001<兵隊と指物師> ーⅢ
日はだいぶ傾き、夕暮れの静けさが街を覆う。
学生寮へと急ぐ足は忙しく、首にかかった金の鍵のネックレスがカチカチと音を鳴らして踊っていた。
「智菊、カフェにいなかったし、もう寮に帰ってるのかな? 怒ってるだろうなぁー……荷物全部任せちゃったし……」
このまま帰っても怒られるだろうか、そこらでお菓子を見繕うか。と智菊のご機嫌取りの方法を模索している間に学生寮の屋根が見えてきた。
結局お菓子を買うのは諦めて、また今度に借りを返そうと決めた頃には正門まであと少しのところまでにたどり着いていた。が、門の前には見知らぬ青年がじっと一人たたずんでいた。
誰だろう。桐子が留学している学校の男子生徒服を着ているので、同じ学校の生徒だという事は分かるのだが、この寮は女性寮だ。男子生徒が一人で居るのはどうも怪しい。
誰か待っている人でもいるのだろうか。桐子はその場で彼を少し観察してみた。
身長はだいぶ小さいが背筋がきちんと立っていて、とても凛々しく好感が持てる。
夜の森のように暗く深い緑の短髪に一本だけぴょんと跳ねたくせ毛。雪のような美しい白い肌には血のように赤黒い瞳が二つついており、じりじりと燃えるような熱を帯びて桐子の方へと視線を送っていた。
「えっ?」っと驚く桐子。
彼はいつの間にか桐子の方を向いていて、その先の方を見ているようだった。しかし後ろを振り向いても彼女の背後や周りには誰もいない。
桐子は自分を見ているのかと青年に聞くように、自分の頬を指差して小首を傾げた。
彼は頷くことも、表情も変えることもなくただじっと桐子を見つめ続けている。
これまでの桐子の生涯、女子校にしか通ったことのない桐子にとっては少々、刺激的な出会いであって嬉し恥ずかしそうに頬を赤めるが、夕日を背負う彼の影はとても不気味で恐ろしいものであった。
ついに彼は一歩桐子に近づいた。静かな歩みではあるが堂々としていて、迷いないスピードで彼は進む。そして彼女の前へとピタリと止まり、への口に曲がった小さな口が素早く動いた。
「お前、<童話>か?」
流暢なドイツ語で声をかけられた。しかし言葉の意図がわからない。
「ど……どうわぁ?」
「お前、<童話>なのか?」
もう一度、今度はグイッと顔を近づけて聞いてきた。
長いまつげに大きな瞳。通った鼻筋に凛々しい眉。まるで絵画から抜け出したような美しさに一瞬ドキッと、彼の整った顔立ちにうっとり見惚れる。
「すみません。私、四日前に日本から留学してきた者でしてぇ、ドイツ語も全然……英語ならドイツ語よりも話せますが、その……童話か? とは、一体どう言う意味なんで……」「やはり匂うな」
「臭う?!」
急に言葉を割り切らたうえに、臭うと言われてショックを受けた桐子はその場にガクガク立ち尽くした。しかし青年はニヤリと笑い、彼女から二歩ほど距離をとる。
「とぼけたって無駄だ! おとなしくオイラに捕まりな!」
青年は意味の分からないセリフを吐くと同時に、背中のベルトに挿した短剣を取り出した。
新手の恐喝かと驚き後ずさるが、彼の握っている短剣はあからさまにおもちゃの短剣。
使い古された木製の短剣は先が丸まっており、とても安全的。子供も怪我せずに安心できるデザインだ。と思ったのだが、なんと青年の腕から赤茶色く錆びた鎖が生えて出てくる幻覚を目の当たりにした。
鎖はみるみるうちにおもちゃの短剣を覆うと、今度は鞘から剣を抜き出すようにして鎖が解かれて散り消えた。そして鎖の鞘から抜いた木の短剣だったものは、中世の騎士が持っていそうな中ぐらいの剣へと変貌し、青年はその剣先を桐子に向けて構える。
突如始まったマジックショーに驚きを隠せない桐子は理解が追いつけず硬直したまま。日の光を浴びた剣先があやしく光り、これは夢でも幻覚でもなく本物の剣だということを証明しているようだった。
溢れんばかりの敵意を惜しみなく醸し出す青年は、桐子に向かって剣を高く持ち上げ、勢いよく振るい下ろす。
あ、これはヤバイ。
「ぅわあ!」
と思わず情けない声を漏らしてしまったが、なんとかその一撃を避けることはできた。
というか威嚇か、彼女の目の前に振り下ろされた剣はその地面をえぐるように突き刺さっていた。砕けた石畳を見た桐子の瞳にブワッと涙が溢れ出す。
え、え、なに? と混乱する彼女をよそに青年は地面に刺さった剣先を引き抜いた。
「ま……待って! 穏便に話し合おうじゃないか!」
「<童話>に貸す耳は……ない!」
彼は何かを勘違いしているようだ。しかし今それを理解したとしても、彼を止める術が分からない。今度は本気で桐子に斬りつけるように青年は身構える。
足が震えて動かない。逃げようにもどう逃げればいいのか分からない。もう終わりだ!絶体絶命!と桐子は強く目をつぶり、死を覚悟した。がその時『右』と、あの、図書館で聞いた少女の声が頭の中から聞こえてきた。言われた通り、右にちょっと体をずらす。すると、なんと彼の振るった剣が桐子の体すれすれを横切って振り下ろされたのだ。
あまりのことに二人はびっくり。青年の方はこの一撃で仕留めようとしていたのか、上手くかわされてしまい面白くはない。ワナワナとこみ上げる怒りで、いままでの冷たい態度が凶変する。
「生意気な<童話>め!!」
さらに気迫がました彼は鬼の形相で剣を振るい上げる。桐子はまたも悲鳴をあげて涙をこぼすが、またあの声が『後ろに向かって……』とアドバイスを出したのだった。
『走って』
どうやら声は寮とは正反対の方を目指すようにと指示を出している。選択する余地もない桐子は言われるがままに寮とは正反対へと走り出した。
『右』『左』『登って』『左』
追いかけてくる青年の攻撃を全て予知する声は正しく、地獄に垂れた救いの糸。
落ち着き澄んだ、悲しくも優しい少女の声が一体誰なのか、何なのか。敵なのか味方なのかなんて考える暇もなく桐子は言われた通りに逃げることで必死だった。
青年の方は初めの余裕はどこへやら。桐子に攻撃をかわされてからは怒りに任せて剣を振るい、あっちこっちと建物を破壊し続けている。その殺気立った威圧感がより一層、桐子の恐怖心を煽り立てるのだが、正直その殺気のおかげで一日中歩き続けていた彼女の足は何とか逃げるために動き続けていると言っても過言ではない。
しかし体力には限界というものがあって、運動は学校の体育以外には何もやっていない桐子としては、いい加減終わりが見えてほしいと願っていた。きっと次の角を曲がれば終わりだ。次の階段を下りれば終わりだ。そう願っても終わりは見えぬまま。
次の合図が来たらもう走れないな。立ち止まろうかなと諦めを付けた時、その次の合図が頭の中に重く響いた。
『その路地を曲がって』
あぁお願いだ。この道に入ったら目の前に、沢山の人が溢れる大通りか警察署の前に出ておくれ。そう願いながら、最後の力を振り絞って桐子は路地を勢いよく曲がった。
だがそこに飛び込んできた景色は建物の大きな壁。またもや袋小路で行き止まり。味方だと信じて走っていたあの声は味方ではなかったのだ。
青と夕日が混ざる明るい空と反して路地の影は酷く重苦しい。
振り向き、路地を出ようとしたが唯一の出口も青年に立ち塞がれており、もう後がない。
「自分から逃げ道をなくすとは好都合だ。できるヤツかと思ったが……バカでよかったよ」
そう言って最初に会った時の、あの余裕たっぷりの笑顔を青年は浮かべた。
今度こそダメだ。最終回。夢のドイツに来日して滞在期間早四日。短い人生だったと、濡れた瞳に諦めの色を映しだす。膝から崩れ落ちた桐子は剣を構える青年の笑顔を確認して、静かに瞳を閉じた。
「――キウィット、キウィット。僕はなんて美しい鳥なんだ!」
空から、天使のように優しく温かい歌声が降ってきた。
その歌声は喜びに満ち溢れた幼い少女の声。頭の中で響いていた彼女のその声とは全くの別物である。青年は持っていた剣の動きを止めて、桐子ではなく声の主の方へと目をやった。目をつむり、いくら待てども襲ってこない青年に疑問をもった桐子も細く目を開けて、見上げてみる。
建物の赤い屋根の上。そこには二つの小さな影が堂々と立ち並んでいた。
逆光で暗い影を落とす二つの影は、トンっと音もなく飛び降りて桐子と青年の間に割り込んだ。一つの影がマントを大きくひるがえすと、辺りの空気は急速に温度を下げ、まるで冷凍室に放り込まれたような冷気が漂い始めた。
二つの影、一人は黒いマントの少年。もう一人は白いスカートの少女。二人は桐子を背にし、青年に向かって睨みを決めている。彼らの登場に青年も警戒心を持って二人に問いかけた。
「お前らは何者か? <童話>か?」
フッと鼻で笑う少年は、挑発するような口ぶりで話し出した。
「人に名前を聞く時はまず自分から名乗りなさい、って教わらなかったのか?」
その間も青年の持つ剣はギラギラと怪しく光りを反射し、いつ斬りつけてきてもおかしくはない状態だ。しかし青年は「……クラウン。お前らは?」と律儀に名乗った。
「ウィルヘルム・フェルベルト」
「マリア・フェルベルトです」
その名を聞いたクラウンは眉を細めてちょっと考え事をするようにしかめっ面をする。が、すぐにハッと何かに気が付いたのか、憎悪ともとらえられる表情にみるみる変わると、剣を強く握りしめた。
「フェルベルトの一族……グリムアルムか!」
グリムアムル。
聞きなれぬ名前と”グリム”という単語に気を取られた桐子は後姿の少年と少女を交互に見た。
「そいつはオイラの獲物だっ!」
クラウンがウィルヘルムに向かって剣を振るい上げる。と、それと同時かマリアが「なんて綺麗な鳥なんだろう!」と声を張り上げて歌の続きを歌い上げた。
ウィルヘルムが黒いマントにその身を包んで飛び上がると、彼がいた場所にクラウンの剣先が振り下ろされる。奴を仕留めたかと思ったが、ウィルヘルムの姿はどこにも無く、飛び上がったまま彼は一向に降りてこない。
取り残された三人の上に落ちる大きな影。そして大きな羽ばたきの音を聞いて皆は各々に頭上を見上げた。そこには何と、大きくて美しい鳥が、光り輝く羽根をまき散らしながら優雅に羽ばたいていた。
『キーウィット!!』
鳥は大きく鳴き声を上げると、クラウンに向かって勢いよく翼を羽ばたかせる。
その羽ばたきはとてつもない強風を作り出し、向かい風にクラウンはその場に立ち止まることで目一杯であった。剣を石畳の隙間に差し込み、己の体が吹き飛ばされぬようにと、重心を低い位置に置く。体勢を崩さぬように、風が来ない場所に上手く転がり込んで反撃の隙を作ろうと考える彼は、目の前の敵を見上げた。が、その羽ばたく鳥を見た瞬間にクラウンの顔が一瞬にして青ざめた。
彼は急いで剣を抜き取ると、風に乗って後ろへと転がり倒れる。次の瞬間、彼がいた場所に巨大な何かが轟音を立てて降ってきた。石畳は砕け散り、土煙が煙幕のように舞い上がると、風にあおられて飛んでいく。土煙は桐子の方にも舞い上がっていて、彼女の視界を奪っていた。しかしその煙幕もすぐに晴れると、彼女はその落ちてきた物が何なのか、確認することが出来た。それは大きな石臼だった。真ん中には大きな穴が開いており、風車か水車で使われるような白くて立派な大きな石臼。
その石臼によって舞い上がったのは土煙だけではない。砕けた石畳の破片も一緒に風に流されて飛んでいった。風が少し弱まった場所まで飛ばされたクラウンはすぐに立ち上がるも、容赦なく石畳の破片が飛んでくる。沢山の破片にあっちこっち打ちのめされながら、彼は体勢を整えて、もう一度構えの姿勢を取ろうと剣を持ち上げた。が、今度は剣が思うように動かない。
剣先をよく見ると金色の鎖が巻き付けられていた。鎖をたどった先には小さな少女マリアが、その体からは到底考えられないほどの力を持って、彼の動きを封じ込めている。
「私たちは争う気は無いの。ここは大人しく帰ってちょうだい」
マリアは優しく、困ったような瞳で訴えかけてくる。
「石臼を落としたのはお前達だ!」
しかしクラウンは引く気が無い様子。
『最初に襲ってきたのは誰だ!』
と今度は鳥が大きく鳴いた。
『我らグリムアルム以外が、<童話>を捕まえる事は許されてはいない! すぐに立ち去れ!
さもなくば、今度こそお前の頭上に石臼を叩き落とすぞ!!』
鳥の頭上に突如、虹色に光り輝く輪っかが出没したかと思うと、その光は大きな石臼に変わり鳥の足爪にひっかけられた。それを見たクラウンは力一杯に剣を振り上げようとしたが、未だにマリアの金の鎖が彼の動きを止めている。怒りの眼光でマリアに睨みつけるクラウン。するとマリアも今にも泣きだしそうな、怯える瞳でじっと睨み返す。
目の前には怪力の少女、上空には巨大な石臼を持った怪鳥。二対一と分の悪い状況下、ついにクラウンはその気迫を解いて剣に込めた力を解いた。
「分かったよ。フェルベルト相手じゃしょうがない。ここは譲ってやるよ」
剣を腰に掛けてあるベルトに収めると、元の木彫りの短剣に戻っていた。そして、悔しそうな顔をして彼はその場を静かに立ち去って行った。
鳥が大きな翼に我が身を隠すと、羽根が黒い布に変わった。そしてその布がふわりとなびくと中からウィルヘルムの姿が現れた。彼が静かに地面に着地すると、マリアが急いでウィルヘルムの元へと駆け寄っていく。そして彼を強く抱きしめると、にっこりと笑った。彼もそれに応える様に、マリアの小さな頭をやさしく撫でてやる。それはお互いの功績を称える、微笑ましい光景にも見えるのだが、すぐに彼らは桐子の方へと向きを変えて、あの鋭い目つきで彼女を見つめた。
――譲ってやる。
クラウンが最後に言った言葉を思い出し、この子たちも自分を狙っているのかと、桐子はその身を強張らせた。たびたび続く非現実的な出来事や、恐ろしい気迫を持つクラウンを追い返した実力を持つ彼ら。果たして自分は何ができるのだろうか。恐怖に震える桐子に待ち受けていたもの。それは思い描いた最悪な展開とは裏腹なものだった。
「大丈夫ですか?」
とマリアが心配そうに桐子の両腕を取り彼女の身を案じてくれた。
濁りない金色の髪にサファイアのような大きな瞳。なんて可愛らしい子なのだろうと見惚れて「うん……大丈夫」と空返事を返してしまう。
「失礼ですが、お名前は?」
「す……菅 桐子……です。あの……助けてく……」「キリコ。それが本当の名前か?」
今度はウィルヘルムが疑いの目で彼女たちの間に割って入ってきた。桐子の顔を覘く彼も又、クラウンほどではないが可愛らしくも整った少年らしい顔立ちをしている。綺麗な黒髪にサファイアの色した瞳。その宝石のような両目が桐子を睨みつける。
「え? あ、はい」
急な問いかけに桐子は考えようなしに答えた。すると彼は力強く桐子の腕をつかみ「こっちに来い!」と、荒々しく引っ張る。重い足を何とか立ち上がらせて、引きずられるがままに彼らについていった。
一度出口を出てから大通りに抜け出すと、見覚えのある路地裏への入口へと入っていく。道は魚を捕まえる罠のようにだんだんと狭くなっていき、一人ずつ通るのでやっとのことだった。
しかしその道も終わるとあの小さい広場に出てきた。連れられた先は行き止まりの建物の後ろ側。なんとそれはあの童話図書館なのであったのだ。
二人は迷うことなく図書館の扉を開けて中の人を呼ぶ。すると呼ばれて出てきたのは初めに会った黒いドレスの大男。
「ハンス、捕まえてきたぞ」
「ご苦労様、二人とも」
二人はこの大男、ハンスと知り合いらしく桐子を置いて先ほど起きた出来事、クラウンとの決闘の話をし始めた。そしてウィルヘルムが桐子を指さし「コイツ、自分の事を憑りついた人間自身だと思い込んでやがる」とよく分からないことを口走った。
「はぁ?!」
空気が抜ける様に洩れた桐子の声。それを合図に、彼女の中にせき止められていた色々な感情がついに爆発した。
「いや、思い込んでいるも何も私は正真正銘、私です。菅 桐子!」
初対面である自分を否定されたことに対しての怒りを彼ら二人にぶつけるが、それでも二人の視線は怯んでしまうほどに冷ややかだ。例え彼らの視線に怯んだとしても、彼女はここで引き下がらない。もしかしたら、先のクラウンのように襲ってくるかもしれない。
自分の身は自分で守らなくては。と、そう思った桐子は涙で濡れた顔を袖で力強く拭き上げる。そして、何の疑いのかけようのないほどの堂々たる姿勢を取り、自分の事を語り出した。
「菅 桐子! 出身国、日本国! 1995年 3月3日生まれの現役女子高校生! ほらパスポート!!
好きな食べ物はどら焼き、せんべい、塩じゃけで、嫌いな食べ物は特になし! 強いて言えば渋辛いもの!
得意技はお手玉で、苦手な物は幽霊とか……お化け……。でも、可愛いものとか本は大好き! 特に弱いのがグリム童話!!」
「グリム童話……?!」
その言葉に一番にマリアが反応した。ウィルヘルムの背後に隠れていた彼女が「グリム童話って、あのグリム童話のこと?」と桐子の元に駆け寄る。マリアの瞳はキラキラ輝き、桐子の両の手を勢いよく取った。楽しそうに掴んだ手と手を跳ねさせて「何のお話が好き? どの子が好き?」と嬉しそうに語りかける。可愛らしく、微笑ましい光景であるのだがウィルヘルムにはそのようには映っていない様子。イライラとした態度を取り「マリア! そいつから離れろ」と怒鳴り声をあげて命令した。怒られたマリアは驚いたようにパッと手を放すと、クスクス笑ってウィルヘルムの後ろに隠れてしまう。
「いい加減とぼけるのも大概にしろ!」
怒鳴る矛先が桐子に変わり、彼は桐子に詰め寄った。桐子も彼に負けじと腕を組んで向かい受ける。
「とぼけるって何を?! 私は別に何もしてないし、あなた達の言う……童話が、あーだらこーだらなんて、まっっったく知らないって言ってんの!」
二人は顔を合わせていがみ合う。このままではらちが明かない。呆れ顔で見ていたハンスはマリアに声をかけた。
「ねぇ、ちょっとお願い」
その一言だけで彼女はにっこり笑うと「分かった!」と良い返事をした。いまだにいがみ合っている二人の間にマリアがスッと入ってきて「ちょっと失礼しますね」と言って桐子の匂いを嗅ぎ始めた。
「え? え? 何々?! 今度は何ぃ?!!」
すんすんっとマリアの可愛らしい鼻が鳴る。
「ひゃえ~! 今日は一日中走って汗臭いから、本当にやめて! あのクラウンって子にも、臭うとか言われて傷ついてるんだから!!」
「クラウンくんも匂うって言ったの?」
確認をとるマリアに、顔を赤めながら小さくうなずく。
一通り嗅ぎ終わると、マリアは小首をかしげてうーんと考え込んだ。
「どう? 何の子か分かりそう?」
「うんとねぇ……薔薇の香りがするのハンスちゃん。でも、おかしいの……」
そして続けてこう言った。
「なんか、彼女の<童話>は眠っているみたい」
「眠っている……?」
その言葉にハンスとウィルヘルムも深く考え事をし始めた。
「どうやら彼女が言っていることは、本当のことかもしれないわ」
「だーかーら! 最初っから言ってるでしょ!! 私は私! 菅 桐子!
あなた達、一体なんなんですか?! 童話が憑りついている? 私、今日何度も殺されかけたんですよ! ちゃんと説明してください!!!」
この図書館に来てから今日一日、菅 桐子の世界は今まで過ごしてきたどの世界とも違っていた。彼女はこの、非現実的な事実を理解できなくとも、今日起きたことについての説明を欲していた。このまま一人置いてけぼりに話が進んでもらっちゃあ困る。何故に自分は殺されかけたのか。それだけでも理解したい。
彼女の気持ちを汲み取ったのか、ハンスがゆっくりと桐子の前に歩み寄る。もう彼の表情は初めに会った時のように怒っても、先のように冷めてもいない。優しく困ったように微笑む彼の顔。真っ赤な瞳がじっと桐子の瞳を見つめてる。
「そうね、沢山ご迷惑をおかけしたから、アナタには話さなくてはいけないみたいね。
申し遅れたわ。私はハンス、この図書館の館長をしているの。そしてこの子達、グリムアルムの責任者」
「その……グリムアルムっていうのも何なんですか? グリム童話と……関係あるんですか?」
せっかちな桐子に対してハンスは変わらず落ち着き払った態度で、ゆっくりと話し出した。
「それを今からお話しするのよ。他の人には内緒。私たちだけの特別な<童話>だから」
<つづく>