009 <死神の召使いたち> ― Ⅰ
六月の陽は長く、町はまだ傾いた太陽の日差しに白く染められている。
時はすでに午後の七時をまわっており、明るい夜が続いていた。そんな明るい夜の中、一人の少女が息を切らしながら走っていた。
それは今から十分ほど前の事だった。
彼女、菅 桐子が暮らす学生寮の共通電話機が大きな音を立てて鳴り響いた。
電話の主は童話図書館の館長ハンス。用件は桐子の力を借りたいという事。しかし彼の話を聞く限り、彼女の力だけでは不十分だった。手伝いたい気持ちはあるのだが……。
悔しいが足手まといになると思って、丁寧にそのお誘いを断ろうとしたのだが、
「大丈夫よ、その道のプロが戻ってきたから」
と言う、意味深い言葉を告げられた。
初めはその言葉の意味が分からなかったが、とある人物の横顔が頭の中によぎると、桐子の足はもうすでに学生寮の外へと駆け出していたのであった。
桐子は図書館の玄関扉を勢いよく押し開き、呼吸も乱れたままに目の前の少年を、驚きと感動した瞳で見つめていた。そこにはハンスが新しく仕立てた黒いマントに身を包む、凛々しく成長したウィルヘルムの姿が立っていた。
「ウィル! 戻ってきてたの?! 怪我はもう大丈……!! その格好は!」
「ふん、喜べ。お前が心配で帰って来た!」
そう言ったウィルヘルムは新品のマントを大きく広げてにっかりと笑った。
「でも、栞は?」
「<夏の庭>……。マリアが託してくれたんだ」
マントのポケットから厚紙に張られた白い栞を取り出すと、彼はそれを桐子に手渡した。桐子は白い栞を手に取ると、愛おしそうに抱きしめた。
「マリア……」
「んな顔すんなよ。マリアはようやく収まるべき場所に収まった。五年もかかっちまったがな……。今頃のんきに昼寝でもしているよ」
冗談が言えるほどに回復したウィルヘルムに、桐子は心の底より安心した。そして桐子が出会ったマリアが偽物のマリアであったとしても、彼女は二人のマリアの為に深い祈りを捧げていた。そんな彼女を寂しくも、優しい眼差しでウィルヘルムは静かに見つめている。
もうウィルヘルムからは、かつてのマリアに対する執着心を感じることはできなかった。
それは彼がきちんとマリアの死を受け止めて、自分の中に彼女が生き続けていることに気が付いたからである。その自信に溢れた姿は彼が一回りも大きく成長した証なのだと、その場にいる誰もが強く感じ取って、新しい彼を迎い入れた。
「それじゃあ用意も整ったことだし、依頼主の家に向かいましょう。桐子には目的地に向かいながら今回の依頼を話すわね」
赤い本を開いて小人を一人呼び出したハンスは、彼にお留守番を頼んで図書館を出た。そして三人は暮れ行く夕日に背を向けて、依頼主が待っている町外れの住宅街に向かうのであった。
依頼主は元々この町にいたわけでなく、最近引っ越してきたばかりの男性。
彼は引っ越してきたその日から不思議な夢を見るようになった。それは自分や自分の周りで起こる不幸の予兆。夢を見たその日は体調不良になる事はもちろんのこと、財布を無くすわ、犬のフンを踏むわ、いつの間にか親が死んでるわ……。他にも親戚という親戚が次々と亡くなったり、自分がちょっとでも意識した人は誰もが良い死に方をしなかったという。
偶然続いてしまっただけだと気のせいにしたくとも、彼の親しい人々は彼を置いて逝ってしまった。
いい加減うんざりし、終わりを願ったある日の夜、あまりにも酷い夢に唸らされて彼は思わず飛び起きた。そしてベッドの片隅に、見知らぬ女性が腰を掛けて恨めしそうな瞳でジッと自分を睨んでいたという……。
「私は幽霊とかの類は信じていないのだが、悪魔だと困るのでどうか見にきてほしい」
ハンスの回想の中で、目の周りが真っ黒に染まった男が苦しそうに頼み込む。
「悪魔と関わっていたような節があるのかしら?」
「実家が……、悪魔崇拝をしていた城の跡地に建てられた物なんだ。
その城は頻繁に悪魔召喚の儀式をしていたようで、多くの人々が生贄として犠牲になったとされている。きっと故郷を離れた私に悪魔がついてきたんだ」
「その前にちょっと……」
申し訳なさそうに桐子が小さく手を挙げた。
ハンスは依頼主の話をやめて、小さく震える彼女の方に振り向いた。
「ウィルもいるし、今の話を聞く限り私の力は不必要なのでは……ないでしょうか……」
怪奇的現象が大の苦手な桐子にとって、この手の依頼は何としても避けたい案件。しかしハンスは口角を上げたまま、眉をひそめて真剣に話し出す。
「今回の<童話>がね、夢に関する<童話>なの」
「夢? ですか……」
「夢は夢でも夜に見る方の夢よ。
この間、グリムアルムの記録帳の中に<いばら姫>に関する記述を見つけたの。彼女は眠りの力を司っていると書いてあったわ。依頼主の話を聞く限り、相手の<童話>も眠りに関する力。お互いが知り合い同士ならば、今日中にも<いばら姫>を祓えるかもしれないわ……」
期待に満ちたハンスの声に、桐子は「はぁ」と気の抜けた声を漏らしてしまう。そんなに上手くいくものなのか。
<いばら姫>の能力は周りの人々を眠らせてしまうという事は、すでにクラウンの<守護童話・シャトン>から聞いていた。今一度ハンスの口から言われても、なんともパッとしない能力だ。
「なんか……、大したことなさそうな能力ですね」
「そんなことないわよ。ハウストの一族を覚えてるかしら」
グリムアルムの面汚しだと言って、ハンスが嫌っている一族だ。桐子は深く頷いた。
「あの一族が得意とする<童話>の力はね、幻覚操作なのよ。夢や眠りもその幻覚の一つだから、案外侮ってはいけないわ。
もちろん、桐子には危険な目一つ合わせないようにするから安心してね。あくまでもその<童話>が<いばら姫>を知る<童話>なのか、はたまた知るための力を持つ<童話>なのか、それを見極める為にアナタを呼んだの。<いばら姫>に取り憑かれたアナタをね。だから不必要だなんて言わないで!」
優しく言っているようだが、どこか棘を隠しきれていない言葉に桐子はカチコチになりながら三度頷いた。決定権を持つことすら許されていない立場にいると知り、彼女は重くなった足を引きずりながら、懸命に彼らの後を着いて行くのであった。
そんな話をしているうちに、三人は町外れの寂れた住宅街にたどり着く。
この町全体が観光地であるお陰で見た目こそは荒れはててはいないのだが、人が住んでいる気配は殆どない。それもそのはず。ここに住んでいた住民のほとんどが新しくできた住宅街に引っ越してしまい、今ここに残っているのは低収入者か物好きぐらいになっている。
ツタが這う塀を通り過ぎ、錆びついた門を無断で開く。コの字型に建てられた建物の前には石畳の道が続く庭があり、出入り口はその錆びた門しかないようだ。
ハンスはずんずんと石畳の上を歩いて行き、正面の建物の前に立つ男に向かって挨拶をした。おそらく彼が依頼主なのだろう。
男は骨のようにやせ細り、腰は老人のように曲がっている。顔も痩せすぎていて目玉がぎょろりと飛び出して、お化け屋敷にいてもおかしくない人材だと誰もが思った。むしろお化け屋敷から逃げ出して来たのではないかと疑ってしまうほどに不細工である。
「おっ、お待ちしておりました。グリムっアルム様ぁ……」
男は妙に突っかかる言葉使いでハンスたちを歓迎する。そして背後にある建物の玄関を静かに開けると、その先には急な階段が三人の訪問を出迎えていた。
「にっ二階の部屋っで、ございますぅ……」
依頼主の男を先頭に、古ぼけた階段を上って行く。階段がミシミシッと恐ろしい音を立て、抜け落ちる恐怖を桐子たちに植え付けていた。
「こっ、こちらのぉお部屋でございますぅ」
階段を上がってすぐ右の、これまた古い扉を指差す。
「かかかっ貸家、のっ上をぉ一ヶ月ほど、借りてっますぅ」
なるほど。しかし、この男の喋り方はどうにかならないものか。しゃっくりのようにも思えるし、寒くて呂律が上手く回らないようにも感じられる。挙動もおかしくていかにも怪しい。
男の気味悪さに桐子は狭い踏場の中で、小さく震えて壁に手をかけた。
「こんなのでビビってんのか?」
きしんだ床板の音を聞いて、ウィルヘルムは鼻で笑ってみせた。
「ウィっ……ウィルは怖くないのぉ?」
「全然」
「むしろワクワクしてるんじゃないかしら? アナタ、ホラー映画とかサスペンス映画が好きじゃない?」
「それとこれとは全く違う! 仕事と趣味を一緒にすんな!」
小さく怒鳴ったウィルヘルムは、桐子とハンス。そして依頼主を押しのいて部屋の扉に手をかけた。そして何の迷いなく、ドアノブを回転させてしまう。
――――キィィ……。
不気味な音を立てて扉が開いた。中は一般的なホテルよりも少し広めのワンルーム。中庭側の壁には大きな窓が二つも付いており、夕暮れの鋭い西日だけが部屋の中を眩しく照らしている。その分落ちる影も墨のように深くて暗い。床には埃が降り積もり、天井には蜘蛛の巣が張られている。
だがそんな事よりも、桐子はこの建物の中に入ってしまったことを酷く後悔していた。なぜなら部屋の片隅に、ベタすぎるお化けがいるのを見つけてしまったからである。
白いベッドのシーツの上には、こうべを垂らしてすすり泣く女が一人きり。お約束のように白いネグリージェを身にまとって両手で顔を覆っている。
先頭に立っていたウィルヘルムが一足先に、確認しようと女の方へと近づいた。その後に
ハンスと桐子、そして依頼主の男がゾロゾロと部屋の中に入って行く。
男は女を見るや「あっあの女ですぅっ!」と怯えた声で彼女を指差した。女は未だにすすり泣く声を出している。
「ウィルヘルム……」
ハンスの合図にウィルヘルムはコクリと小さく頷いた。
彼はポケットから白い栞を取り出して、さらに女に近づいたのだが、彼は急に動きを止めて女をじっくりと観察し始めた。
辺りが次第と寒くなり、焦げた臭いが漂い始める。<童話>がいる証拠がそろいつつあるのだが、彼は指一本も動かさない。
「誰? 誰かそこにいるの……?」
と女の声。
「私は貴方のために、何かをすることはできないの……。お願いだから帰ってちょうだい」
その声を聞いた途端、ウィルヘルムの中に渦巻いていた疑問がある確信に変わって、急いでハンスの方へと振り向かせる。
「ハンス! コイツは違う!! <童話>はヤツだっ!!」
ウィルヘルムが見つめる先には腰の曲がった不気味な男。ハンスと桐子は背筋を逆撫でる異様な寒気に引きつって、慌てて背後を確認した。そこには虚構を映した男の顔。三人が男を見た時にはすでに遅く、もぬけの殻となった男の黒い瞳に、三人の視界は吸い込まれるようにして奪われた。