009 <死神の召使いたち> ― Ⅱ
気がつくとそこは別の場所だった。
桐子は地面に倒れこみ、気を失っていたのだが、薄っすらと瞼を開けて目覚めようとしている所であった。
「うっ……」
「!! 桐子、大丈夫?」
彼女の開けられた瞼の向こう側には、心配そうに顔を覗きこむハンスの顔がぼやけて見える。
「はっ! ハハハッ、ハンス=サン!!」
ぴょんと飛び起きた桐子は急いでハンスとの距離を取ろうとするのだが、何かがとってもおかしなことになっている。なんと、ハンスは壁に座っているのだ。
「え? ハンスさん、壁に座るだなんて器用ですね?」
目の前の状況に思考が停止していると、頭上に暗幕が垂れ下がる。重たく邪魔な暗幕をどうにかどかそうと手で払ってみせるのだが、それはウィルヘルムの黒いマントであった。
「えぇ!! ウィルが天井に?! ……ヴァンパイアみたいでかっこいい」
「そういうお前も、天井で居眠りだなんて器用だな」
呆れた声で言うウィルヘルムに「え?」と返事をした瞬間、桐子は天井へと真っ逆さまに落っこちた。幸い首から着地することはなかったが、全身を強く打ってしまい大分痛い目に合ってしまう。
「こ……、これは一体なんなんですか??!!」
「何がどうって、見ての通りだろ」
彼らの目の前に広がっていたものとは、何もかもがヘンテコな、おかしく変わった世界であった。天井に植えられた草木が地面にむかって成長し、川が空へと落ちてゆく。
彼女らが目を覚ました廃屋の中も、見た感じでは特におかしなところは無いのだが、桐子たちの立つ場所がおかしなことになっていた。彼女の足元には木枠の薄い窓があり、ウィルヘルムの前には上ることのできない階段が横たわっている。ハンスが寄り掛かる崩れた壁には、丸いシャンデリアが垂直になって吊るされていた。
「やられたわ……」
ハンスが深いため息を吐きながら、気怠そうにぼそりと言う。
「初めからこれが目的だったようね」
「何か知っているのか?」
険しい顔のウィルヘルムに、気落ちしたハンスが続けて答える。
「ハウストの幻術”黒馬の檻”よ。いくつもの<童話>を編んで作っているから、抜け出すことは困難なの。この檻は<童話>の力を増幅させたり、無効化させたりすることが出来るのだけれども……」
ウィルヘルムが試しに<七羽のカラス>を呼び出そうとしたのだが、彼らが現れることは決してなかった。
「やっぱりこの場合は無効化ね。とりあえずお互い同じ場所、同じ地面に落ち合いましょう。それから一緒に出口を探すの。大丈夫、出口は絶対にあるんだから。ウィルヘルムは桐子とはぐれないように気を付けてね」
テキパキと指示を出し終えると、ハンスは慣れた様子で崩れた壁から外へと出て行った。
「……俺らも行くぞ」
今すぐにでもこの空間から抜け出したいウィルヘルムもまた、横に寝っ転がった扉に手をかけて外に出ようとしたのだが、彼は一度上に開けた扉をもう一度しっかりと閉じてしまった。
「どうしたの?」
後に続こうとしていた桐子が覗きこむ。
「なぁ……、お前はこの扉の向こう側ってなんだと思う? 外だと思う?」
彼の不思議な質問に、一緒になって首をかしげながら扉の小窓を見てみたが、そこには緑の生い茂る夜の庭が広がっていた。もちろん桐子はこの光景を見て扉の先には庭があるのだと思ったのだが、もう一度彼が扉を開くと室内の、長い廊下が二人の来訪を待ち構えていた。
◆ ◆ ◆
――――街灯の青い炎が音もなく燃えている。
ハンスは高い所から全体を見渡そうと階段を上り続けているのだが、いつまでたっても屋上にたどり着けずにいる。通って来た窓を覗いてみても、見知らぬ庭が広がるばかり。もう一度階段を上ってみるが、彼が屋上にたどり着けることは決してない。同じ階をくるくると、無限と続いているその階段は、まるで窮屈な箱の中に閉じ込められているような感覚さえも覚えさせてくれている。
それはハンスだけでなく、桐子とウィルヘルムも同様のことであった。彼女らもこの迷宮に随分と惑わされている。
廊下を歩けば行き止まり。
扉を開ければ行き止まり。
ハンスと会うために天井、あるいは壁に続いていると思われた扉または窓、トンネルなどを用心しながら見てまわるのだが、地形がまるで生き物のように移り変わって自分がいまどこにいるのかさえも分からない。普段の何ともない時や、呪われたお屋敷の観光であれば、ウィルヘルムも大いに楽しんでいただろう。しかし相手が<童話>だと分かっている今、そんな余裕は残っていない。
「まるでエッシャーのだまし絵みたい……」
「だからってなんだ?」
桐子がポツリと漏らしてしまった感想にさえ、彼は苛立った声で攻撃してしまう。何かと聞かれても、別になんともない単なる感想だ。何かが解決するわけでもないし、より一層脱出の可能性が薄まった様な気分になるだけだ。
桐子はしょんぼりと近くにあった窓を開けて、地上に広がる静かな庭を眺めていた。
どうやら彼女たちがいる場所は二階の渡り廊下のようだった。
「ウィル、そっちの窓はどこに繋がっている? 外に出れそう?」
「ん~……、ダメだな。ハンスもどっかに行っちまった」
最悪なことに、目的としていたハンス本人を見失ってしまったようだ。
次の窓も開けてみるが、隣と同じ景色が続いているばかり。
「こっちもダメ。廊下をまっすぐ行ってみる?」
しかしウィルヘルムからの返事が返ってこない。
「ウィル?」
振り返り、彼の居た場所を確認するが、そこには影すら残っていない。一本道がただまっすぐに伸びていて、他に行ける場所なんて何処にもない。
「ウィル~?」
何度呼んでも出てこない。次第に不安が沸き上がり、一人ぼっちの現実に恐怖する。
「まさか……、はぐれちゃった??!!」
慌てて廊下を走り抜け、絵画の庭へと飛び込んだ。
一直線に立ち並ぶ柱をジグザグにまっすぐ突き抜けて、階段の裏側を上っていく。天井に張り付き、小川の橋を渡って行くが、ウィルヘルムもハンスも見つからない。
まるでお化け屋敷の真ん中で置いてけぼりにされてしまったような惨めな気持ちに、今すぐにでも泣き出しそうになっていた。しかし、
「あら、桐子」
と、半ベソをかいている彼女の斜め上から、疲れ切ったハンスの声が降ってくる。
「ハ……ハンスさぁ~ん……」
見上げた先には、くたびれた様子のハンスが立っている。ほんの四、五分離れていただけなのに、一時間ぶりの再会のように感じられる。
桐子の安心しきった顔を見て、ハンスはすぐに彼女の状況を把握した。
「あらあら、ウィルヘルムとはぐれちゃったの」
「先まで一緒に居たんですけどもぉ、ウィルがどこかに消えちゃって……。とりあえずまっすぐに進んだら、ここに出てきたんです。それでもやっぱりウィルの姿がどこにも無くって……。でも、ハンスさんに会えてよかったです」
本当に嬉しそうに彼女は言うのだが、会えたと言っても二人は上下逆さまの場所に立っている。これでは一緒にウィルヘルムを探しに行ったり、出口を見つけることは難しい。
「う~ん、時間的にもそろそろ限界ね」
「?」
「桐子、その天井から離れないで、私が迎えに行くのを待っていられるかしら?」
ハンスの急なお願いに、桐子は大きく身震いした。
「わ、私もついていきます!!」
こんな薄暗い場所に一人置いていかれるなんて、たまったもんじゃない。泣きかけている桐子の目を見たハンスも、困ったような顔をするのだが、グッとこらえて心を鬼にする。
「とっても辛い事は分かるわ。でも、これ以上移動したらきっとあの子たちが来てしまう」
「あの子たち?」
「桐子、これを……」
ポケットから小さな石を取り出すと、腕を伸ばして桐子の元に落っことした。
「石? ……<童話>の道具か何かですか?」
「ええ。今は何にも役に立たないけれど、帰りたい場所への道を案内してくれる魔法の石よ。私も持っているから、そのうち何処かで引かれ合うかも。気休めにしかならないけれど、それを持っている限り絶対に迎えに行くからね。だから、ここで待っていてくれるかしら?」
とうとう観念した桐子はキュッと石を握りしめ、「無理しないでくださいね……」と潤んだ瞳でハンスに言った。彼は優しく微笑むと、背後にある生垣のアーチをくぐり抜けて、桐子の元へと目指して行く。
ハンスと会話できて少しだけ安心したのか、桐子は近くにあったベンチに思わず腰を掛けてしまった。
――――街灯の青い炎が音もなく不気味に揺れている。
その時、視界がフッと見知らぬ電車の中を映し出し、そのまま彼女を連れ去った。
◆ ◆ ◆
「……っつたく桐子のやつ、どこに行ったんだよ」
自分から離れたはずのウィルヘルムの声が、面倒くさそうに桐子の事をいびっている。
彼もまた別の部屋で桐子のことを探していた。
あの時、桐子とはぐれる前、彼は窓の外に出て渡り廊下の壁に立っていた。
元に戻ろうと地面の窓を開けるのだが、その先には新たな迷路が形成されており、元の場所に戻れなくなっていた。
ちなみに新しく形成された迷路も緑が生い茂る箱庭で、中も外も庭という……結局外しかない迷路になっていた。
どうしたものかと頭を掻きむしっていると、渡り廊下の死角に木製の古い扉を発見する。
とりあえず建物の中に入りたかったウィルヘルムは、何の迷いなくその扉を開けてみるのだが、これまた欠陥住宅のような部屋が待っていた。
扉を開ければまた扉。もう一枚開けてもまた扉。サンルームのように四方に窓が付いているのだが、その窓から次の部屋を覗き込んでも合わせ鏡のように同じ景色が連なっている。このまま進んでもいいものかと、振り返ってみるが引き返すことも躊躇するほどに後ろの景色も悲惨である。
幸いなことがあるとすれば、部屋の電気が蛍光灯で眩しすぎるということぐらいか。いや逆に、その不自然すぎる明かりが不安を煽っているようにも見受けられた。そんな中、彼は数分もの間、前進しながら桐子の行方を捜しているのだが……。
「しかし君も災難だね」
と、後ろについてきている一人の少女に優しく語りかけた。
彼女は緩いウェーブの金髪で、瞳は若草色をしているが、その姿に我々は見覚えがある。そう、彼女はあの高飛車お姫様、ラッティであった。
なぜ彼女がグリムアルムの後に着いてきているのかと言うと、ウィルヘルムが前進している最中に、部屋の中央ですっかり伸びきっていた彼女を一般人だと勘違いして保護したからである。ハンスからラッティの話は聞いていたが、彼が彼女本人に会うのはこれが初めてだ。
どうやら<消された童話>だけが持っている<童話>の臭いを隠すことができる特性のお陰で正体はバレずに済んでいるようだが、敵であるグリムアルムに保護されるなんて、彼女のプライドはズタズタに引き裂かれ、心の中では痛ましい叫び声を上げていた。
[う……迂闊だったーっ!! いつもの癖で嗅ぎ慣れない臭いに様子を見に来たら、まさかグリムアルムがウロチョロしているとはっ!!]
冷や汗をだらだらとかきながら、黙ってウィルヘルムの背中を睨んでいる。本当は背後からグサッと奇襲をかけたいが、彼女自身にそんな能力は備わっていない。
[どうしよう……さっさと<童話>を捕まえて、この場から離れたいのに力が使えない]
それに”黒馬の檻”のせいで”<童話>の結語”が使いたくても使えずに焦っている。絶体絶命の大ピンチ。そこでとった行動とは。
「本当です。お友達のお家を出たからすぐに帰るって、お父様に連絡したばかりなのに。きっと心配してますわ」
なんと彼女はプライドを投げ捨てて、ウィルヘルムの勘違いに乗っかり一般人を装っていた。その姿は正しく、桐子とハンスが初めて出会ったか弱い少女のままである。キラキラと純粋に輝く彼女の涙にすっかり彼は騙されていた。
「俺の友達も迷子になっているから、一緒に落ち合ったら脱出する方法を考えよう」
なんとか彼女を不安な気持ちにさせまいとウィルヘルムも懸命に励ますが、それが最も彼女の嫌がる事。これ以上グリムアルムが増えるだなんてたまったもんじゃない。どうにかしてウィルヘルムから離れたいと考えているのだが、なかなか彼は隙を作ってはくれなかった。
なにせ直接的でなくとも一般人が<童話>の攻撃を受けている(と思っている)のだ。グリムアルムとして新たな門出を決意した彼にとって、それは耐え難い屈辱である。今の彼の使命は一般人(だと思っているラッティ)の安心、安全な救出だ。いつも以上に辺りを警戒しているし、彼女の安否も確認する。
しかし人間の集中力なんてたかが知れたもの。長いこと続ければ粗がチラチラと現れだす。
窓や扉をどんどんと開けていき、「気を付けて」と声をかけながらも自分はなりふり構わず入ってゆく。次第に扉の開け方も体当たりするかのように乗り出して、明らかに探索の仕方が荒れていた。
「あの、もう少し慎重に開けた方がいいのでは?」
思わずラッティが敵に塩を与えてしまうほどに激しい探索の仕方だが、当の本人はそんな事には気付いていない。この扉を開けてもまた同じ部屋があるのだろう。そんな慣れも出始めていたのかもしれない。そしてついにその余裕も終わりを見せる時が来る。
今までと何の変わらぬ普通の部屋を横断し、目の前の扉に手をかける。すると同じ部屋があるのだと、そう思っていたのだが開けた先には薄っぺらいベニヤの壁があった。そして床がある所に床がない。代わりに大きな穴が空いている。
思わず踏み込んでしまったウィルヘルムは、急い余ってその穴の中へと落っこちてしまった。のだが、間一髪ドアノブに手を伸ばして助かった。が、すぐにその扉も一緒に落っこちてきて、彼は穴の中へと吸い込まれてしまった。
目の前で人が落ちてゆくのは思いの外恐ろしく、ラッティは目を白黒させながら呆然と佇むことしかできなかった。
「わ……私は注意したからねーーーーっ!!」
どんどん遠のくラッティの声。それは終わりなき奈落の底を暗示ている。
注意を怠ったことに対する罰が当たったのだと、そんなことを考える暇もなくウィルヘルムは己の悲鳴とともに深い闇の底へと消えていった。