少女がお手玉を持て余している後姿が映し出される。
「おひとつ、おひとつ、おひとつ、おひとつ、おっひとつ、おろして……」
不意を衝いて少女が背にする豪華な襖が、ガラリと音を立てて開かれた。