008<ネズミの皮のお姫様> ― Ⅰ
時は少しほど遡り、ウィルヘルムが入院してから二週間目の頃の話しである。
桐子たちの通う学校の前に大きなビルが建っているのだが、そこから誰かが双眼鏡をのぞいていた。
屋上のタイルに這いつくばり、暗い陰に隠れて校舎の中を観察している。
「王子様よ、王子様。私の王子様はどこにいる?」
少女の愛らしい声が歌のように溢れ出す。
そして目当ての人を見つけたのか「あ!」っと嬉しそうに立ち上がった。
「居たわ……。私の運命の王子様!」
* * *
「それでは本日より、ニーチェについて学習していきます。
本を見ないでみんなの知っているニーチェの言葉を言ってみて」
狭い教室の中、ほとんどの生徒たちが一斉に手を挙げる。
教師に指名された子たちは各々が知っているニーチェの名言をつっかえる事なくスラスラと発言していくが、その中で桐子は頬杖をつきながらボーッと窓の外を眺めていた。
「次、久保田さん」
「はい。
なんじ、怪物を倒すなら怪物になるな。
暗闇を覗くとき暗闇もお前を覗いている」
「はい。それじゃあ、次」
誇らしげに言った智菊の言葉に桐子は、
ーーまるであの日のウィルヘルムの様だ……。
と二週間前のことを思い出した。
<童話>に支配され、大熊のような獣と化したウィルヘルム。
彼はそのまま理性を失い、獲物を狩るようにクラウンを殺そうとしていた。
最後はクラウンがウィルヘルムの<童話>を封印した事により、なんとか決着はついたのだが、あのまま暴走していたら彼は人殺しになっていたかもしれない。
そう思うと心の底からゾッとする。
桐子は授業中にもかかわらず、大きなため息を漏らしてしまった。
その吐息は前の席に座る智菊の元にも届き、最近元気のない桐子を心配する彼女の良心を大きく刺激した。
「本日の授業はこれまで。
次回までにニーチェの言葉を最低三つ、自分なりの解釈を交えてまとめて提出するように」
授業終了のベルがなり、帰り支度をする生徒たち。
智菊は変わらぬテンションで桐子の方に振り返った。
「よっ、桐子にゃん! 今日は図書館に行かないの?」
「んー、どうしようかな」
「二週間近く行ってないんじゃな~い?
あ!! 元彼とのデートスポットだから行きづらいとかぁ~?!」
「そんなんじゃないよ」
いつもならこんな冗談に「まさかぁ~!」と笑って吹き飛ばす桐子が、気怠そうに否定した。
智菊は驚き、目をパチクリと瞬きさせるが、桐子の気持ちにもなれば無理もないと納得した。
「うん……、まぁ、ウィルヘルムくん、大変だったよね。通り魔に襲われただなんて……」
ウィルヘルムとルドルフとの一件は、四月に起きた通り魔事件と同一事件として処理されていた。
「犯人、捕まってなかったんだね。それに発砲事件もあったみたいだし」
「うん……」
「お見舞いに行かないの?」
「面会拒否だって。誰にも会いたくないみたい……」
「そっか……」
すっかり気を落としている友人をなんとか励ましてやりたいのだが、なかなかいい話題が出てこない。
沈黙が続き、上の空となっている桐子をどうやって呼び戻そうかと智菊は色々考えた。
そして苦肉の策として飛び出た話題はなんともまぁ、彼女らしくもない学校の奇妙な噂話であった。
「ねえ、隣のクラスのイケメンくん、腹痛で今日はお休みだって」
「へぇ」
「この前はイケメン先輩が、舌が痺れたとかで病院に担ぎ込まれていたみたいだよ」
「はぁ」
「さらにその前は、イケメン先生がトイレで脱水症状に! しかもみんな昼休み、学食を食べた後からだって」
「ほぉ」
「でもさ、私たちも基本学食じゃん? 同じメニューの日替わり定食」
「私たちイケメンじゃないし、美人でもない……」
「それとね、みんな同じ人に介護されたんだけど、その人がポツリと言ったんだって……。
”ちがったか”……って」
「ふーん……」
「少しは興味持って欲しいなぁ~。事件の香りがすると思ったんだけどなぁ〜……」
ただの食中毒ではなく、何者かの仕業だと?
幸いこの二週間、<童話>や別のグリムアルムたちが襲ってくるようなことはなかった。
そろそろ誰かがけしかけて来てもおかしくはない頃だろう。
しかし、イケメンだけを下痢にする<童話>なんてあっただろうか。
古城での戦い以来、ハンスにも会っていない。
「やっぱり行こうかな……、図書館。ハンスさん元気にしているか心配だし」
「うんうん! ところで桐子はん、ハンスさんって誰や。イケメンか?」
……
………………
………………………………
…………………………………………
「イケメンが心配」
「うん」
「もう! せっかく久しぶりに来たと思ったら! ……知らせがない事が良い知らせ、っていうのは間違いね」
その言葉に桐子はハッとする。
彼女は童話図書館にいるハンスのもとへと尋ねに来ていた。
テーブルに着いている彼女の前には、腕を組んでつまらなそうに口を尖らせるハンスが。
しかし彼は、桐子の驚く顔を見ると優しくにっこりと微笑んだ。
「あっ、ごめんなさいハンスさん。私、別にそんなつもりじゃ……」
「いいの、いいの。来てくれただけで嬉しいし、<童話>に襲われたんじゃないかってヒヤヒヤしてた」
変わらぬハンスの笑顔に桐子の心は安堵する。
最後に見た彼の顔は死人のように蒼白で、それでも無理に作った笑顔が無機質すぎて恐ろしかった。
しかし今の彼はちゃんと元どおりの顔色に戻っている。
いつもの黒いドレスを身にまとい、黒い手袋をはめている。
まるで何事もなかったかのように。
「でもまぁ何かしらね。食べ物に手をつける<童話>なんて沢山あるし、食中毒を起こすような<童話>なんて、こじつければもっと出てくるでしょうしね……どれかしら」
そう言ってハンスは、<童話>を封印している赤い本の童話集と市販のグリム童話集を見比べて該当しそうな童話を探していた。
だがこの作業は随分と時間がかかりそうだ。飲んでいたコーヒーのカップもすっかり空となり、桐子は無意識にため息をついてしまう。
痺れを切らしている桐子に気が付いたハンスは静かに本を閉じた。
そして手っ取り早い方法を、言いにくそうに提案する。
「忘れがちだけど、<童話>ってみんな魔法使いじゃ無いのよね。
せっせと準備してから襲ってくる律儀な子だっているし……」
「そっか。それじゃあ、夜に食堂を監視していれば」
「本当に<童話>の仕業かどうか分からないのに乗り込みに行くのは不安だわ。
だけど、このまま放って置くわけにもいかないし……。
しょうがないわね、少し様子を見に行きましょう」
そしてその日の夜、桐子は寮を抜け出して、ハンスとともに学校へと潜入した。
二人は辺りを警戒しながら急いで校門をくぐってゆく。
夜の学校といっても街灯の電気がポツポツと続いており、真っ暗という訳ではなかった。
しかし昼の賑わいを知っていると、とても寂しい。遠くの方で車が走る音だけが聞こえてくる。
「ハンスさん……ハンスさんもマリアの事……、知ってたんですか?」
桐子はずっと聞きたかった事を、寂しい声で彼に聞く。
ハンスは振り返る事もせず、ただ「えぇ」と簡素に答えた。
やっぱりそうなんだ。と桐子は悔しそうに俯いた。
自分だけが知らなかった。
いや、知っていた所で彼女に一体何ができたであろう。
それどころか桐子は、彼女の言葉が無ければ今もなお<童話>に対して偏見を持っていたかもしれない。
そしたら彼女と友達同士にはなっていなかったかもしれない。
しかし桐子はその可能性だけは否定した。
彼女はちゃんとウィルヘルムの事を慕っていた。好いていた。
それは部外者である桐子が見ていても明白な事実であって、恐ろしい者、忌むべき者と<童話>たちを毛嫌いしていた桐子にとって、その事実はとてつもなく大きな光であった。
もっと早くに彼女が<童話>だと知らされていれば、<童話>への偏見も早いうちに拭えたかもしれない。
彼女に過度の無理をさせず、今も一緒に歩むことができたかもしれない。
だけどもこれらは過ぎた事。
後悔したって彼女は帰ってこない。
桐子はもう一つ、ハンスに聞きたかったことをポツリと口に出した。
「本当のマリアって……、どんな子だったんですか?」
「知らないわ。私が彼女に会ったのは、彼女が生まれた次の日と、彼女の葬式の時だけよ」
ハンスもしっかりとマリアの葬式と言い切った。
本当に彼女はとっくの昔にこの世からいなくなっていたのだった。
素っ気ないハンスの言葉に桐子の胸は締め付けられる。
ハンスだって、相手が捕まえるべき<童話>であっても、彼女とは五年もの間ずっと同じ屋根の下で暮らしてきたのだ。
きっと桐子が来なかった間にも、彼は彼女について深く悲しみ、悩んでいたに違いない。
だからもうこれ以上、彼女について何も話したくはない。と、だからあんな風に素っ気なく答えるのだ。と、そう勝手にハンスの言葉を解釈した桐子は、もう何も聞かないように静かに彼の後をついていった。
外の壁が一面ガラス張りの食堂に二人はそろりとやって来る。
入り口の門はすんなりと入れたが、こちらはちゃんと鍵がかかっていた。
いいや、ここだけでなく校舎全体の戸締りはしっかりとされていた。
侵入口がどこにもないと焦る桐子とは裏腹に、ハンスは涼しい顔をして自分の髪留めを外している。
真っ赤なリボンにつけられたフクロウのブローチ。
まさかブローチの針で鍵開けをするのかと思ったがそうではなかった。
フクロウの鉤爪には小さな鍵が掴まれており、それを取り外すと入口の鍵穴に差し込んだ。明らかに鍵と鍵穴のサイズは合っていないのだが、カチャリと小さく音を立てて扉は開いた。
「え?!」
っと声を上げて驚く桐子。
とっさにハンスは口の前に人差し指を立てて、静かにと彼女にジェスチャーをした。
そして彼は何事もなく、静かに食堂の中へと入っていく。
いつもは沢山の学生たちで溢れている憩いの場も、今は暗い夜の闇に沈んでいる。
月明かりも薄っすらとしていて探索するのも困難だ。
二人は極力音を立てぬよう、そろりそろりと厨房の方へと近づいてゆく。
本当に<童話>の仕業であれば、<童話>の匂いが一つや二つ、香ってきてもいい頃なのに、未だにハンスは足を止めたり、赤い本に手をかけたりすることもしない。
<童話>の仕業だと思っていたが、違かったのか。
ハンスに余計な手間をかけてしまったと反省を感じていたその時、冷蔵庫からガシャンっと大きな鍋を落とすような音が響いた。
「誰?!」
ついにハンスは声を上げ、手持ちのペンライトで音のした方に明かりを当てる。
そこにはネズミの皮でこしらえた可愛い帽子を深々とかぶる、小汚い少女が一人いた。
彼女は口いっぱいに食べ物を詰めこんで、こちらを見ながら固まっている。
しかしすぐに状況を把握した彼女は、一気に食べ物を飲み込んで、流暢な言葉遣いでハンスらに語り出した。
「ごめんなさい! 私、そこの公園に住んでいるものでして……。一週間も何も食べていないんです。
空腹に耐えられなくなって、ついこの学校に忍び込んでしまいました。
本当に申し訳ございません……」
彼女の両目はたっぷりの涙で潤んでいる。
キラキラと純粋に輝く彼女の涙に桐子は深く同情し、ハンスも「そう、かわいそうに」と憐れみの言葉を送った。
が、「ロバ皮姫」と付け足した途端、彼女の態度は変貌する。
「っだーれが”ロバ皮姫”じゃヴォケェー!!!!
目ん玉かっぽじって、よーく洗浄して来いやぁ! この愛らしいネズミの帽子が目に…………」
「……」
「……」
「……目……に…………ロ……ロバ……皮、姫? って……、ペロー童話の”ロバの皮”かしら?
そんな! 私がお姫様だなんて恐れ多い!!」
少女は恥ずかしそうに顔を紅く染め、手を大きくバタつかせる。
しかし今更そんなおとぼけをしたって誰も信じてはくれないだろう。
現に桐子はぽかーんと口を開けてアホズラを晒している。
「今更ごまかしてもダメよ<ネズミの皮のお姫様>」
ハンスが挑発的な声で煽ると、彼女はか弱い少女を装うのを諦めて堂々と胸を張り、腕を組んだ。
「ふんっ、よく分かったじゃない。やっぱり<童話>の香りってやつ?」
「いいえ、ただの賭けよ。
<ネズミ皮>は消された<童話>の中で特にプライドが高いって、グリムアルム内では有名な話だからね。わざと間違えてあげたの」
「ふーん……」
恐らくピンチな状況なのは<ネズミ皮>の方なのだが、彼女は驚くことも警戒することもなく、呑気に爪の垢を掃除している。
「だけどあなた達、一度だって私の事を捕まえられなかったじゃない」
ハンスは分が悪そうに唇の端を噛んで<ネズミ皮>の動きを用心している。
彼女は相当の厄介者のようだ。
しかし、桐子は<童話>の正体が分かったというのにキョトーンと固まったままである。
それどころか、困ったようにハンスの顔を見つめている。
「ハンスさん……あの、大変申し訳ないんですが……<ネズミの皮のお姫様>って、どんなお話なんですか?」